あたしを誰よりも必要としてくれる存在があって。
もしそれがあたしの誰よりも必要とする存在だったとしたら。
きっと、どこまでも寄り添える気がするよ。
こぼれる全て、受けるキミ
大学時代の友人が結婚式を挙げた。
ちょっぴり頬を赤くして笑う彼女は、とても綺麗に見えて。
彼の腕にしっかりと掴まる姿は実に幸せそうだった。
――紙吹雪の中並んで歩く新郎新婦。
あたしを見つけた彼女が歩み寄って来て、何やらそっと耳打ちする。
『クミコモ ガンバレ』
少しいたずらな笑みを浮かべる彼女に、苦笑いを返す事しかできなかった。
「よぉし もう1軒行くぞぉーーー!!」
そしてあたしは今、夜の飲み屋街にいる。
「げっ マジ?」
「おいおい そろそろお開きにしとかねぇ?」
「時間も時間だしさ」
「てか明日って月曜じゃん・・・」
こいつ等はあたしの“元”生徒たち。
結婚式の帰りに偶然バッタリと会ってそのまま(強引に)飲みに連れ立ったというわけ。
いつの間にかこいつ等も酒が飲める歳になっていたのだから驚きだ。
時間が流れるのは思っていたよりずっと早い。
「もう1軒だけだってば ほら行くぞーっ!!」
「ダメだ こいつ気く耳なし」
「もうやめとけって ヤンクミ足ふらついてんじゃん」
「なぁに言ってんだっ あたしは全然だいじょお・・ ぶゥぅ!?」
履き慣れていないヒールに足がもつれて重心を失い倒れそうになる。
と、危ういところで後ろから腕を掴んでくれた手があった。
「大丈夫じゃねぇだろ全然」
ため息混じりの呆れた声。
ああ、昔からこいつはこうだったよなぁ。
「ふっふっふ よくやった沢田! 誉めてやるっ」
「・・・俺はおまえの子分じゃねぇぞ」
「んな不機嫌そうな顔するなってば おーよしよし」
あの頃のように、手を伸ばしてその頭をクシャクシャに撫でようとした。
けれどそれは未遂に終わる。
この手をあいつが避けたから。
――ああ、そうだよな。もう子供じゃないんだもんな。
そう思いながらもやっぱり少し寂しくて、胸の痛む感覚がした。
「俺こいつ送ってくから ここで解散な」
「・・へっ」
「おぉ さっすが慎ちゃん♪」
「でもこんな酔っ払い1人で大丈夫かー?」
「ヤンクミぃ あんまり慎に迷惑掛けんなよっ!」
「今度みんな集まるとき呼ぶからさ」
「ちょっ・・・え?え?」
「「「 じゃーなー!!! 」」」
「待てよおいっ」
やっと解放されたぁ とでも言うような笑顔で奴等は手を振りながら去ってゆく。
「行くぞ」
少しムッとしながら振り向くと、右隣りに居た筈のあいつはすでに歩き出していた。
思わず慌ててその背中に追いつき並べる肩。
「ったく みんなして冷たいなぁ もう少しくらい付き合ってくれたって・・」
「おまえのペースに合わせてたら身が持たねぇんだよ」
「う゛〜〜 沢田、おまえはまだ平気そうじゃないかっ もう1軒行こうよもう1軒!」
「・・・・何イラついてんの?」
「へっ?」
思いもがけない言葉に立ち止まると、あいつの足も一緒に止まった。
「イラついてる? 何 あたしが?」
「“お嬢が豪酒になるときは、何かにイラついてるときだ”」
「な、なんだよそれ」
「・・・ずっと前にテツさんが言ってた」
「!!」
テツの野郎ぉ〜、余計なこと吹き込みやがって!
「べっ 別にイラついてなんか」
「・・・・」
誤魔化すように慌てて前を向き、ブツブツ言いながら歩き出した。
「そ、そりゃあたしだってお酒に逃げたい夜?ってゆーの? アハハ、恥ずかしい事言っちゃったよ なぁ沢・・・」
横に目をやる。
思わず後ろにも目をやった。
「・・・いねぇのかよっ」
冷ややかな目をしたサラリーマンが何故か遠巻きに通り過ぎてゆく。
すぐそこのコンビニから出てくるあいつ。
「お、おまえ!突然消えるんじゃないよ!あたしってば今1人でなぁっ」
「飲み足りねぇんだろ?」
「は!?」
「・・・もう一杯、付き合ってやるよ」
「??」
白いコンビニの袋を揺らしながら再び歩き出す。
首を傾げながらその後に続いた。
「おぉ 沢田 いい事思いついたなぁおまえ!」
そこはあたしの家にわりと近い、丘のある小さな公園だった。
周りに民家があるためか、夜に騒ごうとする若者もいなければカップルもやって来ない。
けれど丘の上から見える景色はなかなかなもので。
少し遠くで街のネオンがキラキラしていた。
「たまにはいいなこーゆーのも ・・・ふ・・ぇっくしゅっ!」
そういえば今は9月。
結婚式のために買ったこのよそゆきワンピースと薄手の上着じゃ寒いのは当たり前。
「!」
突然、背中に掛かった重みに驚いて振り向いた。
「・・・・着とけば」
「へ?」
それはあいつが先程まで羽織っていたジャケット。
「いいの?」
「別に 俺は寒くねぇし」
「・・・そっか、じゃお言葉に甘えて ありがとな」
「どーいたしまして」
棒読みしながら芝生の上に腰を下ろすあいつ。
――照れてんのかな?
吹き出しそうになる笑いを堪えてジャケットに腕を通してみた。
まだ、あったかい。
「よぉし かんぱぁーい♪」
2つのビール缶が小さな音を立ててぶつかる。
「う〜ん 最高だねっ」
「何が」
「この景色!立派になった教え子!そして何よりビールが上手い♪」
「・・・・俺、立派になった?」
「立派だろ 単身アフリカでボランティアに励み、今は夢を追ってる大学生だ」
「まだ先は長いのに?」
ビールを飲みながら遠くを見つめている。
そういえばこうしてこいつと2人じっくり酒を飲むのは初めてなのかもしれない。
日本にから帰ってきてから、ゆっくり話す時間なんてなかったもんな。
「・・・そりゃあ人生はまだまだ続くよ でもおまえは確実に自分の足で歩いてる 立派じゃないか」
ウンウンと頷きながら、缶に口をつける。
そんなあたしを横目で見ながら、あいつが小さく笑ったような気がした。
「・・で?」
「んー?」
「おまえ結局、何にイラついてたんだよ」
「へっ」
危うくビールを落としそうになった。
「な、何って 別に」
「・・・今日、知り合いの結婚式だったんだよな?」
「!!」
まるで全てを見透かしたような、不敵な笑みを浮かべてる。
「ち、違うぞ!?おまえが思ってるような、そんな理由じゃ」
「そんな理由って?」
「だ、だからつまり・・・焦ってるとか・・そ、そーゆーことじゃ・・」
「んなコト言ってねぇだろ誰も」
「だ、だからっ!」
涼しげな横顔になんだか意気込む気が失せてとりあえず息を整えた。
「結婚は 焦ったり頑張ったりしてするものじゃない ・・・と、あたしは思う」
自分の言葉に力強く頷いてビールを一口飲む。
「そ、それにだっ あたしは当分、仕事命にするって決めてるから!」
思い出したかのようにまた言葉を吐いて、そして頷く。
「・・・・ふーん・・・」
それだけ呟いて、あいつもビールに口をつけた。
――ちょっぴり冷たい風が吹く。
木の葉が音を立てて揺れている間、あたし達は沈黙していた。
「おまえさ」
その時、あいつの口から不意に発せられた言葉は、思いがけないもので。
「あの人とはどうなったんだよ」
「?」
「・・・篠原サン」
「−!!」
危うくビールを吹き出しそうになった。
「んなっ おまえ、突然何をっ!」
「なに慌ててんだよ」
「べべべ別に?慌ててなんかいないぞ?」
「・・・・・」
「・・・」
「・・・・・」
「・・その・・不審げな目、やめてくれ」
あっけなく降参。
「篠原さんとは最近全然会ってないよ あっちも忙しいみたいだし」
「・・・それだけかよ?」
「それだけって」
「・・・・・おまえ、あの人に片思いしてたんじゃねぇの」
「へ!? う、うん そうなんだけど」
なかなか進まない話に、あいつはため息を漏らした。
――あたしは何をしてるんだろう。
こいつとは確かに昔からいろんな話をしてきたけれど、考えてみればこんな話をするのは初めての事。
ましてや自分の恋愛話なんて。やけに緊張するもんだな。
「じっ 実はな? 一時期、なんだかちょっといい感じになってさ」
「・・・・」
「ん〜とあれは確か おまえがアフリカに行って半年くらい後だったかなぁ」
この話を誰かにしたことは一度もない。
けど本当は、ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「ある日いきなり指輪差し出されてさ “付き合ってほしい”って言われたんだ」
「・・・・指輪?」
「そうっ!こう、ちゃんとしたケースに入った指輪だぞ!」
「結婚を前提に、って意味?」
「そうだったんだろうなぁやっぱり」
「・・ふーん・・」
「な、何笑ってるんだよ?」
「・・・・・よく分かってんな、あの人」
「は?」
「おまえ好きだろ?そういうドラマみてぇなシチュエーション」
言いながら口端を上げるあいつ。
ああなるほど。
納得させられてしまっては言い訳もできない。
「そ、それでだ “返事はゆっくり考えてください”って言うから、指輪だけ受け取ったんだよ」
「・・・」
「あたしもその場では舞い上がっちゃっててさ もぉ嬉しくて嬉しくて仕方なかったんだ」
けれど家に帰って、その指輪をはめてみたら。
「・・・なんて言えばいいのかな・・・重かったんだ、あの指輪」
「重い?」
「高価だからとかそーゆー意味じゃなくてさ そう、あたしの指には相応しくない気がして」
「・・・・」
「でもそれは指輪のせいじゃなくて あたしの気持ちの問題だったんだと思う」
もちろん、家の事も気になった。
あたしは任侠一家の孫娘。あの人の職業は刑事。
けれど本当に想っているならそんな事など大した理由にはならない。
だってあの人も同じ事を考えたはずなのに、それでも指輪をくれたんだから。
もっと根本的な所であたしはずっと間違っていた。
「考えて挙句、返しちゃったんだよ 指輪」
あたしはなんて奴だ。
「・・・は?」
「えへへ お付き合いも断っちゃった」
あれだけ好きだと思ってたくせに。
まるで夢から現実へと戻されたような一瞬の感覚だった。
「・・・」
「篠原さんも感づいてたみたい 理由も聞かずに“わかりました”ってそれだけだったから」
けれど、少しだけ歪んだ笑顔が忘れられない。
思わず一気にビールを喉へと流し込むと、なんだかクラッとした。
・・やば。悪酔いしてるかも?
あいつはただ黙ってあたしの様子をじっとを見ている。
「なんだよ 沢田」
「・・・別に」
「あ、おまえあたしの事バカだと思ってんだろ?失礼な奴めっ」
「思ってねぇよ」
隣りでビールを飲み干す音がする。
何気ない沈黙の間、またもや冷たい風が吹き抜けた。
「・・・やっぱり難しいなぁ」
「何が」
「いわゆる 男と女ってさ」
少し浸って呟いてみる。どうせ馬鹿にされると思ってた。
けれどあいつは少しの間を置いて、ゆっくり、息を漏らすように言葉を綴る。
「・・難しがっててどうすんだよ」
「へ?」
「だって世の中、男と女しかいねぇじゃん」
「そ、そりゃそうだけど」
らしくないあいつはまたどこか遠くを見つめ、あたしも思わず無言になる。
「・・・・・・おまえ女だよな?」
「はっ!?」
こ、こいつ やっぱり馬鹿にするんじゃねぇかっ
「わ、悪かったなぁ!こんな女もいるんだよ世の中にはっ」
「知ってます」
「だったらわざわざ聞くんじゃないよ!」
やば。怒鳴ったらまたクラクラしてきた。
おい何笑ってやがる沢田っ!
「・・・・じゃあ、おまえは知ってんの」
「何をっ」
神経が鈍ってくる。
少しずつ、眠気も襲ってきた。
「俺が男だってこと」
重いまぶたを擦りながら、今の言葉が頭に入ってくるまで掛かった時間、約数秒。
「・・・ハ?」
少し考えてから声を発して、隣りを見る。
昔から何考えてるか分かんないあいつが、やっぱり何考えてるのか分かんない顔であたしを見ていた。
お互い無言のまま少しの間が空いて、あたしは思わず吹き出していた。
「ぷ はははっ 何言ってんだよ あたしは女を卒業させた覚えなんてないぞ?」
「そういう意味じゃねぇよ」
「はぁ? ったくややこしい奴だなぁ じゃあ一体どう・・」
どうして自分の言葉が途切れてしまったのかよく分からなかった。
眠くて眠くて宙に浮いてしまいそうな感覚の中。
唇に押し当てられていた何かが、ゆっくりと離れ、風が隙間を撫でてゆく。
「こーゆー意味」
息が掛かる程の すぐそこに あいつの顔があった。
いつかあの教室で、深い瞳を少しだけ曇らせた少年は、すでに少年ではなく。
ゆっくりと目を開くと、天井が見えた。
毎朝見慣れてる天井だった。
ひんやりした空気から逃れようと心地良い布団に潜り込んで、少し考える。
「−!?」
ハッと体を起こした。いつも通り丸窓から差し込む朝の日差し。
視線を下ろすと自分は昨日の格好のまま。
買ったばかりのよそゆきワンピースが見事にしわくちゃだ。
「・・・あれ」
寝癖のついた髪を撫でながら、周りを見渡した。
―――記憶がスッポリと抜けている。
えぇと、どの辺から?
ああそうだ、飲み会の後は確か丘の上でビールを飲ん、で?
何かを境に途切れる記憶。
「・・・・えぇと?」
そう、それで?その後は、一体どう・・・
『 こーゆー意味 』
電流が走るように、突然あいつの顔が浮かんだ。
恐る恐る唇に手をやる。
慣れない感触が、まだ残ってる。
あのとき、自分の身に起きた全てを、鮮やか過ぎるほどにはっきり思い出した。
「・・・・どっ・・・・どーゆー意味だあぁぁぁ!!!」
頭を抱えて叫ぶ。
すぐにバタバタと廊下を走ってくる音がする。
ガラッ!!!
「お嬢 ど、どうなさったんで―――」
「どうもこうもねぇーよ!!」
「へっ へぇ?一体何が」
「(・・・ハッ)」
訳も分からず立ちすくむテツの姿を見て、我に返った。
「お嬢?」
「・・・いっ・・いやその、ちょっと寝惚けてたみたいで」
「そりゃまた 何か悪い夢でも?」
「う、うん そんなとこだね ・・ハハハ、朝から騒がせて悪かったな」
引きつった笑いで精一杯誤魔化す。
胸を撫で下ろすテツを横目に、まだ混乱している頭を抱えて布団から出た。
ベットに腰掛け呼吸を落ち着かせる。
「あのさテツ あたし昨日・・いつ・・帰ってきたんだっけ・・?」
「へぇ 確か日付の変わる頃だったと」
「ひ・・ひとりで・・・?」
「まさかっ お嬢は完全に酔いつぶれて眠ってぇましたから」
「ってことは・・やっぱり・・?」
「慎の字が 背負ってここまで送ってきたんです」
あぁ、やっぱりそうか。ガクンと体中の力が抜ける。
つまりあの後あたしは意識を飛ばしたんだ。
「あ、それとお嬢」
まるで魂の抜けたようなあたしに、容赦なく次の展開が用意されていた。
「んー?」
「昨夜はもう遅かったんで、慎の字 うちに泊まってもらいましたから」
「ああそう わかっ」
・・・・え?
「えぇえぇぇ!!?ちょ、待っ」
「おはようございます」
「・・!」
ふと割り込んできた聞き覚えのありすぎる声。
恐る恐る廊下に目を向けると、そこにはやっぱり、昨日と同じ格好のあいつが立っていた。
「よぉ慎の字 どうでい よく眠れたか?」
「はい」
「なんでぇ帰り支度なんかして 朝飯くらい食ってけばいいじゃねぇか」
「せっかくなんですけど、午前中から授業があるんで」
「ああ、だったらミノルに言って弁当でもこしらえてやっからよ」
「・・すみません」
「ちょっくら待っててくれ おいみのるーーー!!」
テツが部屋から去ってゆく。
戸を開けたままゆっくりと部屋に足を踏み入れるあいつ。
「・・・口あいてんぞ、さっきから」
「!」
「なんだよ?」
いつも通りの、変わらない無表情。
「べっ 別に」
もしかして、しらばっくれてる?それとも忘れてるのか?
「・・・昨日はどうもっ!」
「は?」
「なんだかえらぃ迷惑掛けたみたいだから!」
「つーか何怒ってんの」
「・・! なっ 何っておまえ」
待てよ。
忘れてるんだったらむしろそれでいいじゃないか。
こいつもきっとかなり酔ってたんだろうし。
きっとあれはただの冗談!そう、酔っ払いの戯れだ。そうだそうだ。
「よ、よし 今回だけはあたしも忘れてやろうじゃねーか」
「へぇ 忘れんの」
「そう忘れ ・・・って憶えてんのかよっ!?」
またもやガクリと体の力が抜けた。
「俺はおまえの方が忘れてんじゃねぇかと思ってたけど」
ああ、そうだったらどんなにいいか。
大きく息を吐いて、くらくら混乱している頭を必死で落ち着かせる。
「沢田、もうこの話はもうやめよう」
「は?」
「だって本来こんな事は有り得ないんだからさ」
「・・・・」
「さっき言った通り、あたしは忘れるよ だからおまえも」
「有り得ない?」
声色が変わった。
思わず顔を上げる。
表情こそまるで変わっていなかったけど、その瞳に少し冷ややかさを感じた。
「さっきからおまえ、なんで肝心なトコ聞かねぇの」
「へっ?」
「俺がああした理由、なんで聞こうともしねぇんだよ?」
「だ、だって あんなの 冗談だろ?」
「・・・勝手に決めてんじゃねぇよ」
あいつの顔が歪む。
なんだよなんでそんな傷ついたような顔するんだよ。
チクッとした。なんだか胸が痛い。けど
「有り得ないって言ったよな?」
ダメだ。
これ以上こいつの言葉を聞いてしまったらもう
「じゃあ」
“今まで”には、戻れない気がした。
「・・・・・俺がおまえに惚れてんのも、有り得ないって言い切れんの?」
戻れない、気がした。
さわさわとした風に外の木々が揺れる音がする。
この赤い部屋にふたり。見上げるあたしと見下ろすあいつ。
今初めて知った。
あたしは女で、こいつは、男なんだ。
「・・・・・・あ」
「慎の字ぃー!!弁当出来やしたぜーー!!!」
遠くから響いたミノルの声があたしの声を遮る。
口にするべき言葉は、まだ見つかっていなかったのだけれど。
「・・・じゃーな」
「へっ」
あいつが背を向け去ってゆく。
呼び止めようかと思ったけど、できない自分がいる。
どうしていつものように笑い飛ばせない?
だってあいつの目は本気だった。
「・・うそ・・」
なんでいきなりそんな奇想天外な事を言い出すんだよ。
『 オレガオマエニホレテンノモ アリエナイッテ イイキレンノ? 』
訳の分からない喪失感みたいなものと。
これまた訳の分からないモヤモヤが心の中を渦巻く。
「在り得ないよ・・・そんなの・・」
あたしは今、これまでの人生のどんな瞬間よりも、困惑している。
「おはよう、おじいちゃん」
力なく部屋から出て、そっと居間に顔を出した。
「お なんでぇ久美子 見送りにも出ねぇで今頃」
「・・沢田は?」
「とっくに帰ぇったよ」
「そっか」
誰もいない玄関に目をやる。
「あれー お嬢」
「ん?」
「その上着、慎の字のじゃねぇですかい?」
「え ・・あぁ!?」
言われるまでまったく気付かなかった。
昨晩から着たままだったのか。
あいつ大丈夫かな。今だってこんなに寒いのに。
「そうだっ 今から追いかけ――――」
言いかけてやめた。
ジャケットを持つ手にぎゅっと力を込める。
「・・ても・・・間に合うわけないよね・・ハハハ」
ああ臆病者め。作り笑いがなんだか虚しい。
ため息をつきながらをミノルにそのジャケットを手渡す。
とりあえずクリーニングにでも出してもらおう。
そんなあたしを横目で見ていたおじいちゃんが、新聞をめくりながら言った。
「久美子 おめぇそんなにゆっくりしてて平気なのかい」
「えっ ・・・・あ!!?」
忘れてた、今日は学校じゃないか。しかも職員会議付きだよオイ。
バタバタと廊下に出るとすぐ人物に鉢合わせた。
「テ、テツ!こんな朝っぱらに風呂なんか沸いてるっ?」
「当然、お嬢のために沸かしてありやすぜ」
「さっすが じゃあちょっと入ってくる あ、朝飯も食べるから用意しといてくれ」
「へぇ ・・・あの・・お嬢、」
「ん?」
「・・・昨日・・・慎の字がもしや・・・・その」
その名前に、思わずギクンと心臓が鳴る。
「さっ沢田が、どどどうかした?」
平然を装ったつもりなのに裏返る声は隠しようがない。
そんなあたしを見てテツは、何か、言葉を飲み込んだようだった。
「・・いや・・・なんでもありやせん」
「へ?そ、そう?」
「風呂場にタオルも置いてありやすんで、どうぞ使ってくだせぇ」
「おう ありがとなっ」
ああ、とにかく時間がない。
そんなテツのおかしな態度について考える時間も。
あいつについて考える時間も。
日常は待ってくれやしない。
そう、どんなに困惑する事態が起きようと。
考える時間なんて、ないんだから。
NEXT
*ルージュのアイコンからどうぞ。