「おっはよーさん♪」
「あ・・・川嶋先生、おはようございます」
「なんや朝から暗いでー あんたらしくないなぁ」
「アハハハ ・・おかまいなく」
「?」
肩を落として学校に向かう。
横で首を傾げる川嶋先生にも気付いていたけれど、正直、それどころじゃなかった。
「昨日、結婚式だったんやって?」
ふと掛けられたその声にハッとする。
「え ・・・あ、はいっ」
「もしかしてそれで感傷に浸ってるんやないのー?」
「もう 違いますってばっ あいつと同じこと言わないでください」
「アイツ?」
「へっ いや と・・とにかく違うんです」
なーんだ、とつまらなそうに前を向き直す川嶋先生。
ウダウダしてないで気を取り直そう。
ひとつ呼吸を置いて前々から気になっていた事を尋ねてみようと思った。
「あの 先生は・・・結婚されてたんですよね」
「ん?なにイキナリ」
「そういえば一度もちゃんと聞いたことないなぁと思って」
「ちゃんとって そんな大した話やないで」
「まぁまぁ 旦那さんとは何処で?」
「18のときに、いわゆる族の溜まり場みたいなとこだったかな」
「・・・ぞくっ!?じゃあもしかして旦那さんも」
「そう、元ヤンキー♪」
な、なんですかそのピースサインは。
「あ、あれ?でも結婚したときには裕太がいたんですよね?」
「まぁねー お互い真面目に働き出してから再会したんよ その頃にはもう裕太がいて」
「・・・・結婚、迷うことはなかったんですか?」
「そりゃ迷うに決まってるやないの ・・・うーん・・でも」
「でも?」
「なんやごちゃごちゃ迷ったときは、全部捨てるんよ 余計な事は考えないで決めた」
「え」
「あたしはこの人と一緒になりたい 残ったのはそれだけやったから」
懐かしむように、しっかりと言い放つ。
「・・・川嶋先生」
「まぁそれにほらっ 子供は好きやったし 裕太はかわいかったし」
「な、なんか照れてます?」
「って人にここまで言わせたのはあんたやろ!」
「えへへ すみません」
ああ、この人はすごく強いんだなぁ。心からそう思った。
「なーに話してるんですかっ?」
門の前まで来ると、いつものように横から合流してくる藤山先生。
「おはよーさん 別に大した話じゃないから」
「あ、なにか隠してるでしょ?ズルイですよ2人ともっ!」
「何も隠してませんって ほら、職員会議始まっちゃいますよ」
「じゃあ急がんと 行くで」
笑いながら門をくぐると冷たい雫が鼻に当たった。
ポツポツと降り出す雨。
曇った灰色の空はまさにあたしの心をそのまま映しているようで。
その雨は、いつまでも降り続けていた。
翌日の夕方には、あいつのジャケットが帰ってきた。
早く返しに行かないと。
わかっているのになかなか決心がつかない。
あいつに会うのが気まずいだなんて、そんな事が今までに一度でもあっただろうか。
むしろその逆だった気がする。
あそこまで気を許して向かい合える人間はそうそういないから。
あんな事を言われなければ、ずっとそんな関係でいられたのに。
「・・・・」
風呂上りから1時間、ベットの上で携帯電話とにらめっこ。
「・・・う〜〜〜ん・・・」
いい加減こんな自分にも嫌気が刺してきた。
大体あいつもあいつだ。
いきなり惚れてるとか何とか勝手に言ってきては、そのまま放置してやがる。
あたしにどうしろって言うんだよ?
「・・・・よ、よしっ」
通話ボタンを押した。
恐る恐る携帯を耳に当てる。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません・・・番号をお確かめになって・・』
虚しく響く機械音。
「−え?」
試しにもう一度かけてみた。やっぱり同じだった。
考えてみれば、この番号に最後に電話したのはまだあいつがアフリカに行く以前。
その間に番号が変わっていても不思議ではないのかもしれない。
――不覚だった。
ちょくちょく同窓会やら飲み会やらで顔を会わせていたから、安心してた。
あいつにはいつでも会えると根拠もなく思い込んでいたのかもしれない。
「・・・あ」
そういえばあいつ、いつか引越したって言ってなかったか?
つまり実家にもいなければ、当然あの高校の頃のマンションには居ない。
そしてどこに引っ越したのかも、あたしは、知らない。
あたしと 今のあいつを繋いでいるものは 何も無いのかもしれない。
無言でベットに寝そべった。
窓からはまるで止むことを知らない雨の音。うるさいくらいに。
喪失感は限りなく大きく育ってる。
これは生徒としてのあいつを失ったせいなのか。
それとも・・?
いつの間にか眠りについていたその夜も、冷たい雨は止まなかった。
「・・・山口先生!」
「え?」
翌日の放課後、傘を差しながら門をくぐるとすぐ、その声に呼び止められる。
「あれ しっ 篠原さん?」
「お久しぶりです」
彼は以前と変わらない笑顔で会釈してきた。
「どうしたんですか?」
「いえ 今の事件がやっと落ち着きまして 久しぶりに皆さんと飲みにでもと思ったんですけど」
「あ・・でも今日は川嶋先生も藤山先生も用事があるみたいで」
「そうですか じゃ、山口先生は?」
「へっ!? いえ特に用事もなく・・・暇です・・けど・・」
「じゃあ少しだけ 行きませんか?」
オドオドとするあたしに気付いたのか、にっこりと笑って付け加える。
「もちろん、友人として」
その言葉で、いつもどこかに引っ掛かっていたものが、やっと取れた気がした。
相変わらず優しくて頼りがいがいがあって。ずっと憧れていた人。
けれど、あのとき何故この人を選ばなかったのかと後悔する気持ちは、不思議と何処にもないんだ。
「あれ 今日は柏木さんは」
「誘ったんですけどね 柏木の奴、今スポーツジムに通ってて」
「へぇ・・・そりゃまた・・・なんででしょうね?」
「ずっと前、酔った山口先生との腕相撲に1秒で負けたからじゃないでしょうか」
「ん?そんなことありましたっけ?」
「まぁそんな気になさらないでください 何飲みます?」
いつものお店。
向かい合いの小さなテーブル。
とりあえず軽めのカクテルを頼んだ。
くいっと一口流し込むと、少し長めのため息をつく。
「どうかしたんですか?」
「へっ」
「元気がないですよ 山口先生らしくない」
「いや・・あはは」
誤魔化すように笑うと、指先でグラスを撫でる。
まとわりつく水滴が心地良かった。
「恋でもしてるんですか?」
思わぬその一言に、意味がよく理解できないまま、勢いよく顔を上げる。
「こっ・・・!!?」
ガタンッ
何の音かと思い視線を下げれば、手元のグラスが倒れていた。
慌てて元に戻したけれど中身はもちろんテーブル上にこぼれ流れていて。
店員を呼びながらおしぼりで素早くそこを拭く篠原さん。
「わわわ ごめんなさい」
「いえそんな 服は大丈夫でした?」
「は、はい 平気です!」
すぐに替えのカクテルが出され、持ってきてくれた店員に慌てて頭を下げた。
「・・・アハハハ、あたしったらもう 何やってんだか」
みっともなさを誤魔化したくてまたカクテルを喉に流し込む。
気を落ち着かせてからそっと向かい側に目を向けた。
篠原さんは、なんだか驚いているような表情で、けれどすぐにまた優しい笑みを浮かべた。
「参ったな 冗談のつもりだったんですけど」
「え」
「・・・してるんですね、恋」
「!?」
“ 恋 ”
それは今のあたしにとってまったくの心外な言葉で。
そう、脳裏の隅にも浮かばなかった言葉で。
ほんの少し真っ白になっていた頭を慌ててぶんぶんと横に振った。
「違います し、してませんしてませんっ そんな恋なんか・・!」
まるで自分を説得しているかのように感じる。
「こ、恋なんてそんなの そうまさか あいつ相手にそんな感情持てるわけが」
またグラスを倒さないように両手でしっかりと包み込んだ。
そんな様子を見ていた篠原さんは、ふと、何かを思い立ったようだった。
「あいつ?」
「えっ あ いや、そうじゃなくて」
「もしかして ・・・沢田くんですか?」
「!?」
思考停止しそうな頭を持ち上げて、声の出ないままその顔を見る。
「なん な、ななんでっ どうして さ、沢田が?」
それは果たして日本語になっているのか。
気が動転しているあたしに、彼は笑顔を向けた。
「知ってます?」
「へっ」
「彼がいつから山口先生の事を見ていたか」
「・・は?」
「僕がこんな事を言うのも正直おかしいと思うんですけれど」
笑顔が、少しだけ、遠くに向けられた気がした。
「彼は貴方をいつもちゃんと見ていましたよ 僕より、ずっと前から」
「・・・!」
なぜだろう。言葉が出てこない。
言い終わると篠原さんは自分のグラスを口に運ぶ。
ずっと前っていつからですか?
どうしてそんな事を知ってるんですか?
聞きたい事は山ほどあったのに、一体なんだろうこれは。
胸が、ぎゅっと詰まるような。
「・・・・・なんだか変な話になっちゃいましたね」
彼は苦笑いを浮かべてグラスを置いた。
まだ言葉の出てこないあたしを見て、一瞬驚いた後、今度はまた優しい笑みを浮かべる。
「僕もあのとき、そういう顔にさせたかったな」
「え?」
「・・・いえ、聞き流してください」
今夜はその一杯でお開きとなった。
店から出て賑やかな繁華街の空気を吸い込みながら気がつく。
―――雨が、止んでいた。
「じゃあここで」
言いながら篠原さんは湿ったコンクリートに足を踏み出す。
「ああそうだ 今度は、また皆さんで飲みたいですね」
「は、はいっ 是非!」
「良かった じゃあ、おやすみなさい」
「・・おやすみなさい」
笑顔で去ってゆくあの人に、同じく笑顔で手を振った。
息を漏らしながらコンクリートに足を踏み出す。
必要のなくなった傘が、バックの横でゆらゆらと揺れていた。
「ただいま〜」
玄関の戸を開けると、いつものようにテツとミノルが現れる。
「「 お帰りなさいやし!! 」」
靴を脱ぎながら何気なく聞いてみた。
「今日、あたしに何も来なかったよね? その、電話とか」
「へぇ?特に何もありやせんでしたが」
「そっ・・か」
だよな。
電話なんて来る筈がない。
「お嬢、誰か連絡を待ってる方でも?」
テツが少し神妙な顔つきをしている。
「いやさ 沢田の奴にジャケット返したいんだけど、あいつの今の連絡先知らなくて」
「・・・慎の字、ですかい?」
「ふふ 笑っちゃうよなぁ 元担任が連絡先も知らないなんっ・・・・て・・・?」
詰まった自分の声に誰よりも自分が驚いた。
慌ててテツたちに背中を向ける。
それは本当に、そう、本当に無意識の事で、自分でも信じられなかった。
「お、おおおおお嬢っ 今もしかして、泣い」
「ばかミノル 泣いてねぇよっ!!」
「泣いてたじゃないっすかっ ねぇ兄貴 ・・・兄貴?」
これは一体どうしたものか。
両腕の袖で目から溢れ出るモノをごしごしと擦り取った。
なのにそれは次から、次へと、止まらない。
「お嬢、」
静かな声でテツがあたしを呼ぶ。
たぶん情けないくらい真っ赤な目をしている顔のままで、そっと振り向いた。
ミノルは呆然としてこっちを見ている。
けれどテツは、まるで覚悟を決めたかのような表情で。
「渡してぇもんがあります」
「・・・・へ?」
渡されたのは、一枚の紙切れだった。
「なんだよ、これ」
「・・・・慎の字のジャケットに入ってたそうで」
「あいつの?」
「そうそう クリーニング屋の店主が忘れてたらしくて、今朝慌てて持ってきたんすよ」
「へぇ・・」
少し乾いてきた涙を軽く手の甲で拭き取りながら紙切れに目をやる。
そこには、一行の走り書き。
走り書きとはいえ読みやすく整ったその字は、確かにあいつのものだ。
「なにこれ ・・・住所?」
聞いた事もなければ見た事もない住所。
何の変哲もない、ただの住所。
『・・ペンと紙、持ってねぇ?』
「!」
飲み屋の席でのちょっとしたやり取りを思い出した。
「これ・・・あたしの・・メモ帳・・」
みんなが騒いでる傍らで、無言のままペンを走らせてるあいつの姿。
そのとき破られたページは今どこにある?
「・・・!」
来い、という事なのだろうか。この住所へ?
「お嬢?」
あいつは可愛いあたしの教え子。
夢を抱いている、未来に向かって歩いてる、あたしの教え子。
「・・・なぁテツ・・あたし・・どうしたらいいんだろう」
これからいろんな出会いがある。
きっとあたしなんかよりずっと相応しい誰かとの出会いも。
その未来を、あたしが汚す訳にはいかない。
「・・なんだかもうごちゃごちゃで・・・よく分かんないよ・・」
楽しかったあの頃の思い出。
それさえも汚してしまいそうで、壊してしまいそうで。
なんだか大きな雲が覆ってしまったかのように。
自分の気持ちが、まるで見えない。
「あっしには、何の事だかまったく検討がつきませんが」
「・・え?」
「たぶん お嬢は今、逃げてます」
「!」
「・・・今のお嬢は・・お嬢らしくないと・・・あっしは思います・・!」
テツは、何かを辛抱するかのように、力強い目で言い放った。
あたしは逃げている?
云われてチクリとした胸がその言葉を真実だと知らせる。
「素直になってください お嬢」
テツの真剣な瞳。
「・・・そんなの・・どうやって・・」
頭の中に絶え間なく駆け巡るいろんな思い。
砂に隠れた確信や、迷いや。
『なんやごちゃごちゃ迷ったときは 全部捨てるんよ』
捨てる?それはとてつもなく勇気のいること。
冷たく打ち付けて降り続ける雨にあたしはずっと濡れていたのかもしれない。
こんな雨じゃ傘も役に立たなくて。
けれどいつしか止むのだろう。それはあたしの意思ひとつ。
今の、こんな星空のように。
冷たい雨が止み、湿った地面に残ったものは。
“あいたい”
ただ、それだけだった。
『あいつがいてくれればいいのに』
何かがある度にそう呟く自分を不思議がることはなかった。
それがどうしてなのかなんて今までまったく考えようともしなかった。
そう、考えようともしなかったんだ。
月が見ている夜の道を走り抜けながら、ふと気が付いた。
あいつの連絡先ならクマにでも内山にでも聞けばいいんじゃないか。
そう、それで携帯にでも電話すれば。
わざわざこんな時間にこんな紙切れを握りしめて会いに行かなくてもいいんだ。
そんなあたしの脳に逆らって、この足は止まらない。
人気のない電車に飛び乗って2駅目。
くしゃくしゃになった紙切れと住所を照らし合わせながら探し当てた3階建てのアパート。
駅からほとんど距離がなかったため難なく見つけることが出来た。
そして、切れた息を除けば、生まれて初めてこの言葉を正確に使いこなせたんじゃないかと思う。
「・・・・き・・きちゃった・・」
ドアを開けたあいつは、言葉を失ったかのように呆然としていた。
「ご・・・ごめん・・・寝てた?」
「いや 別に」
「そっか・・・ははっ・・悪いなこんな時間に・・」
「とにかく入れよ」
まだよく状況を掴めないでいる様子で室内へと促すあいつ。
息の荒い肩を落ち着かせながら、ゆっくりとその部屋に足を踏み入れた。
高校の頃のあの部屋と比べれば随分と狭い部屋。
けれど今思えば、1人で暮らすのにあの部屋は広すぎだったのかもしれない。
「相変わらず殺風景なんだな あ、でも本は増えてる?」
「雑貨に興味がねぇだけ ・・その辺座れば」
「お おう」
背中を向けて流しに向かうあいつ。
とりあえず小さなテーブルの前に腰を下ろして床に紙袋を置いた。
少しずつ息が整ってくる。
「それ、なに」
氷の浮いたアイスコーヒーを差し出しながら、あいつは目線をその紙袋に移した。
「なにって おまえのジャケットだろ」
「・・・は?」
「だから おまえのジャケットを届けに来たんだよっ」
「・・こんな時間に?」
「えッ いやその 早いに越したことはないと思って・・?」
「・・・・」
「大丈夫だよ ま、まだ終電あるからっ」
目茶苦茶な事を言っているのかは分かってた。
けれど本心を見抜かれたらおしまいな気がしてならなくて。
必死に目を合わさないようにする。
異様に乾いた喉は、あいつが出してくれたアイスコーヒーをほとんど飲み干していた。
「おまえ平気なの こんな遅くに外出歩いて」
「え?」
いつもと何も変わらない落ち着いた声のまま、ベットにもたれてあいつが座る。
「平気って・・・あのな、あたし子供じゃないんだから」
「あの家じゃ子供同然だろ」
「へっ、平気だよ どこに行くかもテツ達にちゃんと伝えてあるし」
「テツさんに?」
一瞬、ぴくりと反応した。まるで驚くように。
「な、なんだよ テツだってそんな過保護じゃないぞ?」
「・・・」
「むしろテツの奴が行けって言うから だから、あたし」
「・・・・・・なに」
ヤバイ。
今、何かとんでもない事を口走りそうになったような。
「何でも、ない」
思わずつぐんだ口に、残り少ないアイスコーヒーを運ぶ。
なんだかほんの少しの沈黙にも耐え難い。
あいつの口が何かを切り出そうとしているような気がして落ち着かなくて。
一気に全部飲み干すと、すぐさま立ち上がった。
「さて、用事も終わったし帰るとするか ・・・じゃ、元気でな!」
「ヤンクミ、待て」
呼び止められて振り向くと、あいつは真剣な表情で身を乗り出して。
あたしはまるで逃げ出すようにドアに向かった。
「ご、ごめん沢田 終電来ちゃうから今夜のとこっ ろ ・・・わァっ!?」
−バタンッ!!!!−
向かった、のは頭の中だけで。
踏み出した最初の一歩が、置いてあった紙袋の取っ手にそれはそれは見事、引っ掛かったのである。
気がつけば冷たい床に突っ伏している自分。
・・・これはもしや?