「おっはよーさん♪」
 
 「あ・・・川嶋先生、おはようございます」
 
 「なんや朝から暗いでー あんたらしくないなぁ」
 
 「アハハハ ・・おかまいなく」
 
 「?」
 

 
 肩を落として学校に向かう。

 横で首を傾げる川嶋先生にも気付いていたけれど、正直、それどころじゃなかった。
 
 
 
 「昨日、結婚式だったんやって?」
 

 
 ふと掛けられたその声にハッとする。
 

 
 「え ・・・あ、はいっ」
 
 「もしかしてそれで感傷に浸ってるんやないのー?」
 
 「もう 違いますってばっ あいつと同じこと言わないでください」
 
 「アイツ?」
 
 「へっ いや と・・とにかく違うんです」
 
 

 
 なーんだ、とつまらなそうに前を向き直す川嶋先生。
 
 ウダウダしてないで気を取り直そう。
 
 ひとつ呼吸を置いて前々から気になっていた事を尋ねてみようと思った。
 
 

 
 「あの 先生は・・・結婚されてたんですよね」
 
 「ん?なにイキナリ」
 
 「そういえば一度もちゃんと聞いたことないなぁと思って」
 
 「ちゃんとって そんな大した話やないで」
 
 「まぁまぁ 旦那さんとは何処で?」
 
 「18のときに、いわゆる族の溜まり場みたいなとこだったかな」
 
 「・・・ぞくっ!?じゃあもしかして旦那さんも」
 
 「そう、元ヤンキー♪」
 

 
 
 な、なんですかそのピースサインは。
 

 
 
 「あ、あれ?でも結婚したときには裕太がいたんですよね?」
 
 「まぁねー お互い真面目に働き出してから再会したんよ その頃にはもう裕太がいて」
 
 「・・・・結婚、迷うことはなかったんですか?」
 
 「そりゃ迷うに決まってるやないの ・・・うーん・・でも」
 
 「でも?」
 
 「なんやごちゃごちゃ迷ったときは、全部捨てるんよ 余計な事は考えないで決めた」
 
 「え」
 
 「あたしはこの人と一緒になりたい 残ったのはそれだけやったから」
 

 
 懐かしむように、しっかりと言い放つ。
 

 
 「・・・川嶋先生」
 
 「まぁそれにほらっ 子供は好きやったし 裕太はかわいかったし」
 
 「な、なんか照れてます?」
 
 「って人にここまで言わせたのはあんたやろ!」
 
 「えへへ すみません」
 

 
 ああ、この人はすごく強いんだなぁ。心からそう思った。
 

 
 「なーに話してるんですかっ?」
 
 

 
 門の前まで来ると、いつものように横から合流してくる藤山先生。
 
 

 
 「おはよーさん 別に大した話じゃないから」
 
 「あ、なにか隠してるでしょ?ズルイですよ2人ともっ!」
 
 「何も隠してませんって ほら、職員会議始まっちゃいますよ」
 
 「じゃあ急がんと 行くで」
 
 

 
 笑いながら門をくぐると冷たい雫が鼻に当たった。
 
 ポツポツと降り出す雨。
 
 曇った灰色の空はまさにあたしの心をそのまま映しているようで。
 
 
 
 
 その雨は、いつまでも降り続けていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 翌日の夕方には、あいつのジャケットが帰ってきた。
 
 早く返しに行かないと。
 
 わかっているのになかなか決心がつかない。
 
 あいつに会うのが気まずいだなんて、そんな事が今までに一度でもあっただろうか。
 
 むしろその逆だった気がする。
 
 あそこまで気を許して向かい合える人間はそうそういないから。
 
 
 
 
 
 あんな事を言われなければ、ずっとそんな関係でいられたのに。
 
 
 
 
 
 「・・・・」
 

 
 風呂上りから1時間、ベットの上で携帯電話とにらめっこ。
 

 
 「・・・う〜〜〜ん・・・」
 

 
 いい加減こんな自分にも嫌気が刺してきた。
 
 大体あいつもあいつだ。
 
 いきなり惚れてるとか何とか勝手に言ってきては、そのまま放置してやがる。
 
 あたしにどうしろって言うんだよ?
 

 
 「・・・・よ、よしっ」
 

 
 
 通話ボタンを押した。
 
 恐る恐る携帯を耳に当てる。
 

 
 
 『おかけになった電話番号は現在使われておりません・・・番号をお確かめになって・・』
 

 
 
 虚しく響く機械音。
 

 
 
 「−え?」
 

 
 
 試しにもう一度かけてみた。やっぱり同じだった。
 
 考えてみれば、この番号に最後に電話したのはまだあいつがアフリカに行く以前。
 
 その間に番号が変わっていても不思議ではないのかもしれない。
 

 
 
 ――不覚だった。
 
 
 

 ちょくちょく同窓会やら飲み会やらで顔を会わせていたから、安心してた。
 
 あいつにはいつでも会えると根拠もなく思い込んでいたのかもしれない。
 

 
 「・・・あ」
 

 
 そういえばあいつ、いつか引越したって言ってなかったか?
 
 つまり実家にもいなければ、当然あの高校の頃のマンションには居ない。
 
 そしてどこに引っ越したのかも、あたしは、知らない。
 
 
 

 
 あたしと 今のあいつを繋いでいるものは 何も無いのかもしれない。
 
 
 

 
 無言でベットに寝そべった。
 
 窓からはまるで止むことを知らない雨の音。うるさいくらいに。
 
 喪失感は限りなく大きく育ってる。
 
 これは生徒としてのあいつを失ったせいなのか。
 
 それとも・・?
 
 
 

 
 いつの間にか眠りについていたその夜も、冷たい雨は止まなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 「・・・山口先生!」
 
 「え?」
 

 
 翌日の放課後、傘を差しながら門をくぐるとすぐ、その声に呼び止められる。
 

 
 「あれ しっ 篠原さん?」
 
 「お久しぶりです」
 

 
 彼は以前と変わらない笑顔で会釈してきた。
 

 
 「どうしたんですか?」
 
 「いえ 今の事件がやっと落ち着きまして 久しぶりに皆さんと飲みにでもと思ったんですけど」
 
 「あ・・でも今日は川嶋先生も藤山先生も用事があるみたいで」
 
 「そうですか じゃ、山口先生は?」
 
 「へっ!? いえ特に用事もなく・・・暇です・・けど・・」
 
 「じゃあ少しだけ 行きませんか?」
 

 
 オドオドとするあたしに気付いたのか、にっこりと笑って付け加える。
 

 
 
 「もちろん、友人として」
 

 
 その言葉で、いつもどこかに引っ掛かっていたものが、やっと取れた気がした。

 相変わらず優しくて頼りがいがいがあって。ずっと憧れていた人。

 けれど、あのとき何故この人を選ばなかったのかと後悔する気持ちは、不思議と何処にもないんだ。
 

 
 「あれ 今日は柏木さんは」
 
 「誘ったんですけどね 柏木の奴、今スポーツジムに通ってて」
 
 「へぇ・・・そりゃまた・・・なんででしょうね?」
 
 「ずっと前、酔った山口先生との腕相撲に1秒で負けたからじゃないでしょうか」
 
 「ん?そんなことありましたっけ?」
 
 「まぁそんな気になさらないでください 何飲みます?」
 

 
 
 いつものお店。
 
 向かい合いの小さなテーブル。
 
 とりあえず軽めのカクテルを頼んだ。
 
 くいっと一口流し込むと、少し長めのため息をつく。
 

 
 
 「どうかしたんですか?」
 
 「へっ」
 
 「元気がないですよ 山口先生らしくない」
 
 「いや・・あはは」
 

 
 誤魔化すように笑うと、指先でグラスを撫でる。
 
 まとわりつく水滴が心地良かった。
 

 
 「恋でもしてるんですか?」
 

 
 
 思わぬその一言に、意味がよく理解できないまま、勢いよく顔を上げる。
 

 
 
 「こっ・・・!!?」
 
 
 
 ガタンッ
 

 
 何の音かと思い視線を下げれば、手元のグラスが倒れていた。
 
 慌てて元に戻したけれど中身はもちろんテーブル上にこぼれ流れていて。
 
 店員を呼びながらおしぼりで素早くそこを拭く篠原さん。
 

 
 「わわわ ごめんなさい」
 
 「いえそんな 服は大丈夫でした?」
 
 「は、はい 平気です!」
 

 
 すぐに替えのカクテルが出され、持ってきてくれた店員に慌てて頭を下げた。
 

 
 
 「・・・アハハハ、あたしったらもう 何やってんだか」
 

 
 
 みっともなさを誤魔化したくてまたカクテルを喉に流し込む。
 
 気を落ち着かせてからそっと向かい側に目を向けた。
 
 篠原さんは、なんだか驚いているような表情で、けれどすぐにまた優しい笑みを浮かべた。
 

 
 
 「参ったな 冗談のつもりだったんですけど」
 
 「え」
 
 「・・・してるんですね、恋」
 
 「!?」
 

 
 
 
 “ 恋 ”
 

 
 
 
 それは今のあたしにとってまったくの心外な言葉で。
 
 そう、脳裏の隅にも浮かばなかった言葉で。
 
 ほんの少し真っ白になっていた頭を慌ててぶんぶんと横に振った。
 

 
 
 「違います し、してませんしてませんっ そんな恋なんか・・!」
 

 
 
 まるで自分を説得しているかのように感じる。
 

 
 
 「こ、恋なんてそんなの そうまさか あいつ相手にそんな感情持てるわけが」
 

 
 
 またグラスを倒さないように両手でしっかりと包み込んだ。
 
 そんな様子を見ていた篠原さんは、ふと、何かを思い立ったようだった。
 

 
 
 「あいつ?」
 
 「えっ あ いや、そうじゃなくて」
 
 「もしかして ・・・沢田くんですか?」
 
 「!?」
 

 
 
 思考停止しそうな頭を持ち上げて、声の出ないままその顔を見る。
 

 
 
 「なん な、ななんでっ どうして さ、沢田が?」
 

 
 
 それは果たして日本語になっているのか。
 
 気が動転しているあたしに、彼は笑顔を向けた。
 

 
 
 「知ってます?」
 
 「へっ」
 
 「彼がいつから山口先生の事を見ていたか」
 
 「・・は?」
 
 「僕がこんな事を言うのも正直おかしいと思うんですけれど」
 

 
 笑顔が、少しだけ、遠くに向けられた気がした。
 

 
 「彼は貴方をいつもちゃんと見ていましたよ 僕より、ずっと前から」
 
 「・・・!」
 

 
 
 なぜだろう。言葉が出てこない。
 
 言い終わると篠原さんは自分のグラスを口に運ぶ。
 
 ずっと前っていつからですか?
 
 どうしてそんな事を知ってるんですか?
 
 聞きたい事は山ほどあったのに、一体なんだろうこれは。
 

 
 
 胸が、ぎゅっと詰まるような。
 
 
 
 
 
 「・・・・・なんだか変な話になっちゃいましたね」
 
 
 
 
 
 彼は苦笑いを浮かべてグラスを置いた。
 
 まだ言葉の出てこないあたしを見て、一瞬驚いた後、今度はまた優しい笑みを浮かべる。
 

 
 
 「僕もあのとき、そういう顔にさせたかったな」
 
 「え?」
 
 「・・・いえ、聞き流してください」
 

 
 
 
 今夜はその一杯でお開きとなった。
 
 店から出て賑やかな繁華街の空気を吸い込みながら気がつく。
 
 
 
 ―――雨が、止んでいた。
 

 
 
 
 「じゃあここで」
 

 
 言いながら篠原さんは湿ったコンクリートに足を踏み出す。
 

 
 
 「ああそうだ 今度は、また皆さんで飲みたいですね」
 
 「は、はいっ 是非!」
 
 「良かった じゃあ、おやすみなさい」
 
 「・・おやすみなさい」
 

 
 
 笑顔で去ってゆくあの人に、同じく笑顔で手を振った。
 
 息を漏らしながらコンクリートに足を踏み出す。
 
 
 
 必要のなくなった傘が、バックの横でゆらゆらと揺れていた。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 「ただいま〜」
 

 
 玄関の戸を開けると、いつものようにテツとミノルが現れる。
 

 
 「「 お帰りなさいやし!! 」」
 

 
 靴を脱ぎながら何気なく聞いてみた。
 

 
 「今日、あたしに何も来なかったよね? その、電話とか」
 
 「へぇ?特に何もありやせんでしたが」
 
 「そっ・・か」
 
 

 
 だよな。
 
 電話なんて来る筈がない。
 
 
 
 

 「お嬢、誰か連絡を待ってる方でも?」
 

 
 テツが少し神妙な顔つきをしている。
 

 
 
 「いやさ 沢田の奴にジャケット返したいんだけど、あいつの今の連絡先知らなくて」
 
 「・・・慎の字、ですかい?」
 
 「ふふ 笑っちゃうよなぁ 元担任が連絡先も知らないなんっ・・・・て・・・?」
 

 
 
 詰まった自分の声に誰よりも自分が驚いた。
 
 慌ててテツたちに背中を向ける。
 
 
 
 それは本当に、そう、本当に無意識の事で、自分でも信じられなかった。
 

 
 
 
 「お、おおおおお嬢っ 今もしかして、泣い」
 
 「ばかミノル 泣いてねぇよっ!!」
 
 「泣いてたじゃないっすかっ ねぇ兄貴 ・・・兄貴?」
 

 
 
 これは一体どうしたものか。
 
 両腕の袖で目から溢れ出るモノをごしごしと擦り取った。
 
 なのにそれは次から、次へと、止まらない。
 

 
 
 「お嬢、」
 
 
 
 

 静かな声でテツがあたしを呼ぶ。
 
 たぶん情けないくらい真っ赤な目をしている顔のままで、そっと振り向いた。
 
 ミノルは呆然としてこっちを見ている。
 
 けれどテツは、まるで覚悟を決めたかのような表情で。
 

 
 
 「渡してぇもんがあります」
 
 「・・・・へ?」
 
 
 
 渡されたのは、一枚の紙切れだった。
 

 
 
 「なんだよ、これ」
 
 「・・・・慎の字のジャケットに入ってたそうで」
 
 「あいつの?」
 
 「そうそう クリーニング屋の店主が忘れてたらしくて、今朝慌てて持ってきたんすよ」
 
 「へぇ・・」
 

 
 
 少し乾いてきた涙を軽く手の甲で拭き取りながら紙切れに目をやる。
 
 そこには、一行の走り書き。
 
 走り書きとはいえ読みやすく整ったその字は、確かにあいつのものだ。
 

 
 
 「なにこれ ・・・住所?」
 
 
 

 聞いた事もなければ見た事もない住所。
 
 何の変哲もない、ただの住所。
 

 
 
 『・・ペンと紙、持ってねぇ?』
 
 「!」
 

 
 飲み屋の席でのちょっとしたやり取りを思い出した。
 

 
 「これ・・・あたしの・・メモ帳・・」
 

 
 
 みんなが騒いでる傍らで、無言のままペンを走らせてるあいつの姿。
 
 そのとき破られたページは今どこにある?
 

 
 
 「・・・!」
 

 
 
 来い、という事なのだろうか。この住所へ?
 

 
 
 
 「お嬢?」
 

 
 
 
 あいつは可愛いあたしの教え子。
 
 夢を抱いている、未来に向かって歩いてる、あたしの教え子。
 
 
 
 
 「・・・なぁテツ・・あたし・・どうしたらいいんだろう」
 
 
 
 
 これからいろんな出会いがある。
 
 きっとあたしなんかよりずっと相応しい誰かとの出会いも。
 
 その未来を、あたしが汚す訳にはいかない。
 
 
 
 
 「・・なんだかもうごちゃごちゃで・・・よく分かんないよ・・」
 
 
 
 
 楽しかったあの頃の思い出。
 
 それさえも汚してしまいそうで、壊してしまいそうで。
 
 なんだか大きな雲が覆ってしまったかのように。
 
 自分の気持ちが、まるで見えない。
 

 
 
 「あっしには、何の事だかまったく検討がつきませんが」
 
 「・・え?」
 
 「たぶん お嬢は今、逃げてます」
 
 「!」
 
 「・・・今のお嬢は・・お嬢らしくないと・・・あっしは思います・・!」
 

 
 
 テツは、何かを辛抱するかのように、力強い目で言い放った。
 
 あたしは逃げている?
 
 云われてチクリとした胸がその言葉を真実だと知らせる。
 

 
 
 「素直になってください お嬢」
 

 
 テツの真剣な瞳。
 

 
 
 「・・・そんなの・・どうやって・・」
 

 
 
 頭の中に絶え間なく駆け巡るいろんな思い。
 
 砂に隠れた確信や、迷いや。
 
 
 
 
 
 
  『なんやごちゃごちゃ迷ったときは 全部捨てるんよ』
 
 
 
 
 
 
 捨てる?それはとてつもなく勇気のいること。
 
 冷たく打ち付けて降り続ける雨にあたしはずっと濡れていたのかもしれない。
 
 こんな雨じゃ傘も役に立たなくて。
 
 けれどいつしか止むのだろう。それはあたしの意思ひとつ。
 
 今の、こんな星空のように。
 
 
 
 
 
 冷たい雨が止み、湿った地面に残ったものは。
 
 
 

 
 
 “あいたい”
 
 
 

 
 
 ただ、それだけだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『あいつがいてくれればいいのに』
 
 

 
 何かがある度にそう呟く自分を不思議がることはなかった。
 
 それがどうしてなのかなんて今までまったく考えようともしなかった。
 
 
 
 
 そう、考えようともしなかったんだ。
 
 
 
 
 
 月が見ている夜の道を走り抜けながら、ふと気が付いた。
 
 あいつの連絡先ならクマにでも内山にでも聞けばいいんじゃないか。
 
 そう、それで携帯にでも電話すれば。
 
 わざわざこんな時間にこんな紙切れを握りしめて会いに行かなくてもいいんだ。
 

 
 
 そんなあたしの脳に逆らって、この足は止まらない。
 

 
 
 人気のない電車に飛び乗って2駅目。
 
 くしゃくしゃになった紙切れと住所を照らし合わせながら探し当てた3階建てのアパート。
 
 駅からほとんど距離がなかったため難なく見つけることが出来た。
 
 そして、切れた息を除けば、生まれて初めてこの言葉を正確に使いこなせたんじゃないかと思う。
 

 
 
 「・・・・き・・きちゃった・・」
 

 
 
 ドアを開けたあいつは、言葉を失ったかのように呆然としていた。
 

 
 
 「ご・・・ごめん・・・寝てた?」
 
 「いや 別に」
 
 「そっか・・・ははっ・・悪いなこんな時間に・・」
 
 「とにかく入れよ」
 

 
 
 まだよく状況を掴めないでいる様子で室内へと促すあいつ。
 
 息の荒い肩を落ち着かせながら、ゆっくりとその部屋に足を踏み入れた。
 
 高校の頃のあの部屋と比べれば随分と狭い部屋。
 
 けれど今思えば、1人で暮らすのにあの部屋は広すぎだったのかもしれない。
 

 
 
 「相変わらず殺風景なんだな あ、でも本は増えてる?」
 
 「雑貨に興味がねぇだけ ・・その辺座れば」
 
 「お おう」
 

 
 背中を向けて流しに向かうあいつ。
 
 とりあえず小さなテーブルの前に腰を下ろして床に紙袋を置いた。
 
 少しずつ息が整ってくる。
 

 
 
 「それ、なに」
 

 
 
 氷の浮いたアイスコーヒーを差し出しながら、あいつは目線をその紙袋に移した。
 

 
 
 
 「なにって おまえのジャケットだろ」
 
 「・・・は?」
 
 「だから おまえのジャケットを届けに来たんだよっ」
 
 
 「・・こんな時間に?」
 
 
 「えッ いやその 早いに越したことはないと思って・・?」
 
 「・・・・」
 
 「大丈夫だよ ま、まだ終電あるからっ」
 

 
 
 目茶苦茶な事を言っているのかは分かってた。
 
 けれど本心を見抜かれたらおしまいな気がしてならなくて。
 
 必死に目を合わさないようにする。
 
 異様に乾いた喉は、あいつが出してくれたアイスコーヒーをほとんど飲み干していた。
 

 
 
 「おまえ平気なの こんな遅くに外出歩いて」
 
 「え?」
 

 
 いつもと何も変わらない落ち着いた声のまま、ベットにもたれてあいつが座る。
 
 
 
 
 「平気って・・・あのな、あたし子供じゃないんだから」
 
 「あの家じゃ子供同然だろ」
 
 「へっ、平気だよ どこに行くかもテツ達にちゃんと伝えてあるし」
 
 「テツさんに?」
 

 
 
 一瞬、ぴくりと反応した。まるで驚くように。
 

 
 
 「な、なんだよ テツだってそんな過保護じゃないぞ?」
 
 「・・・」
 
 「むしろテツの奴が行けって言うから だから、あたし」
 
 「・・・・・・なに」
 

 
 
 ヤバイ。
 
 今、何かとんでもない事を口走りそうになったような。
 

 
 
 「何でも、ない」
 

 
 
 思わずつぐんだ口に、残り少ないアイスコーヒーを運ぶ。
 
 なんだかほんの少しの沈黙にも耐え難い。
 
 あいつの口が何かを切り出そうとしているような気がして落ち着かなくて。
 
 一気に全部飲み干すと、すぐさま立ち上がった。
 

 
 
 「さて、用事も終わったし帰るとするか ・・・じゃ、元気でな!」
 
 「ヤンクミ、待て」
 

 
 
 呼び止められて振り向くと、あいつは真剣な表情で身を乗り出して。
 
 あたしはまるで逃げ出すようにドアに向かった。
 
 
 
 
 
 「ご、ごめん沢田 終電来ちゃうから今夜のとこっ ろ ・・・わァっ!?」
 
 
 
 
 
 −バタンッ!!!!−
 
 
 
 
 
 
 向かった、のは頭の中だけで。
 
 踏み出した最初の一歩が、置いてあった紙袋の取っ手にそれはそれは見事、引っ掛かったのである。
 
 気がつけば冷たい床に突っ伏している自分。
 
 
 
 ・・・これはもしや?
 
 
 

 ゆっくりと頭を持ち上げてギギギと後ろを見れば。
 
 案の定、呆れ顔であいつが見ている。
 

 
 
 「・・・・だから待てって言っただろ」
 
 「遅いよっ!!(全てが)」
 
 「・・・・俺、頭から転んだ奴って初めて見たんだけど」
 
 「かっ、感心するなーっ!!!」
 

 
 
 強く打った額をさすりながら、恥ずかしさと情けなさで一杯一杯だった。
 
 あいつは笑いながらゆっくり腰を上げる。
 

 
 
 「昔から思ってたんだけど 運動神経はいいのによく転ぶよな」
 
 「・・ほっとけっ!」
 
 「いいんじゃねぇの おまえらしくて」
 
 「う・・・嬉しくねーよ・・アホ」
 

 
 
 近づいてくる気配を、俯いたままでもしっかりと感じ取れた。
 
 目の前にしゃがむと顔を覗き込んでくる。
 
 むせ返る様なその匂いに思わず一瞬閉じられる、あたしのまぶた。
 

 
 
 「・・・なんだよそれ」
 

 
 
 怪訝そうな声にそっと目を開くと、不愉快に眉を寄せるあいつの顔が飛び込んできた。
 

 
 
 「お、おまえには前科があるからな!」
 

 
 
 なんせ、あたしは両手でしっかりと自分の口元を押さえていたから。
 

 
 
 
 「・・・あっそ・・・」
 
 「て てめ あっそじゃないよ あんときゃよくも人の唇をっ」
 
 「これ痛くねぇの?」
 
 「は」
 

 
 
 あいつは人の話などまるで無視して、手の平をあたしの額に当てた。
 
 ごしごしと。それは撫でてるのか?擦ってるのか?
 

 
 
 「いっ・・触られるとちょっと・・・痛いけど・・」
 
 「コブになるな、明日」
 
 「うげっ この歳でおでこにタンコブかぁ・・・情けない・・」
 
 「誰も不思議には思わねぇだろ」
 
 「どーゆー意味だっ」
 

 
 
 皮肉めいた笑みを浮かべたまま、その手の平は優しく額を包み込んだ。
 
 角ばった長い指からあいつの体温が直接伝わる。こいつの手ってこんなに大きかったっけ?
 
 その感覚はなんだか心地良くて、危うく我を忘れそうになった。
 
 慌ててその手から逃れようと身をよじる。
 

 
 
 「あ そ、そーだ沢田っ ほらあたし終電が」
 
 「なんで来たんだよ」
 
 「へ?」
 
 「・・・・・なんで来たんだよ、ここに」
 
 「!」
 

 
 
 深い、深い、瞳。
 
 その瞳は今あたしに、ひたすら真っ直ぐ、向けられている。
 
 逸らしたいのに逸らせない。
 

 
 
 「なんでって だからジャケットを」
 
 「それだけかよ」
 
 「そうだよ そ、それだけに決まってんだろ?」
 
 「こんな遅くに?」
 
 「いや、だからそれはっ」
 
 「メモ握りしめて?」
 
 「え」
 
 「息切らせて?」
 
 「・・う」
 

 
 
 かわしたいのに、かわせない。
 

 
 
 「なぁ言えよ 思ってること、全部」
 

 
 
 肩の力がふっと抜けた。
 
 口元を覆っていた両の手が床に落ちる。
 
 すると額を包んでいたあいつの手も離れていった。
 
 戸惑うあたしを、ただ見据えて。
 

 
 
 「・・・・・・・ったんだ」
 
 「は?」
 
 「・・・・・あ・・・あいたかったんだ・・・おまえに・・」
 
 「!」
 

 
 ああ、驚くような顔をしてる。
 

 
 
 「だっ だって よく考えてみたらあたし今のおまえの事ほとんど知らなくてさっ」
 

 もうマトモに目なんか合わせていられなくて。
 

 
 
 「あんな事言われたっきりもしかしてもう会えないのかと思ったら、途端に不安になっちゃって」
 

 この視線の居所が欲しい。
 

 
 
 「でももっとよく考えてみると誰かに聞けばいいんだよな はは あたしってば大袈裟な  ・・!!」
 

 心臓が、止まりそうになった。
 

 
 
 
 「さわ」
 
 「・・・・いい、やっぱ黙ってろよ」
 
 「へっ な、なんで」
 

 
 その両手に、頬がすっぽり包み込まれている。
 

 
 
 
 「・・・勿体ねぇから」
 

 
 
 
 なんだかまるで、ぶっきらぼうな子供のようにも思えた。
 
 表情を見ることができなかったのはそれがすでに目の前にあったから。
 
 思わずビクついて目を閉じると、優しい感触は、額に落ちる。
 

 
 
 「さ、さわだ?」
 

 
 
 包み込む両手、あたしのものでない体温が、熱い。
 
 認めるしかないと思った。
 
 あたしはこの手を振り払えないのだと。
 
 この手を待っていたのだと。
 
 生徒でも何でもなく、ただのあいつを必要としているのだと。
 
 あの夜、こいつが動かさなければ。
 
 きっと一生分からなかったであろうあたしの気持ち。
 
 
 
 
 「!」
 
 
 
 
 それはあまりにとっさの事で。
 
 息遣いを鼻の先に感じるとあたしの両手は素早く口元をガードしていた。
 
 
 
 
 「・・・・・・。」
 
 「・・・・・・。」
 
 
 
 
 至近距離のあいつが動きを止めて、お互い無言のまま見据え合う。
 
 やがて漏れた小さなため息があたしの顔に当たった。
 

 
 
 「・・・駅まで送る」
 
 

 
 
 言いながら遠ざかり立ち上がろうとするあいつの上着が揺れる。
 

 
 
 
 「ヤンクミ?」
 

 
 
 
 その裾を、今度は咄嗟に掴んでいた、あたしの手。
 
 ハッと我に返ると慌てて離した。
 

 
 
 
 「ごめん な、なんか、条件反射で」
 
 「さっきのは?」
 

 
 う゛
 
 

 
 「・・・・・さ・・・さっきのも、デス」
 
 
 
 
 
 なんだよなんで敬語だよ。
 
 あぁもうダメだ。
 
 死んでしまいそうなくらいに居心地が悪い。

 
 
 
 
 横から伸びる手に眼鏡が外される。

 


 今すぐ逃げ出したい。
 
 できれば消えてしまいたい。
 
 
 
 
 

 ―――けれど、此処に居たい。
 
 
 
 
 

 
 閉じたまぶたの裏にひらひら舞っていたのは教師になって初めて見たあの桜。
 
 こいつと出逢った遠い遠い春に見たあの桜。
 
 
 
 
 

 
 
 
 遠くで、終電の去る音が、かすかに聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「・・・・・・寒ッ」
 

 
 まだ鳥の鳴き声さえしない早朝は、まるで青の世界。
 
 肌に突き刺さるような冷たい空気に身震いをして1人アパートの階段を下りる。
 
 コンクリートに足を踏み出してそっと振り返った。
 

 
 
 これでよかったんだろうか?
 

 
 
 目を覚まして、横に眠るあいつを見て、最初に思ったのがそれ。
 
 なんだかとんでもない事をしでかしてしまったような気がしてならなくて。
 
 慌てて服を身につけると、そう、まるで。
 

 
 
 「・・・逃げてきちゃったのか?・・あたし・・」
 

 
 
 ハハ、と苦笑いして歩き出す。
 
 冷えた空気は慣れてくるとなかなか気持ちいい。
 
 だって今日も学校があるし。家に連絡入れてないし。ああ何て言おう。
 
 電車がまだないなら歩いて帰ってもいいかな。
 

 
 
 いろんな事を考えて気を紛らわそうとしたけど、やっぱり駄目だった。
 

 
 
 体が痛い。心も、痛い。
 
 なのに昨夜の事を思い出すたび火照る頬。
 
 どうしてあたしはまたあいつから逃げ出したのだろう。
 
 今度こそ、軽蔑されるかもしれないな。
 

 
 
 「・・?」
 

 
 
 息を吹きかけて温めようとした手に覚えた、かすかな違和感。
 
 正確にはその中の1本の指。
 
 その理由を探し当てると、思わず足が止まっていた。
 

 
 
 
 「なに、勝手に帰ろうとしてんだよ」
 
 「!?」
 

 
 
 その声に振り向けば、軽く息を切らしたあいつが立っている。
 

 
 
 
 「さ・・さわだ・・・これ」
 
 「それが何」
 
 「あっ ま、まさかあたしが寝てる間に!?」
 
 「おまえ好きだろ?」
 
 「へっ」
 
 「・・・そういうドラマみてぇなシチュエーション」
 
 「!!」
 

 
 
 言葉が続かないあたしを見ながらあいつは笑った。
 

 
 
 「ちゃんとしたケースに入ってるやつじゃなくて悪いけど」
 
 「ばっ・・」
 
 「とりあえずそれで、信じろよ」
 
 「!」
 
 
 
 「俺を信じろよ」
 

 
 
 まるで全身全霊が込められたかのような、真っ直ぐの言葉と瞳。
 

 
 
 いつだってそう、より長く、あたしの話に耳を傾けて。
 
 より正確でより安心できる言葉をくれた。
 
 そういつだって。これまでも、そしてこれからも?
 

 
 
 「・・・なんでおまえは・・・いつもいつも心臓に悪い事ばっか・・・」
 
 「おまえの心臓ならまだまだ平気だろ」
 
 「ハイィ?」
 
 「まだまだ、覚悟しとけって事」
 

 
 
 相変わらずな無愛想のまま、冷えたあたしの両手を取って温かい息を吹きかける。
 
 シルバーのリングが白く曇ってはまた戻り。
 
 
 
 例えばあたしが知らずに大事な何かをこぼしたとしても、こいつが受け止めてくれている。
 
 今までずっとそうだったんだ。あたしが気付かなかっただけ。
 
 きっと今溢れ出たこの涙さえすくい取り、形を変えて差し出すのだろう。
 

 
 
 「あのさ」
 
 「・・な・・なに・・」
 
 「タンコブ、すげぇよおまえ」
 
 「・・!!」
 

 
 
 寄り添う事の意味を知った秋初め。
 
 あたしの必要としていた存在は、あたしが必要なのだと、小さく囁いて。
 
 昇り始めた朝日の温もりが頬に当たる。
 
 

 
 
 『こいつに会わせてくれてありがとう』 
 
 
 誰でもない誰かに、そっと感謝した。
 
 
 
 
 
 
 

 END
 
 
 
 
 
 
 ■MAKADAM IAN NATU管理人の、なちこ様から慎クミssですーー!!
 
 ◎なちこ様のコメント

 す・・すみません・・・本当にもう・・・長すぎ!!(滝汗)
 約2ヶ月ぶりの創作で、溜まっていた妄想が溢れんばかりに次から次へと、こう、アハハ。
 おまけに大遅刻までやらかしてしまいました。有希ちゃんごめんなさい。
 数ある傑作の隅っこにこっそり埋もらせてもらえれば幸いです。ちらっと頭だけ出してます(笑)
 遅刻しちゃったけど、やっぱり今回も参加できて良かった♪
 有希様、そしてpurelyを愛して止まない皆様、本当に有難うございました。
 
 ◎有希乱入コメント
 
 うきゃー!!今回は久美子視点だーー!!!(どっちも最高に嬉しいんだけどネ)←殴
 ヤバイ…もう、本当にヤバイくらいに素敵っ、さすがだワ、えぐえぐえぐ。(大感動)
 前回のコメントにも書きましたが、ワタクシ自身が書きたい慎クミ像って、なっちゃんの世界にピッタリなんですよね><
 そりゃあ、初めてなっちゃんの素敵慎クミ作品群に巡り会えた時は、頭をガツーンと殴られたみたいに衝撃を受けたものですヨ。
 会話とか、心の中の気持の表現とか、何処を読んでもホント溜息が出ちゃいます。(ホゥ)
 慎ちゃんの台詞の一つに「・・・勿体ねぇから」、こ、ココの一文!! フーと意識が遠くなりました。←危
 てか、長編大好物ですよーーーvv その次から次へと溢れてくる妄想をストレートに作品に活かせる技に、
 これまた感動させられっぱなしの、有希でした><v
 へっへっへ、実はこの素敵作品の慎ちゃん視点があるそうで@@ニヤリ。←情報魔
 いつか、なっちゃんのサイトでお披露目して頂けるみたいなので、皆様楽しみにしましょうネv
 ・・・って、プレッシャーかけてないですよー、なっちゃん!!(汗)
 
 
 なちこちゃんへv
 
 なっちゃーーーーん!!!!!!何処が気に入らないのか、有希っち本気で悩みましたよぉぉ><
 今回もやってくれたねぇ〜ゲヘヘ…と、送って下さった時は、ワタクシかなり危ない人間でしたよv←壊
 て、てか、サイトもうすぐ復活なんですよねー!!><(万歳) 待ってたんですヨ〜〜〜!!!!!
 もうもう、毎日寂しくて寂しくて・・なっちゃんの日記が読めないなんて、有希っち、辛すぎます(涙)
 サイト復帰されたら、また作品群達を拝ませて下さい、わたくし、勉強し直します^^;←凹んだ
 でも、ホントなちこ慎クミワールドツボです、最高だワ〜v 絶対その技を自分のものにしてみせます、へへへ。(盗)
 いつもいつも、その可愛くて少し天然なキャラと、何よりもなっちゃんを包む優しい空気そのものに、この人癒されております。
 お祝いメールも本当に有難う〜〜!!凄く嬉しかったよ〜〜宝物フォルダに移動しました。笑
 これからも、なっちゃんワールドの住民でいさせて下さいねv絶対に長老になってみせますv
 この度も当サイト競作企画への参加、本当に有難うゴザイマシタ!!創作お疲れ様、素敵な世界を有難う><
 
 
                                        
   
 
BACK?