「アタシ、結婚決まったんだ」
彼女はにこりと笑った。
宴 前
『本日、七時に沢田の家に集合。酒、肴は各自持ち寄ること』
誘いでも相談でもなく、やや角張った文字が液晶の中でそう告げた。
既にそれは自然の流れとなっており、俺はメールを打ち返すまでもなくジーンズの後ろポケットに携帯を突っ込む。
ちょうど酒が飲みたいと思っていた。
いや、これは嘘か。
――ちょうど彼女に会いたいと思っていた。
大学から自宅のアパートに戻るその途中、俺は進路を変えて滅多に入ることのないスーパーに寄る。
コンビニよりは品揃えが良いし、以前ここで買ったイカの燻製は今では彼女の好物に名を連ねている。
ビールは家にあっただろうか。
ふと考えて十二本パックをかごに入れる。
ありすぎて困ることはこの世にはたぶん、ない。
自宅の前には既に男が一人いた。
「…ッス」
彼は長い体をドアの前で器用に折りたたみ、俺に気づくと片手を挙げて微笑む。
その笑顔は高校生の頃と寸分変わらぬ面持ちでそこにあるはずなのに、なんとなく違和感を覚えるのは、
俺自身が変わったせいなのだろう。しかしそれは、考えても仕方ないこと。
内山は立ち上がってゆっくり伸びをした。その手には俺と同じような白いビニール袋が握られている。
先ほど買ったものと同じビールの銘柄が濡れた袋から透けて見えて、俺は小さく笑った。
「何?」
内山が聞く。
「いや別に。早かったじゃん?」
「仕事の用事でこっちのほう来ててさ。ヤンクミのメール見てソッコー来たワケ。慎こそ早いじゃん」
「俺も帰り道だったから」
「大学生が直帰かよ。慎らしすぎて笑えねぇし」
そう言って内山は笑う。
こういう矛盾は気持ち悪いというより、寧ろ心地よい。
キーホルダーも何も付いていない簡素な部屋の鍵を出して、ドアを開けた。
手探りでスイッチを入れると見慣れた光景があたりに広がる。
冷蔵庫を覗くと缶ビールが二本だけ冷えていた。それを内山に手渡して、交換するように彼の袋を受け取る。
「……慎、ごめんな?」
「は?」
ドアを閉める。
もちろん大量の酒が一人暮らしの冷蔵庫に入るはずもなく、内山の持ってきたそれは手付かずで横に放置した。
しかしながら、これらがなくなるのも時間の問題だ。
あの女が来るのだから。
「いやなんでもない。ちょっと言ってみたくなってさ」
プシュとプルトップが鳴る。恋人を焦らすかのような内山の台詞に疑問を抱かなかったのは、
久々に彼女と会えることで有頂天になっていた俺のせいかもしれない。
■ □ ■ □ ■
第二の始まりは、慣れない愛想笑いに疲れた飲み会の帰りだった。
二次会へ連れて行かれるのを既の所で断ると、俺は終電に飛び乗った。
一年受験が遅 れたため、周りの大半は年下のはずであったが、
笑顔の仮面で向かってくる同級生は自分の知っている『学友』とはあまりにも違いすぎて、
酷い違和感を覚えたのを今では思い出す。
もっとも今となっては彼らが特別大人びているとは思わない。
白金の連中があまりに無邪気すぎただけだ。
最寄り駅に降り立った時は、すっかり疲れていた。
徐に自らの肩を叩く仕草をして、そんな自分に笑う。これではあの、元担任ではないか。
気づけば声を上げて笑っていた。
すれ違った女性が不思議そうに俺に視線を投げ、目が合うと逸らした。
多少酔っ払っていたかもしれない。
携帯電話を取り出す。できるだけ素早くコールする。ためらう時間を作りたくなかった。
『もしもし、沢田?』
薄っぺらな電波の向こうで女は言った。
「よ。四十肩は治ったか?」
『……は?どうした?珍しいな。こんな時間に』
「何してた?」
『……お前、アタシの質問に答える気あるか?』
ない、と初めて小さく答える。
電話の向こうでくぐもった声がする。おそらく笑ったのだろう。
『お前、飲んでるだろ?』
「うるせぇ。今日、新歓だったんだよ。もう帰り」
駅を出て直ぐの自販機で煙草を買う。
広告を照らす蛍光灯が切れてチカチカと点滅していた。
きっとこの光景を見たら、この元担任は顔を真っ赤にして買ったばかりの煙草を取り上げるに違いない。
十九歳は立派な未成年だ、と言い張って。
それを想像すると少し笑える。
『なんだよ、沢田。気持ち悪ぃぞ』
「ヤンクミ、何してた?」
有害な煙を肺に入れると、少し頭がすっきりした。
そしてその分心配になる。学生の自分は良いとして彼女は明日仕事のはずだ。
もしかしたら寝るところだったかもしれない。
ヤンクミはそれを察したようだった。
『ああ、大丈夫。今篠原さんと会ってたんだ。アタシも外だから』
冷えた頭にカッと血が上る。
腹立たしくなった。
篠原と会っている女に対してではない。それを躊躇いもなく告げるその神経に対してだ。
『な、今日満月だぞ?空見てみ』
もっともそれは俺の勝手な言い分だ。
彼女を責めることなんてできない。俺は何も告げていないのだから。
「……アイツと一緒じゃないのか。送ってもらえよ、こういう場合は。彼氏、に」
二人が付き合い始めたことを知ったのは、あの暑い空の下だった。
数ヶ月ぶりに電話の通じる町にたどり着いた俺は、何の迷いもなくその番号を押した。
諳んじて言える十一桁の番号。
その番号に付加する数字が多い分だけ、彼女との物理的な距離は遠い。
コールの時間が待てないほどだった。体力的にも精神的にも、俺は彼女の歯切れ良く、
そして自分を上手に駄目にする言葉が必要だったのだ。
少しして聞こえた懐かしい声。
距離の分だけ増えたノイズもそれを邪魔することは出来なかった。
ヤンクミの台詞を反芻するかのように目を閉じ、ゆっくりと喋る俺に、あの時も彼女は無情に告げた。
その、誠にありがたくない朗報を。
あれから一年近く。
電話に関する面倒な手続きは必要なくなった。
しかしボタン一つで彼女に繋がる今のほうが、よほど俺には難しい。
酒の力に頼った自分に呆れてしまう。
『うーん、それも具合が悪くてな』
「は?お前何言ってんの?」
『やむを得ぬ事情と申しますか…』
まったく要領を得ない反応に苛苛とする。
考えてみればすごい女だ。
この俺を笑わせるのも苛立たせるのも、本当の意味では彼女だけなのだから。
「篠原も意外と薄情なんだな」
ふん、と鼻で笑った。
我ながら嫌な感じだ。こちらに帰ってきてから彼自身には会っていないが、
高校時代に見た嫌味なほど爽やかな笑顔を思い出すと、相対して俺は不機嫌になる。
『いや、篠原さんのせいじゃないよ。アタシが断ったんだ!』
「またお前、変に気を使って…」
『というか、無理やり返したんだ。正直アタシもきつくてな』
「…意味わかんねぇけど」
あのな、と彼女は一つ息を吐いた。
『篠原さんとはサヨナラしたんだ。…というか今別れてきた。お前が電話くれる五分前に』
「うわ、ほんとに来たよ」
「お前……さぁ」
「夜中の学校ってスリルあるよな。ちょっと正気じゃ来れないかも」
「失恋してくる場所が、学校って。寂しくね?」
懐かしい場所だ。
変わっていく世間に対抗するかのように頑なに変化を拒んでいる。
そんな気がした。
この教室の主である女は、教卓に腰掛け、足をぶらつかせていた。
「ふふふ、なんかここで沢田に会うのも変な感じだな。制服着てくりゃ良かったのに」
「……無茶言うなよ」
電気を付けることが出来ないそこは、暗かった。
しかしながら満月の光で、真っ暗というわけではない。
証拠に、俺には彼女の表情までもがよく見えた。
「飲んでるなー。不良はっけーーん」
「お前さ、さっきの、どういうこと?」
「あ、そうだよ。お前未成年じゃんか。そのままアタシに会いに来るとはいい度胸だ」
どうも話が食い違っている気がしてならない。
きっとそれは俺の胃に残るアルコールのせいではない。
彼女の目元が微かに赤いせいだ。
「お前俺の質問に答える気、あるか?」
「ない」
自分で言ってヤンクミは噴出す。
どっちが酔っているんだ、と思う。
諦めたように一つため息を吐く。実際には何も諦めてなんかいないのに。
「よくあの鍵のこと知ってたな」
「あ、もしかしてお前らも知ってた?変だと思ったんだ。たまに生徒が夜中に忍び込んでるって聞くから」
「言っとくけど、俺は使ったことないよ」
「分かってるって。学校嫌いのお前が、夜中にまで来る意味ないもんな」
ははは、と笑う彼女を見て、俺は不安になった。
もう少しで言ってしまいそうだったのだ。
――お前がいるなら、夜だって朝だって、来ても良いよ、と。
非常に危険だ。
どうやら自分は思ったより酩酊しているらしい。
「怖がりの癖に。なんで学校に来たんだよ?」
「いや、ふと思いついたから。ここしかなくてさ」
「相変わらず、汚ねぇな」
「でも安心するだろ?」
安心。それは正しい。
変わり行く中で変わらない場所というのは意外に少ない。
状況だって移り変わるし、自分自身もまた同じだ。
教室の落書きの内容は多少変化しているようだったが、
その本質にあるものが変わらないことは、それを書いている本人たちより、今俺たちを和ませる。
「ぶ。脱ドーテーだって。頭わりぃな。誰だこれ?漢字で書けよ」
「そういう視点か」
ヤンクミは眼鏡を外していた。
どうやら今は『山口先生』ではなく『山口久美子』であるらしい。
それが俺にとって都合が良いのか悪いのかは、まだ検討が付かない。
「大学、どうだ?」
「……まあ、普通」
「正直ちょっと安心したよ。お前が日本に戻ってきてくれて」
「気が済んだからな。自分がいかに甘ったれてたかもよく分かったし」
「それってすげぇな。沢田、大人じゃんか」
「…馬鹿にしてんのか?」
くくく、と笑う。
肯定でも否定でもなかった。肯定されなくてよかった、と思う自分が可哀想になる。
「お前がアフリカだったら、今アタシは一人だしな」
いきなり話が確信に戻った。
俺はどきりとする。
「声が聞きたかった時にタイミングよく電話が鳴ったから、びっくりした」
「俺の声が?それとも誰かの声が?」
それには答えない。
「おっと、同情するなよ。別にフラれたわけじゃないんだから」
「フッたのか」
「いや、そうでもねぇんだけど」
「じゃあ、フラれたんじゃん」
「フラれたフラれた言うな!」
どうも調子が悪い。
真夜中の学校に二人きり、失恋で傷ついた女にそれに惚れている男。
絵に描いたようなシチュエーションなのに、しっくりこないと思うのは、俺が望み過ぎなのだろうか。
ヤンクミは勢いよく教卓から飛び降りた。急に自分より低くなった身長にどきりとする。
それがまったく無意味であることは分かっての反応だ。
「いい人だったなぁ」
「…そうか?」
「勿論。いい男だったよ」
そうか、とつぶやく。
今度は疑問文ではない。
たった数十分前まで彼女の恋人だった男に、つまらない嫉妬を覚える。
もちろん、それは常日頃から感じ続けていることではあるが。
「な、沢田。それ煙草?」
「……さぁな」
「いまさら惚けるなよ。とっくに違反してるくせに。そいつ寄越せ」
ジーンズのポケットに彼女の手が触れた。
むやみに触らないでほしい。
正直言って俺は正気ではない。
今ここで手が出る可能性は、ないでもない。
まあそれは俺にとって、ない、という意味なのだけれども。
「おい」
「ん?」
「何やってんだよ」
「あれ、煙草って吸うもんだと思ってたよ、アタシ」
「何でお前が吸うんだよ」
「未成年者の沢田よりは、よっぽど資格がある」
彼女の唇が白い煙草を咥えている。
はっきり言って似つかわしくない。
「おい、火は?」
「駄目だ」
「何だよ。ケチ」
彼女の口から無理やり煙草を奪い取る。
ぎゅっと握ったら他愛もなくそれは小さく潰れてしまった。
柔らかく。儚く。
「お前、煙草吸えんの?」
「いや、吸ったことない」
「じゃあ、吸うな。不味いし体に良くない」
まったく矛盾したことを口にする。
じゃあ、何故お前は吸うんだと問われれば、言葉に詰まることうけあいだった。
しかし彼女がそう問うことはなかった。
寂しげに笑う。
揺れるように笑う。
「そう思ったから吸いたかったんだ」
■ □ ■ □ ■
この宴を開いた張本人は、一番最後にやって来た。
全員揃っていることを目で確認すると、満足そうに頷く。
そして慣れた様子で腰を下ろした。
「お前ら、感心だな。褒めてやる」
缶を開けて手渡してやった。
それを見て南がにやにや笑っている。
余計なお世話だ、と睨んでやると彼は肩を竦めてクマで遊び始める。
彼女は実に美味そうにビールを呷った。
実際、彼女が飲んでいるものは、自分たちとは違うのではないかという気がしてならない。
ヤンクミの飲みっぷりを見ると、俺はいつもそれを確認したくなる。
「つーか、ヤンクミ急過ぎんだよ。俺らにも都合があるっつーの」
既に飲み物をオレンジジュースに変えて野田は言った。
至極当然の意見に俺を除いた全員が頷く。
「でも全員いるじゃねぇか。お前らも暇だなぁ」
俺の買っておいた肴を目ざとく見つけた彼女は、確認もなくそれを開けた。
実際にそうだったので、皆つまらなそうに黙り込む。
「悪かったな、沢田。部屋借りて」
「そーだよ、慎の都合も考えてやれよ」
スナック菓子を抱え込みながらクマが初めて口を利いた。
彼は酒より、食べているほうが幸せそうだ。
でも余計なことは言わないでほしい。
都合を考える時間を与えたら、この変に謙虚な女は、きっとここを訪れなくなる。
「別に」
上手く説明できなくて、俺はそうとだけ言った。
枝豆に手を伸ばす振りをして、ちらりとヤンクミを盗み見る。
幸いクマの言葉を気にした様子はなかった。
ほっとしている自分に気づき、焼きが回ったな、と自嘲する。
「ヤンクミは一人身だからいいけどさぁ。若い俺らは色々忙しいわけよ。デートとか、デートとか、デートとか……」
「全部デートじゃねえか」
南とヤンクミが笑いあう。
内山がコホンと一つ咳をした。
「そうだ。それにな、今日は報告があって集まったんだ」
「何、ついに退学者が出たの?」
「あれだろ。この間、やばいって言ってたの。学校燃やしそうになった奴」
「早かったなぁ」
勝手に完結して飲み進める元教え子たちに、彼女は慌てて否定する。
「違うって。あいつは今じゃ更生して優等生だっつーの」
「マジで!?」
「……は言いすぎだけど」
艶々の額をなでる。
話が逸れているのを感じて、俺は役割を思い出した。
「で、何だって?」
「いや、鈴木が燃やそうとしたのはな、学校じゃなく……」
「じゃなくて。報告」
ああ、と彼女が頷く。
唇が乾いたのか、ビールに口を付け、湿らせる素振りをした。
「アタシ、結婚決まったんだ」
彼女はにこりと笑った。
いや、訂正。
――彼女は不敵にほくそ笑んだ。
NEXT
[宴 後]に続く
*ルージュのアイコンからどうぞ。