「アタシ、結婚決まったんだ」
冗談にしては面白くない、と思った。
宴 後
練り歯磨き粉のCMに出てきそうな、爽やかな刑事でもなくて。
もちろんその部下の西部警察マニアでもなくて。
はたまた弟分の人相は悪いが気の良い男でもない。
それが彼女の提示した、結婚相手だった。
「ヤンクミもついに結婚かぁ。意外と早かったよな」
これは内山の台詞。
おい、お前ら。 おめでとうって、正気か?
そんなに素直に信じるなよ。何お前も照れてんだ。
和やかな宴が続く中、俺だけ事の展開についていけずに、空き缶を握り締めている。
口を挟む隙もなかった。
彼女は男の名を明かさない。
そして元3Dの面々もそれを深く追求しようとはしなかった。
言いたくないことを穿りだすのは正しくない。
確かにそうであるが、この面子ではそんな常識は通用しなかったはずだ。
大人になるというのは、こんなにつまらない事だったろうか。
ヤンクミの一言で止まってしまった俺の時間を無視し、変哲もない缶ビールが、彼女の祝杯に変わっていく。
「アタシも今年で二十六だ。早くもないけど、遅くはなかったろ?」
「まあ、確かになぁ。俺、ヤンクミって三十過ぎても独身な気がしてた」
ははは、参ったかと彼女が笑う。
口の端に菓子の欠片を付けて言っても、そう説得力はない。
ふと、内山がそれに手を伸ばした。
「どうした、慎?」
言われて自分が内山の手を掴んでしまったことに気づいた。
皆が二人に注目している。
そしてヤンクミの目も。
「や、別に。なんでもねぇ」
咄嗟に言い訳をしようとしたが、面倒臭くなり止めた。
酷く喉が渇く。動悸が早い。
全てを酒が足りないせいにして、まだ空いていない缶を見つけ一気に呷った。
――なんて自分は愚かだったのだろう。
(ヤンクミって三十過ぎても独身な気がしてた)
そんなクマの言葉に皆笑ったけれど、俺は笑えない。
俺も同じだ。
篠原との別れを知った後、俺たちの周りは、いたって平穏に時が流れた。
それはつまり、俺と彼女の間を邪魔するものが何も現れなかった、ということ。
しかし、その結果がこれだ。
正確に言えば現れなかったのではない。
元生徒、という肩書きしか掲げられなかった俺に、彼女がそれを見せなかっただけ。
(声が聞きたかった時にタイミングよく電話が鳴ったから、びっくりした)
(俺の声が?それとも誰かの声が?)
現状に満足していたのだ。思えば彼女はその問いに答えなかった。
それを勝手に都合よく解釈して、誤解していたのは俺だ。
一言も言わなかったではないか。俺を、待っていたとは。
――なんて格好悪い。
「式はいつ挙げるんだ?こりゃ、3D全員集合だな!」
煩い、南。
「え、もしかしてヤンクミ、ウエディングドレスとか着ちゃうの?……げぇ」
煩い。煩い、野田。
「パーティーはバイキングにしてくれよな」
煩い。煩い。煩い、クマ。
「良かったな、ヤンクミ……慎もなんか言ってやれよ」
煩い。
煩い。
煩い。
煩い、内山―――。
「………良かったんじゃん?」
おめでとう、とは言わない。
全然めでたくないから。
何とか口の端をあげることに成功した。
それは酷く不器用な笑みになったに違いない。
空になった缶が細かく揺れている。
どうやら自分は酔っ払っているみたいだ。
何か、酷く恐ろしいことを言ってしまう気がした。
「俺、酒追加してくるわ」
掛けてあったジャンパーを引っつかんだ。
四月と言えど、夜は寒い。しかしながらそんな考えは毛頭ない。
ただ、何か手順を踏まないと、その部屋から離れることも困難だった。
バタン、とドアが閉まる。
隣から苦情が来るかもしれないが、構わなかった。
しばらくその場で息を整えていると、閉ざされたドアの向こうから話し声が聞こえる。
聞きたくない。
そう思ったかは定かではないが、俺は駆け出した。
「逃げられたよ、アタシ」
「すげえ。慎があんなに動揺しているとこ、初めてみた」
「酒追加って、まだ丸々一ダース残ってんだけど」
これが俺の知らなかった、彼らの会話。
心臓の音が聞こえる。
それは偽者の玩具みたいな速さで、俺の中を駆けている。
できるだけ何も考えずに最寄のコンビニまで来たが、財布を持っていないことに気づき、盛大なため息を吐いた。
元々本当に何かを買いに来たわけじゃなかったし、酒がまだ余っている事も気づいていた。
ただあのままあそこにいては、話のせいか酒のせいか分からぬが顔を赤らめた女に、
自分でも想像できないような言葉を投げつけてしまうと思った。
それは彼女を傷つけるような、汚い言葉かもしれない。
もしかしたら、その逆かもしれない。
どちらにしろ、それは俺の望むことではなかったし、
そんな場面を想像してしまった以上、俺はあそこにいる資格がなかった。
「かっこ悪ぃ」
車輪止めに腰掛ける。
雨が降ったのかコンクリートが僅かに濡れていた。
(………良かったんじゃん?)
先ほどやっと口にした台詞を、もう一度噛み締める。
結婚したい、との言葉は聞いたことはなかったが、あれだけ乙女チックな思考を持つ彼女だ。
きっと、結婚も、ウエディングドレスも、結婚指輪だって憧れていたに違いない。
そういえば、さっきは指輪を見せなかったな、と次第に冷静になっていく頭で考えた。
彼女は普段アクセサリーをしないから、俺が見た唯一の装身具は、
篠原が寄越したというシンプルな銀色の指輪だけだ。
今はどこにしまっているのかは知らない。
ただ思い出を大事にしている彼女のことだから、捨てたということはないんだろうな、と思う。
また、嫌なことを思い出してしまった。
俺は唸った。
しかしながら悪夢は続く。
「沢田……くん?だよね」
不意に肩に手を置かれ、弾かれた様に振り返った。
歯磨き粉のCM、と自分自身が表した男が、些か驚いた様子でそこにいた。
「アンタ」
「久しぶり。少し感じが変わったね」
記憶の中の男と、今目の前にいる男がぴたりと合わさった。
それは寸分違わないが、俺の想像よりは幾分疲れた様子だった。
手の中のビニール袋からはサンドイッチと俺の嫌いな銘柄の缶ビールが見える。きっと勤務帰りなのだろう。
「こんなとこにしゃがみ込んでどうしたの?家この辺だっけ?」
篠原が親しい旧友に会ったかのように振舞うのが勘に触った。
一年間日本を離れていても忘れることの出来なかったあの女に、その間ずっと付いていた男だ。
しかしながら実際のところは、今この場で、このどす黒い思いをぶつけられる相手を探していただけかもしれない。
「アンタ知ってる?」
「へ」
「アイツ、結婚するんだってよ」
アンタ、とかアイツとか、指示語ばかり使ったが、篠原は理解しているようだった。
一瞬狐に抓まれたような顔をしてポカンと口を開けていたかが、しばらくして眉をひそめてこう言った。
「それは君と結婚するってこと?」
「違ぇよ」
だったら何も苦しいことはないのに、と俺の中の誰かが言う。
しかし本心を持つその一部は俺自身と同様天邪鬼で、決してそれを口にしたりはしない。
苦しい。
やっと自分の気持ちの正体が分かった。
苦しくて、悲しくて、寂しくて、少し泣きたい。
「え、だって。久美子さんが―――誰と?」
「勝手に呼ぶな」
考えるまでもなくそう言った。
そして、しまったと後悔する。
咄嗟に口を塞いだが後の祭りだ。
こんなに格好悪いこと、言うつもりはなかったのに。
意外にも、篠原は笑った。
「ああ、懐かしいな」
「は?」
「沢田くん昔言ったよね。川原でさ」
「……ああ」
まだ学生服に身を包んでいた頃の話だ。
俺は彼女にとって一人の生徒でしかなかったし、この刑事だって、彼女にとっての憧れの人でしかなかった。
座り込んだ草がちくちくと痛かった。
久々に見ることの出来た彼女の晴れ晴れとした笑顔が嬉しくて、柄にもなく、ずっと見ていたい、とさえ思った。
その時に聞こえてきたのだ。
大人たちの話が。
「ライバルがいっぱいいるなぁと思ったらいきなり君にまで牽制されたからね。本当に前途多難だったよ」
そう言って笑う。
どうしてこの男は笑っていられるのだろう。
一時でも彼女の恋人であった、という強みだろうか。
それとも彼女と別れた時点で、その想いは途切れてしまったのであろうか。
その時俺は気づいた。
何を望んでいたか。
――俺はこの男に、一緒に傷ついて欲しかったのだ。
なんて愚かで、なんて浅ましい。
「っ……」
どうしようもない。
本当にどうしようもない。
「沢田くん?」
「悪かった」
膝に置いていた手にギュッと力を入れる。
その手はやはり、細かく震えている。
不思議そうに目を細めた篠原が不意に言った。
「言葉って不便だよね」
隣の車輪止めにすとんと座る。
スーツが汚れるのを気にする様子はなかった。
「いくら思っても、伝えなければ意味がない」
しゅっと何かを擦る音がしてそちらを見ると、暗闇で篠原の咥えた煙草が光っていた。
この男が喫煙する様子は、初めて見る。
「僕ね。彼女と交際していた時に、一つだけ言いそびれたことがあるんだ」
ふう、と深く煙を吐き出して言う。
「教えて欲しい?」
「…何だよ」
にやり、と笑う。
にこりじゃなくにやりと。
「教えない」
「てめぇ、ふざけんな」
「そう言ったら?」
そう言って篠原は俺の目を見る。
「は?」
「君を差し置いて彼女をさらっていこうとする男に。もしくは彼女自身に。『てめぇ、ふざけんな』って」
「本当にふざけてんの?」
「いや、大真面目だよ」
彼は笑っていなかった。
「刑事や任侠者相手にタメはれる君なんだから、無理なことないでしょ」
この男は誰だろう。
俺が知っているあの刑事なのであろうか。
いつも自分より数段先を行っていて、餓鬼で馬鹿な俺とは違って完璧なまでの微笑を浮かべていた。
大嫌いだった大人。
「言ってどうにかなることかよ」
「でも言わないよりはましだ。ね、久美子さん?」
言われてはっと顔を上げる。
そこには微苦笑するヤンクミがいた。
体に比べてずいぶん大きいパーカーを着ている。
よく見るとそれは俺のものだった。
「お久しぶりです。篠原さん」
「元気そうで、何よりです」
「それ」
彼女は白い指で篠原の手元を指す。
俺も篠原も釣られてそれを見た。
「禁煙、やめたんですね」
「ああ」
一瞬困った顔をした篠原は、コンクリートでそれを揉み消した。
母親に悪戯を見咎められた子供のように、罰の悪そうな顔をする。
「今日だけです」
ヤンクミは笑う。
「じゃ、僕はこの辺で。お二人とも、もう遅いんで気をつけてください」
「はい。ご苦労様です。あ、吸殻は持って帰ってくださいね」
微笑ましいといえば微笑ましく、他人行儀といえば他人行儀な会話はそう終わった。
もう、呼び名を咎める気にはならなかった。
心地よい風が吹きしばらく、重い沈黙が落ちる。
篠原が座っていた場所に腰を下ろした彼女は口を開かず、
近くに落ちていた木の棒で、彼が落として言った灰を弄んでいた。
「お前、財布忘れてったろ。持ってきてやったんだ。ありがたく思えよ」
そう言って彼女はパーカーのポケットから俺の財布を出す。
「これいいな。このまま着て帰ろっかな」
「あのな、ちょっと聞いて欲しいことがある」
財布を受け取ると俺は重い口を開いた。
珍しく目上の者の忠告を聞こうとしている。
あの、美味そうに煙草を吸っていた刑事の。
「すげぇ勝手なこというから。先に言うけど」
「何だよ」
「むかついたら殴ってくれてかまわない」
「心外だな。アタシがもの凄く乱暴者みたいじゃないか」
いいから聞け、と彼女を制す。
あのな、と話を切り出す。
意外にも彼女は真剣に話を聞いている。
「結婚してくれ」
は、と彼女の乾いた声がした。
そして自分が仕出かした間違いに気づく。
「……冗談だ。忘れろ」
「冗談なのか!?」
「いや、冗談っつーか……口が滑った」
「滑らせるな!そんなもん」
自分でも馬鹿馬鹿しいが、咄嗟に頭に浮かんだのはその言葉だった。
格好悪くても、現実的に不可能でも、素直に伝えた俺の心情。
無理は承知で。
でも確かに篠原が言うように、言わなくては後悔すると思った。
「……結婚するな」
「どっちだよ」
「結婚なんてしないでくれ。俺以外のやつとは」
彼女とは反対側の地面を見つめる。
癖のある髪を片手でかき混ぜる。
どうしても上手く言えない。
俺はまだまだ餓鬼だから、言葉を飾ることなんて出来そうにない。
沢田。
彼女の高くもなく低くもない声が、俺の名を呼ぶ。
いつからだろう、それがとても特別なことであるように感じたのは。
「泣いてるのか?」
答えない。
肯定でも否定でもないそれ。しかし彼女には何も隠せない。
揺れていた景色が暗闇に変わる。
俺の頭は彼女に包まれていた。
「ヤンクミ」
「泣くな、沢田。泣かないでくれ」
払おうとしたが、彼女の強い力でそれを抑えられる。
一方的に抱えられるような姿勢で俺は抱きしめられていた。
彼女の体温は、俺より高い。
「ごめんな、沢田」
「謝るなよ」
頭の上に乗せられた顎により、言葉は振動となって俺の中に直接響く。
「本当にすまない」
「だから謝るなってば」
「いや。多分お前怒るし…」
不意に彼女の口調が弱まる。
そして何故か言いにくそうにもごもごしていた。とてつもなく、嫌な予感がする。
「なあ」
「………うん?」
「すげえこと聞いていい?」
「……どうぞ」
「お前、本当に結婚するん……だよな?」
薄い胸が頬に当たっている。
願ってもないシチュエーションだが、ここははっきりさせねばならぬ。
「えへ」
勢いよく顔を上げるとヤンクミが呻いた。
「痛ぇ。酷いよ、沢田」
顎をさする彼女の顔が至近距離で見える。
申し訳なさそうにしながらも、口の端が笑っていた。
それはそれは楽しそうに。ひくひくと。
「てめぇ」
「いや、あのな。アタシは反対してたんだぞ。でも皆が面白いからやれって……いや、元々は内山の発案で……おい、お前ら何とか言え!」
背後で複数、ざわめく気配がした。
彼らは言葉もなく、右往左往している様子だ。
ひくりと、自身のこめかみが引き攣るのを感じた。
「ヤンクミ」
「は、はい…」
彼女の腕の中言う。
振り向く勇気はなかった。
「あいつらに言っとけ。俺が振り向いたときにまだ残ってたら、本当にどうなるかわかんねぇ…」
言い終わるより早く、駆け出す足音が聞こえた。
取り残されたヤンクミが落ち着かなくなるのが肌を通して伝わる。
なあ。
「言わせてくれ」
「へ?はっ、はい…」
――てめぇ、ふざけんな。
テレビでは流行のアイドルグループが歌っていた。
彼には小奇麗な少年たちを愛でる趣味などないので、リモコンで他のチャンネルを探る。
別段面白いものはやっておらず、諦めてスイッチを切った。
今頃、彼らはどうしているだろう。
もそもそとしたサンドイッチを、ビールで無理やり流し込む。
久々に見た彼女を思い出し、記憶の中の人に話しかける。
――結婚なんて、するわけないですよね。
少年の言葉を聞いて驚いたが、離れた場所にかつての恋人と、懐かしい面々を見つけると、
刑事らしい勘の良さで、篠原はすぐに事の成り行きを理解した。
しかしながら、彼が結婚を口にしたときは、心臓が止まるかと思った。
どうやら完全に傷が癒えるまでには、まだまだ時間が必要らしい。
――やっぱりこれは受け取れません。
そう言って、彼の贈った指輪を返した彼女。
それがあまりにはっきりとした口調だったので、篠原は寧ろエールが送りたい気持ちになった。
いや、やはりそれは詭弁だろうか。
――一度でいいから、名前で呼んで欲しかったなぁ。
智也が放った空き缶は、屑篭に当たるとカラカラと転がっていった。
END
■T:I:M 管理人の雪生様から、慎クミssですー!!!
◎雪生様からのコメント
前回の企画ではかなりテーマを離れてしまったので、今回はテーマを強く意識しました。
しかしなんで「結婚」をテーマに書いて、甘くならないんでしょう。不思議です。
かなりの難産でしたが、書き始めてからは楽しかったです。
特に楽しかったのは篠原氏(笑)また是非書いてみたいお人です。
実はこの「宴」という小説。当初の予定ではシンクミ←ウッチーの切ない系でした。
それがどうしてこうなったのか…すべて篠原氏の登場のせいだと思われます。
当初の予定通りウッチーを動かした「宴 裏」(エロじゃないです)も書いてみたいです。
最後に、いつも素敵な開催してくれている管理人、有希さま。本当に感謝いたします。
◎有希乱入コメント
さ、さすが、マイ師匠(大感動)><
す、す、素ン晴らしいーーーーーーーーーっっっ!!!!!!
どうやったらこんな素敵な作品が仕上がるのか!?てか神業だね!!!(創作の神様)
へたれ慎ちゃんをココまで格好良く書けるなんて、もうホント勉強になります(
..)φメモメモ
久美子姐さんも相変らずなんだけど、でもやっぱり何処か大人な部分があって・・・
いつものメンバーも、篠原さんも凄くいい味出してて・・・その場その場の光景が鮮明に頭に浮かびました。
篠原さんに対する嫉妬とか色んな想いがあるのだけど、何処かで慎ちゃんは認めているんだね、えぐえぐ><
でもそれは篠原さん自身もそうであって・・・慎ちゃんの心の中が切なくて泣きそうになりました。
頭を抱きしめた久美子姐さん、2人の微妙な距離に、胸がキューと何度も熱くなりました。
ふふふふ、今回は2作品も書いてくれたんですよね〜〜〜!!!!(激嬉)
では、また「宴
裏」ソチラでも会いましょうv(誰?)