時の轍
V
「あらぁ、沢田君じゃない。久しぶりね。」
「ども・・。」
明日から夏休みという、1学期終業式の日、慎は久美子を訪ねて白金学院の職員室に来ていた。
先週、南たちから持ちかけられた元3Dのクラス会の件で、久美子に相談と打ち合わせを兼ねて会いに来たのだ。
だが久美子の姿はなく、代わりに藤山が応対してくれたのだが・・・。
「山口先生なら、まだ2Dの教室だと思うけど・・。彼女何時もここへ戻ってくるの遅いのよね。生徒達に捕まってるみたいなんだけど、何話してるんだか・・・?急ぎの用なら迎えに行ったほうがいいわよ、放っとくと2Dの子達に連れ去られるから・・・。」
そう笑いながら藤山が言うのに
(まさかな・・・。)
という思いを抱く。
でも彼女ならあり得るかも、とも思えるのだった。
慎は暫く迷っていたが、2Dの教室に向かって歩き出した。
かつて自分達が久美子と共に高校最後の1年間を過ごした教室は、今は後輩たちの縄張りとなっており、また、久美子にしても彼らの先生なのだ。
そこへ自分が入っていっても良いものかどうか、正直戸惑いもあったのだけれど、久美子の先生ぶりも久しぶりに見たい気がして・・・・。
今でも汚く、懐かしい匂いの教室の前まで来ると、慎は中から聞こえてくる久美子と生徒たちの声を聞くともなしに聞いていた。
相変わらずのテンションで、自分たちの好き勝手なことを話しているように思える後輩たちの声だが、会話のそこここで、久美子の名が混じる。
久美子は、いちいちそれに答えて回っているようで・・・。
初めのうちこそ笑みを湛えてそれを聞いていた慎だったが、その顔から柔らかさが消え、不機嫌さを貼り付けるとおもむろにドアをノックした。
1度では反応がなく、2度3度・・。
「はい?」
久美子の声がしてドアが開く。
「し・・沢田?どうしたんだ、いったい?」
「元3Dのクラス会をやろうって話になって、幹事引き受けさせられたんだ。俺はヤンクミとの連絡係だってさ・・・。今日は日にちとか場所とかの相談をしようと思って・・。」
久美子を驚かせたいと、事前に電話とか入れていなかったから、一応きちんと説明をする。
「クラス会・・・?フフ、それは楽しそうだな・・。」
二人で顔を見合わせ、当時の騒がしかった教室に想いを馳せ口元に笑みを上らせた。
そんな空気を察したのか、周りでは2Dの奴らが、慎を値踏みするような顔で観察している。
あからさまに不機嫌を顔に出している者も居て・・・。
「あいつ、誰だよ。」
「え、もしかしてヤンクミの彼氏?」
「ばーか、ヤンクミに男がいるわけねーだろ。」
などという会話があちこちから聞こえてくる。
少しの間感傷的になっていた久美子だが、今自分が為すべきことを思い出し、
「沢田ちょっと待っててくれ。」
と、小声で慎に声をかけると
「はーい、みんな静かに!」
教壇に戻り、生徒達に声をかける。
「今日のHRは終わり!くどいようだが明日からの夏休み、気を緩めて遊びまわってるばっかじゃ駄目だぞ!特に補習を受ける予定の者は、遅刻しないように!それから、ケンカも駄目だからな、私も呼び出しばっか受けてたら、身がもたねぇんだから頼むぞ!じゃあ、解散!!」
教壇を下り慎の方へ行こうとする久美子を、生徒達が黙って見逃すはずがなかった。
「ヤンクミ、そいつ誰だよ?」
「ヤンクミの男かー?」
とあちこちから声がかかる。
久美子は仕方がないというように振り向くと
「こいつは、私の最初の生徒で沢田って言うんだ。要はお前らの先輩で、今大学の2年だよ。
私はこれから、こいつとクラス会の打ち合わせがあるから、お前らさっさと帰れ。」
久美子は生徒達に背を向けるとドアの外へ出る。
「沢田、待たせたな。」
そう言って階段を上がり始めると、教室の後ろの階段を上がって出てきた生徒達に囲まれてしまった。
「ヤンクミ、今日のボーリングに混ぜてやるからさ、いっしょに帰ろーぜ。」
「違うって、夏休み突入記念のカラオケでしょ。」
とか、口々に久美子を誘い出そうとする。
「あーもう、今日は予定が入ったって言ってんだろ。お前らしつこいよ。」
久美子は慎を促し通り過ぎようとしたが、今度は、慎が捕まった。
「ちょっと、あんた。沢田とか言ったっけ。ヤンクミは俺たちと先約があるんですー。悪いけど遠慮してくんねぇかなぁ。」
「そうだよ、俺らの担任なんだからよ。」
と、少しも悪そうではなく言う。
けれども、そんな悪ガキどもにびびる慎ではない。
何せ、あの3Dをまとめていた男なのだ。
慎は特に威嚇する風でもなく静かに2Dの方を向き、ゆっくりと全員の顔を眺め渡すと
「悪ぃけど、久美子は今から俺と大事な話があるんだ。邪魔すんな。」
そう言って、久美子の肩を抱き歩き出す。
慎の落ち着いた態度と、その独特の低い声に威圧された2Dの生徒達は、そうやって久美子が連れて行かれるのを、今度は黙って見送ることしかできなかった。
慎と共に、校門を出た久美子は
「慎、何で生徒達の前で、『久美子』って呼ぶんだよ!?後でなんて言ってからかわれるか・・・
私が困るの、分かってんだろ?まったくもう。」
と抗議するが、慎はどこ吹く風とばかり明後日の方を向いている。
「そんなことより久美子、クラス会の相談だろ?せっかく会えたんだから、なんかうまいもん食べに行こうぜ。それに、たまには恋人らしくデートってぇのも悪くねぇだろ?」
久美子が何かと忙しいせいで、なかなか会うこともままならなかったが、今日はゆっくり出来そうだとあって、慎は随分嬉しそうだ。
久美子にしてみれば、先週熱を出したせいで慎に面倒をかけたこともあり、今日は彼の言う通りにしようかなという気持ちがあって・・・。
久美子は少しの間考えるそぶりをみせていたが、やがて髪を結わえていたゴムをはずし手櫛でざっと整えると、慎の腕に自分のそれを絡め、彼を見上げて笑顔を見せた。
「エヘへ、たまには恋人らしくしないとな。」
そんな久美子に驚いた顔を見せた慎だったが、直ぐに笑顔になり歩き出した。
二人は、まぶしい太陽の下を、それに負けない位の明るい顔で歩いた。
もちろん、肝心のクラス会の打ち合わせも忘れなかった。
会場を決めるのに少しもめたが、慎の
『始まりの場所で、集まろうぜ。』
という主張が通り、久美子が校長とかけあうことを請け負って、元3Dの教室でやることに話が決まった。
食べ物や、飲み物は、南たち幹事と久美子が調達することになっていて、クマの顔も立てて彼の店からも出前の形で配達を頼んだ。
「いったい、何人集まれるんだろ?みんな、結構忙しいんじゃないか?」
久美子はそう言うが、慎は余程のことがない限り、全員参加するだろうと予想していた。
それは、南たちも同じ意見で・・・。
自分たちが、あの3Dでいた時のことをどれ程大事に思っているかを、きっと証明することになる、そんな気がしていた。
その日の午後いっぱいかけて、恋人らしい時間を過ごした慎と久美子は、夕食後のコーヒーを慎の部屋で飲んでいた。
今の話題は、やはり近々開催されるクラス会のことだ。
そのことで、久美子は一つ気になることがあった。
「なぁ、慎。先週私が熱を出して、南と野田に世話になった時のことだけど・・・あの時慎と私が付き合ってること、あいつらにばれたんじゃないかと思うんだけど、どうなんだ?」
慎は心配そうな久美子の顔を見ながら、いつもの笑みで返す。
「あぁ、あん時俺、思わずお前のこと久美子って呼びかけちまったもんだから、あいつらに突っ込まれて言っちまったよ、付き合ってるってさ。けど、別に構わねぇだろうよ事実だし・・・。」
「もちろん、あいつらに知られても拙いわけはないさ。でも、クラス会が近いだろ・・・その時までにはきっと来る奴みんなに知られてるんだろうから・・・ちょっと恥ずかしいなって思ってサ。」
そういう久美子の気持ちは、慎にも充分理解出来るものだったけれど・・・。
「まぁ、その日一日晒し者になりゃ終わりだ。それに、俺たちのことよりも、みんな自分たちの事を話すんで忙しいんじゃないか?なんせ1年半振りに顔を合わす奴だって居るんだぜ。」
「そ、だね。そんなに気にすることでもないか・・。」
久美子に誤魔化すような事を言ってはみたが、慎自身いろいろ聞かれて面倒だろうな、という気持ちはもちろんあって・・・だが、今日の教室での久美子を見てしまった慎は、この際彼女の周りの奴全てに、自分の存在をはっきり見せておこうかとも考えていた。
(久美子にちょっかいを出す奴が出てこねぇとも限らねぇしな・・・。)
「慎・・・?お前、なんか危ないこと、考えてないか?ちょっと顔が怖いぞ!?」
鋭いことを聞いてくる久美子をいつものポーカーフェイスでかわすと
「久美子、そんなことより教室の使用許可、忘れずにちゃんと取っとけよ。みんな楽しみにしてんだから。」
「分かってるって、この久美子様にどーんとお任せあれ!」
と胸を張ってみせる。
全く何時までたっても久美子は子供っぽさが抜けないなと苦笑する慎。
「何が可笑しいんだよ。」
と膨れる久美子の頬を両手でそっと包んで、慎は優しいキスを落とし
「それと、もう一つ忘れるなよ。久美子は俺のもんだってこと。」
そう耳元で囁いてやるのだった。
8月10日、今日は元3Dのクラス会当日である。
久美子はこの日の為に教室の使用許可を貰うのに、随分苦労させられた。
今まで、教室を使ってのクラス会など前例がなかったし、元3Dといえば、当時教頭だった猿渡の天敵みたいな奴らばっかりのクラスだったのだから・・・。
しかしそこは、久美子の粘り勝ちということで、今日を迎えられた。
これで、出席者が少なかったら目も当てられないと思っていたけれど、幹事の南からは全員出席だと嬉しい報告を受けていた。
「ヤンクミ、机のセッティング出来たぞ。買ってきた食料や、飲み物並べてくれよ。」
「野田、進行と司会、大丈夫だろうな。」
幹事の南と野田、それに慎と久美子は、朝から食料の買出しやら教室の掃除に会場作りと大忙しで働いていた。
「そろそろ、みんなが集まってくる時間だな。」
時計を見ながら南が呟く。
「よし、これで準備はOKっつうことで・・・。ちょっと私は職員室まで行ってくるから、後宜しく。」
久美子はそう言い残して教室を出て行った。
残された3人は、
「ちょっと休憩しようぜ。」
というので、隅のほうに椅子を持ってきて、コーラで咽喉を潤している。
野田がふと思いついたように慎に問いかけた。
「なあ、慎。ヤンクミってさぁ、相変わらずGパンにTシャツってぇ、色気のねぇ格好でさ・・。髪だっていつもお下げだし・・・そこんとこどうよ。」
「どうって?」
「いや・・・、その、あの、それなりに付き合ってんだろお前ら?・・・なんか、こう色気ってぇのが出てきてもいいんじゃぁねぇのかなって思ってさ・・・。」
「いいんだよ、久美子はあのまんまで。」
そう言って軽くかわす慎だったが、変わらない久美子に内心ほっとしているのだ。
今、自分は久美子の恋人の位置にいるが、かつてのライバルたちは、まだ彼女のことを諦めたわけではなさそうだし、現在の生徒達といい、久美子を想っている奴は結構多い。
妙に女っぽくなって恋敵が増えるよりは、今のまま、自分だけに甘えてくる子供っぽい久美子で充分だと思っていた。
「おーす。」
「久しぶりー。」
「懐かしいなー、この教室。」
好き好きなことを言いながら、続々と懐かしい顔が集まってくる。
遅刻なんて常習だった奴らが、待ちきれなかったという顔をして早々に現れるのは、なんだか笑えると慎たち幹事は、顔を見合わせていた。
「よーし、そろそろ始めるぞ。」
司会担当の野田が、声をかけた。
それまで、そこここで固まって話をしていたのが、一斉に教壇の方を見る。
「卒業してから、初めての3Dクラス会を只今より始めます。私、司会、進行を担当させて頂きます、野田猛であります。宜しくお願いします。」
少し緊張気味に野田が挨拶を始めると、あちこちから野次が飛ぶ。
そんな中、
「おい、ヤンクミは?」
と、久美子の不在に気付いたクマが叫ぶ。
「全くヤンクミの奴、やっぱ一番手がかかるんじゃねぇか!」
誰かが嬉しそうに言うと、他のメンバーも納得顔で頷いた。
南が、俺が呼んでくらぁ・・と教室を出て行った。
教室を出て階段を上がる。
と、廊下の曲がり角に久美子の姿を見つけた。
誰か・・・慎だな、何話してるんだ?
自分より先に久美子が居ないのに気付き迎えに出てきたのだろう・・・が、今は急がねぇと。
「おい、慎、ヤンクミ、早く来いよ。みんな待ってん・だ・・から・・・よぉ?」
そう声を掛けたものの、南は自分の目を疑った。
さっきまで、GパンにTシャツといった、ラフな上に色気のいの字もない服装だった久美子が、夏らしい涼しげな水色の地に白い小花柄のワンピース、足には白のサンダル。
メイクもいつものナチュラルなものではなく、少し濃い目に施されて唇は濡れたように光っている。
そして、ヘアピンだけで簡単に結い上げられた綺麗な黒髪が彼女を大人の女に見せていた。
さらに後れ毛がかかる項は、息を呑むほど白く艶めかしい。
いつもジャージで隠されていた身体のラインがはっきり分かり、華奢な体つきに護ってやりたいと思わせる程細い腰。
さっき、職員室へ行くと言って出ていった時に、ロッカー室ででも、着替えてきたのだろうか?
彼女の生徒であった時も、いつか久美子を助けた時も、今日も、ずっとお下げ髪にGパンかジャージといった動きやすさ一番の格好をした姿しか見たことがなかったから・・・、久美子に女らしい色香といったものを感じたのは初めてだ。
暫くの間、南はここへ来た目的を忘れ、久美子に見惚れていた。
「南、おい、何してんだ、早く行くぞ。」
そう言った久美子の言葉にようやく我に返ったくらいだ。
いつの間にか自分の横には、慎が居て・・・その顔はこれ以上ないほどの渋面なのだった。
(慎の奴、ここでヤンクミに着替えるように説得してたんだな。あんな、『女』なヤンクミをあいつらに会わせるのには、抵抗があったってぇ訳だ・・・。)
「慎、ヤンクミの側に付いてなくていいのか?今日のヤンクミ、やけに綺麗じゃん。あいつ等の中に放り込んだら、危なくね?」
それを聞いた慎の視線が刺さるような気がする南。
「あいつ、俺に気を遣ったつもりなんだ・・・。まったく、あんな格好でみんなの前に出てくなんて・・。」
(なるほど、さっきの野田とおんなじ事をヤンクミも考えたって訳か・・・。)
南には、久美子の気持ちが分かる気がした。
おそらく、恋人となった慎の顔を立ててやりたいと思ったのだろう・・・。
いつまでも生徒達に色気がねぇだの、女を捨ててるだのと言われているのも、癪だということもあるかもしれない。
逆に、同じ男として、慎の気持ちも理解の範疇だ。
久美子は、今まででも散々な言われようをしてはきたが、それは愛情の裏返しで、みんな彼女のことがお気に入りだったのだ。
慎は、高校の時から久美子に惚れていたらしいし、やっと付き合い始めたところで、ライバルはいらねぇってとこだろう・・・。
考え込んでいた南に、再び声がかかる。
「慎、南、置いてくぞー。」
男二人の思惑などまったく気にしていない久美子が、能天気に呼んでいるのだった。
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