時の轍


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「う・・ん・・・。」

かすかな声に、慎はふっと顔を上げた。

どうやら、久美子の枕元で彼女を眺めているうちに眠ってしまっていたらしい。

よく眠っていたようだった久美子の意識が、少し浮上してきたのだろう。



「久美子、喉乾いてないか?」

慎は水を入れたコップを片手にベッドの久美子に声をかけた。

その声にうっすらと目を開けた久美子は、肘で身体を支え起き上がろうとしたが、慎にやんわりと押さえつけられる。

「飲ませてやるよ。」

の言葉と共に、久美子に口移しで水を与える慎。

熱で、ほんのり桜色をしていた久美子の頬がさらに赤く染まる。



「し・・慎・・風邪が移っちゃうだろ・・。」

「お前の風邪なら、貰ってやってもいいぜ。そしたら治るって言うし。」

「もう・・慎だって病気になったら、困るだろ。」

そう言う久美子の身体を支えて抱き起こしてやりながら、今度はコップを手渡す。

受け取った久美子は、頭がふらつくせいで自然に慎に身体を預ける恰好になった。



慎に身体を支えられ、一息に水を飲み干した久美子は、

「慎、迷惑かけちゃったね。それに、野田と南にも・・・。私、お礼も言えないで悪かったな・・・。」

「バカヤロウ、俺には甘えていいんだ。けど、俺の知らないところで無茶すんなよ。今日だってあいつらが通りかからなかったら、危ないとこだったんだろ?少しは自分のことも考えろよ。まったく・・・俺の心臓いくつあっても足りねぇよ。」

そう言って久美子を強く抱きしめる。

「ゴメン、慎。だけど、そんなに弱っちい心臓じゃないだろ!?大袈裟なんだから・・・?慎・・?」

久美子は、自分を抱く慎の身体がわずかに震えているのに気付いた。

「慎?どうした・・?」

「俺、お前を失うこと考えたら・・・怖くて・・・。」

その言葉にハッとした表情になる久美子

「慎・・・ごめん。・・・私、いつもそんなに無茶なことばっかりしてるのか?・・いつもこんなに心配ばっかりさせてる?・・・慎に頼れることで安心して・・・負担に・・なってるなんて・・・考えて・なかったから・・本当に・・ごめ・・・ん。」

「違うよ、バカ。お前に頼られてるんなら、それは嬉しいだけで負担な訳ないだろ。お前がいつもなんでも、一人で解決しようとして行っちまうから、俺はいつもお前の背中を見てるだけで、守ってもやれなくて・・悔しいんだ。」

「し・・ん・・ご・・・めん」

また、熱が上がってきたのだろうか、慎の胸にもたれていた久美子の力が急に抜け、膝の上に倒れこんだ。

慎は久美子をベッドに寝かせると、額に手を当て体温を確認し、氷水で冷やしたタオルを載せてやった。

顔には苦い表情が浮かんでいる。

久美子の身体が高熱で弱っているのを知りながら、心配させられたことでつい責めるような事を言ってしまった。

謝らせたかった訳じゃないのに・・・。

「久美子・・・ごめん。」

髪を優しく梳いてやりながら、久美子に謝るのだった。









翌朝、目を覚ました慎は、すでに出かける支度を始めている久美子を見て目を剥いた。


「おい、久美子、一体何のつもりだ。」

「なにって、学校行かないと・・・。遅刻寸前だよ!今日は職員会議があるんだ。」

慎は久美子に近づくといきなり頭を掴み、額をくっつける。

昨夜ほど高くはないようだが、まだかなり熱がある気がする。

それに体力が戻っているようには思えない。

「バカ、お前まだ熱あるじゃねぇか!今日は外出禁止だ。まったく放っとくと考えなしで動くのがお前の悪い癖だ。分かってんのか!?」

「?・・慎・・?何か・・・すごく怒ってる?」

手にしていた鞄を取られ、着ていたジャケットを脱がされ、引きずられるようにベッドまで連れて行かれ、気付けば寝かされていた。

頭には、いつの間にか冷たいタオルまで載せられている。



慎は、その上から久美子を押さえつけて聞いた。

「お前、俺が昨夜言ったこと、まさか忘れたって言うんじゃねぇだろうな?」

「え・・なんか、叱られたような記憶はあるけど・・・よく覚えてない・・デス。」

それを聞いた慎は、大きな溜息を吐くと

「もういい・・とにかく今日はこの部屋から一歩も出さねぇ!いいな!」

「えぇ・・?じゃあ・・せめて午後から行かせてくれよ・・。明日からの懇談会の準備だけはしないと・・・それに赤点の奴らの補習してやらないといけないんだよ。追試でも赤点だったらあいつら夏休みがパーになっちまうんだ。ね、午前中はおとなしくしてるからさ。」

「ダメだ、今日だけは譲れねぇ。黙って寝てろ!」

慎は、これ以上は議論する気もないというようにきっぱりと言い切ると、キッチンに立ちお粥を作り始める。



そんな慎の背中を見ながら、久美子は諦めたというように一つ溜息を零すと、携帯で学校に病欠する旨の連絡を入れた。

「分かった。今日一日はちゃんと寝てるよ。だけど、慎は学校へ行くんだ。バイトだってあるんだろ?私は一人でも大丈夫だから・・・。」

「俺も今日はここに居る。お前は放っとくと勝手に出ていっちまうからな。」

「いや、私は大江戸へ帰るよ。汗かいてるから着替えもしたいし、何より私がここに居たらお前は学校をサボるし、バイトも休んじまうだろ・・・!?」



慎は、久美子のところに出来上がったお粥を運びながら、迷っていた。

久美子にしてみれば、自分の為に慎が学校やバイトを休むのは心苦しいのだろう、それは理解できる。

でも、頭で解っていても、気持ちは付いて行けない。

久美子が苦しんでいる時は、傍についていてやりたいのだ。



「分かった、じゃあお前がこれを食べたら、学校へ行くから・・・。けど、実家に帰ったってみんな留守なんだろ!?だったら此処に居ろ。バイトは休んで急いで帰ってくるから・・・それでいいな!?」

久美子は、一人で大丈夫なのに・・とか、無責任にバイト休んじゃだめだろ・・・とか、ブツブツ呟いていたが、慎が反応しないのを見て取ると諦めたようにベッドから起き上がり、慎の作ったおかゆを食べ始める。



慎は、そんな久美子を見ながら、自分も朝食を摂り出かける仕度を始めた。

食欲もあまり無いようで、直ぐにベッドに戻った久美子に、汗をかいたら着替えられるようにと自分のTシャツを渡し、

「いいな、ちゃんと寝てろよ!」

と言い置いて、学校へ出かけた。





講義など上の空で聴いていた慎は、必修科目だけ受けると、帰り道のコンビニで口当たりのよさそうな物を選んで買い、走るようにして帰ってきた。

(久美子の奴、ちゃんとおとなしく寝ているだろうか?)
そんなことを考えながら、起こさないようにとそっとドアを開ける。

けれどもベッドはもぬけの殻で・・・。

一瞬心配した慎だったが、久美子の靴があることで安心する。



冷蔵庫に買ってきたものをしまっていると、浴室から久美子が出てきた。

身体にバスタオルを巻いただけの姿で・・・。

久美子は、慎と目が合うと顔を真っ赤にして、浴室に逆戻りしてしまった。

慎の方も、驚いたことで声を掛けることも暫し忘れていたのだが・・・。



その時、閃光と共に激しい雷鳴が轟いた。

夕立なのだろう、ものすごい勢いで雨も降り出した。

電圧が安定しないのか、照明もたまに点滅したりしている。

それと同時に浴室から飛び出し、慎にしがみつくように抱きつく久美子。

Tシャツこそ着てはいるが、下は白い足がむき出しのままだ。



「久美子、どうしたんだ?」

久美子の方から抱きつかれたことなどかつてなかった慎は、戸惑いを隠せない。

だがそのうち、その身体が震えているのに気付くと、

「もしかしたらお前、雷が怖いのか?」

久美子を抱きしめ、背中をさすってやりながら、耳元で囁くように聞いてやる。

ただ、頷くだけで震えたままの彼女に少しばかりの違和感を覚えた慎。

今日の今まで、彼女が雷恐怖症だなんて知らなかった。





久美子と出会ってから、今年で3度目の夏で・・・去年はほとんど会えてはいない。

彼女の生徒だった一昨年を思い出してみるが、雷に怯える姿は記憶になかった。

そういえば、一度帰りのHRの時間に雷が鳴り出したことがあって、あの時久美子は・・・さっさとHRを切り上げると職員室に戻っていったはず・・・やけに急いで教室を出て行ったような気はしたが、特に疑問には思わなかった。

もしかすると、あの時も雷が怖くて逃げ出したのか?

生徒に弱みを見せまいと、今まで隠してきたのだろうか・・・。



今、自分の腕の中で怯えて震えている久美子を抱きしめながら、慎はその身体の温もりに眩暈さえ覚えていた。

心配していた熱も下がっているようで・・・だからこそ、彼女もシャワーを浴びていたのだろうが、突然の雷に対する恐怖で、自分が今どんな格好で慎に抱かれているのかも忘れているのだ。

慎は、理性が飛びそうになるのを必死で堪えながら、久美子の恐怖を少しでも取り除いてやりたいと、少しばかりからかうような口調で問うてやる。

「久美子、ここに居て良かっただろ!?俺が帰ってきてなくて一人ぼっちだったらどうしてた?」

久美子は涙をたたえた目で慎を見上げ、再び胸に顔を埋めると

「たぶん・・慎のベッドで布団にくるまって震えてたと思う。・・・慎の匂いがするから、少しはいっしょに居てくれるような気持ちになれただろうから・・・。」

小さな声で恥ずかしそうに言うから、最後の方は聞き取りにくかったけれど、慎にとってはこの上なく嬉しい言葉で・・・。

「久美子、俺もう我慢できねぇ・・。」

そう言って、久美子を抱き上げ、ベッドに運ぶ。

震える久美子をしっかり抱いてやりつつ、唇を重ねて・・・。



「久美子、俺が傍に居てやるから・・・もう雷なんか怖くねぇだろ?」

温かな慎の鼓動が久美子を支配して、恐怖感が幸せな気持ちに置き換わる。

震えてしがみついていたその手から、ゆっくりと力を抜き、優しく慎を抱きしめられる。


甘えを見せる久美子が慎の心を幸福感でいっぱいにし、抱きしめる腕の温もりをいっそう確かなものにしていく。

そして二人には、雨の音も、雷鳴も、聞こえなくなっていった。





いつの間にか、夕立雲は去り、夏の眩しい日差しが部屋に差し込んでいる。



その日、今年の梅雨が明けた。







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