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二人の辿る道は




平行線を描き













クリスマス当日。
朝、少しだけ雪が降った。
今年の初雪。

濡れるといけない、と、ミノルが傘たてに向かうのを、久美子はボンヤリと見ていた。
視線の先には、赤い傘。

昔・・・そう・・・もう6年も前。
悲しみを紛らわせるように買った、クリスマスの傘。

結局、あれ以来、一度も使ってはいなかった。

(あの傘も、持って行こう)

久美子は視線を伏せた。
結婚式が終わってから内山と暮らす部屋に、その無駄な傘も、持って行こうと思った。
きっと内山はそんな久美子に笑ってくれるだろう。

「行こうか」

番傘を差し出したミノルに、久美子は微笑んだ。
門の前には、テツが車をまわしてくれているだろう。

「じゃあ、おじいさん、後で」

花嫁は支度に時間がかかる為、午後からの結婚式でも朝から大忙しだ。

「おう、いってらっしゃい」

祖父のこの言葉を聞くのも最後かもしれないな。
そんな風に久美子は思った。






6年前のクリスマス、その日が、二人の道を引き離した分岐点だということを、久美子は知らない。

ハラハラと振る雪。
あの日、二人が公園で出会っていたら、きっと今ある未来も変わっていたかもしれない。

もう、言っても仕方のないことだけれど。

雪だけが知っていることだけれど・・・。




















朝に降った雪が嘘のように、その日の午後は晴れた。
空には青い空が広がる。
晴れのよき日だ。

そっと入った教会の中、入り口から程近い席に、男は座った。
宗教画を象った厳かささえ感じるステンドグラスの光、その光さえ届かない扉横の席は薄暗く、座った木の椅子はひんやりとして冷たかった。
うつむくように座った男に気がついた者は誰もおらず、男も数メートル先に見知った顔を見たが、それへ声を掛けるでもなく、ただ、そこにある置物のように、静かに座っていた。
気配を絶ったその存在には、誰も気がつかない。


男がそこに座ってからしばらくして
ざわざわと集った人達の会話が さざなみ のように響いていた教会内は、唐突に静寂に包まれ、男の近くで扉の閉まる音が聞こえた。
これから式が執り行われるのだろう。

一番前の席に座っていた人物がすっと立ち上がると、やってきた司祭の前に歩み寄る。
これから、花嫁を迎える男は落ち着いた雰囲気の精悍な男になっていた。
かつて共に歩いた友人。
(内山・・・・。)
葉書が届いた後、それを追うように、彼から招待状が届いた。
その時からわかっていた事なのに、男・・・沢田慎の中に、なんとも言いようのない焦燥感のようなものが浮かぶ。
この男が、あの女を、手に入れるのだ。

ぱたんと、今一度扉の開く音がして、差し込む光を背景に花嫁のシルエットが通路に伸びる。
慎はそれを黙って見ていた。
わかっていた事だけに取り乱すこともなく、どこか冷静に見ている自分がいた。
しん・・・、と静まり返った構内、ゆっくり、ゆっくりと歩む二人の人物。グレーがかった燕尾服を着こなした老人が、花嫁の白い手をとり、二人で足をそろえて歩いてゆく。
慎が一度だけ会ったことのあるその男は、過去、和服を粋に着流していた人だった。
そんな人が、着慣れないであろう洋装に身を包んでいる。
その姿に、なぜか暖かな、微笑ましいような気持ちになる。
裏社会では有名な男であろうに、かわいい孫娘のために、教会でバージンロードを歩いている人・・・もう、見るのは何年ぶりになるだろうか。

慎を、慎のままでいいと言ってくれたたった一人の人だった。

そうして、その人の手に、肘上まで長く白い手袋をした細い腕が乗っている。
記憶の中のそれよりも、幾分細くなっただろうか。
慎はじっと、腕から上へと辿るように視線を上げ、静か過ぎる眼差しで、かつて愛した女を見た。
まっすぐと祭壇へ視線を向けている女の横顔は、化粧のせいばかりでもないだろう、大人の女の成熟した柔らかさをもち、以前よりも綺麗に見えた。
きっと、自分は思い出の中で彼女を美化しすぎていたから、会ったら「そうでもなかった」と思うだろう、などと考えていたのに、目の前の女は、予想を覆すように・・・・思い出の中の彼女よりも、はるかに美しかった。
慎は視線に気がつかれないように、そっとそっと、その横顔を見た。

ゆっくりと、二人は前へ歩いてゆく。
彼女と生涯を生きる男の下へと、ゆっくりと。

歩くたび揺れる白いベール。
幼い子供達がウエディングドレスの裾を持って歩いてゆく。
そのかわいらしい姿に参列者達の視線が和むのが分かる。

(ああ、彼女はもう・・・。)

広い教会の中、遠くなってゆく後姿がフイにゆがんだ。
慎は親指を皮膚に食い込ませるようにして手を握り締め、うつむいた。
最後まで見届けようと思った決意は、もろくも崩れ落ちた。
なにが、”冷静に”だ。”かつて愛した女”だ。
そんな事を考えた自分がおかしくて、自嘲的な笑みが口元に浮ぶ。

ああ。
なんて自分は馬鹿なのだろう。
どうして、この想いが変わると、変われると信じていたのだろう。
彼女のウェディング姿を笑顔で見て、あまつさえ祝福できるなどと、何故、思えたのだろう。
今までの決して短くない時間、何度も何度も悩み、考える度
少しずつ研磨されてきたこの想いは
純粋な愛という形になり
今もなお、慎の胸の中で光輝いている

ぐっと唇を噛み締めて、必死の決意で顔を上げる。
せめてこの晴れの日に、涙だけは流したくなくて、視線を上に向ける。

花嫁は、祖父の手から新郎の手へ渡され、二人がそろって司祭に向き直る。
少し英語訛りの残る司祭の日本語で、二人の愛の誓いが詠い上げられる。
新郎の朗々と響く声が、新婦への永遠の愛を誓った。
声を聞いただけでその男の人となりがわかるような、頼もしさに満ちた声だった。
司祭の声が続く。
新婦へ誓いを立てさせる。
そうして・・・・。

どんなに視線を上げても、上を浮いても、止められずに、慎の頬を涙が伝い落ちた。

「はい」

凛とした、綺麗な声だった。
あの頃と変わらない。
彼女の声。

純白に身を包んだ新郎新婦がゆっくりと向き合い、新郎が新婦のヴェールを持ち上げる。

「指輪の交換を」

「誓いのキスを」

司祭が厳かに告げる。

もし、あの日々の中
記憶を取り戻すことができていたならば
今、神の 御前 みまえ にいたのは…彼女にキスをするのは、自分だったかもしれないのだ。
何故、思い出すことが出来なかったのだろう
もし、思い出した事によって『自分』が消えてしまったとしても
この身体、この腕の中に彼女を抱きしめることができたのに

もし、思いだしていたら

こんな

こんな風に涙をながす自分なんかこの世にはいなかったのに・・・・。


逃げるように日本を出て
でも結局自分は逃れられなかった

何度でも
何回でも
何年たっても

今、ここにいる自分を否定してしまう。

何故思いだせなかったのか、と
己を責め続けた
ずっと
ずっと・・・
彼女を想う気持ちから逃れられなかった

この気持ちはもう、過去の失われた男の恋心ではない
以前の自分が彼女といた時間より
以前の自分が彼女を愛した時間より
もっとずっと長い時間
『今のオレ』は彼女を想い続けてきたのだ。

今もなお、愛しているのだ。


彼女はきっと暖かな家庭を築いてゆくだろう
きっと幸せになるのだろう
けれど自分は
その新しい門出を見守ることができない
彼女の幸せを願えない

いっそ

いっそ

殺してしまえたら・・・

狂気のような感情を押さえられない
自分のものにならない彼女など、この世から消えてしまえばいいのに・・・。

慎は自分の暗い考えに口の端を上げて小さく笑った


自分は狂ってしまうかもしれない・・・そんな事を思いながら



慎は静かに立ち上がった。
誰も自分の存在には気がついていない
だから、そっと、そっと・・・・その場から離れる。
先ほど花嫁が入ると同時に閉められた扉へ歩み寄ると、音を立てないようにして隙間からするりと外へ出た。

突然のまぶしさに瞳がハレーションをおこして、眩暈に似た感覚を与える。

涙は未だ止まっていなかった。


もう、ここにはいられない。
もう、どこへ行けばいいのかも、わからない。

アフリカへ、また行けばいいのだろうか
けれど、彼女は幸せを手に入れた。自分が日本を離れる理由などもう、ない。
もしかしたら自分は、己が彼女の元を離れることで、彼女を呪縛したかったのかもしれない。
18歳のあのとき、アフリカに逃げるんだと告げて、彼女の心に罪悪感という感情を残し、少しでも長く自分を忘れずにいてくれるように・・・そんな
そんな、爪痕を残したかったのかもしれない。

けれど、現実は違う。
時間は人の心を変え、彼女は幸せに微笑む相手を手に入れた。

自分が望んだ結果が、それなのに

何故自分はこんなにも傷ついて、悲しくて、泣いているのだろう。


本当は、式が終わった後、「おめでとう」と伝えるつもりでいた。
これで、自分の気持ちにもひとつの区切りをつけるつもりでいたのだ。

ところが、現実はこれだ。
ふがいなくも、泣きながら彼女の幸せに背を向ける。




今度は、どこへ逃げればいいのだろう。




慎の背後、教会の中からは二人を祝福するように歓声があがり、慎の耳まで届いた。
慎は足を速めた。

もう、どこへ逃げていいかわからなかったが・・・。





バタン!と大きな音が背後でした。
教会の扉が開かれるにしては大げさで乱暴な音に、一瞬ビクリと慎の足は止まる。

そうして

「沢田!」

慎は呼吸が止まる感覚を味わう。
何が起こったのかわからないまま、ゆっくりと後ろを振り返った。
自分で自分の動きがスローモーションのように流れてゆく。
そのコマ送りのような視界の中、教会の扉を開け放った花嫁が長すぎるスカートの裾をたくし上げる様に持ち、立っていた。
強い瞳が慎の心臓を射抜く。




あの冬の日すれ違った二人の道が、今また、重なろうとしている





「どんなに大人しくしてたって、ひっそり教会を出たって!アタシがお前に気が付かないわけがないじゃないか!!」
「・・・・・・。」
「・・・どんだけ・・・どれだけ、待ってたと、思うんだよっ!」
叫びなから、久美子は溢れ出る涙を止めることができなかった。
両の手がきつくウェディングドレスを握り締め、綺麗だった白のラインに皺を幾筋も作った
いっそこんなドレスなど破り捨て、脱ぎさってしまいたいとでもいうように

「沢田。なんで・・・なんで泣いてるんだよ!?」
「・・・・」
慎は何も答えられなかった。
「沢田が・・・お前が、笑って祝福してくれるんなら、あたしは、幸せな花嫁に、なったのに」
「・・・ごめん」
慎はくしゃりと、涙で濡れた顔を歪めて小さな声で謝った。
「っ!・・・謝って欲しいんじゃない!・・・なんで・・・なんで?・・・なんで、泣くんだよ。思い・・・出したのかよ?」
「・・・いや」
慎は苦しそうに顔を歪めて首を振った。
思い出してなどはいない。彼女が、それを望んでいても、嘘はつけなかった。
「じゃあなんで?・・・理由が、聞きたい」
「・・・・・」
残酷な問いだと思った。
「ヤンクミ・・・理由は、言えない。」
「沢田っ!」
「それから。オメデトウ、も、言えない・・・言えねえよ・・・」
慎の涙がまたあふれてくる。
自分が情けなくて仕方がなかった。
愛した女の幸せを、祝えない自分が・・・。

そんな慎の葛藤をよそに、久美子は後ろを勢いよく振り返った。
そのまま教会に戻るのかと思われたが、開かれたままの扉に手を当て、唐突に、大きな声で言った。
先ほどと同じ、凛とした声だった。

「司祭さんごめんなさい!さっきの誓いは嘘です!」

彼女の華奢な肩が小さく揺れているのが慎の見開いた視界に映る。
「内山っ!ごめん!アタシは、お前に愛を誓えない・・・やっぱり、共犯者にはなれないよ。・・・・それから、みんな、ごめん!内山のお母さんも、おじいちゃんも・・・みんな、ごめん!アタシは・・・アタシは・・・嘘の誓いを立てたんだ」

そうして、今一度慎に向き直ると、一気に言い切った。


「・・・ずっと・・・ずっと、待ってたんだ」

「あたしは、この男が・・・好きなんだ」

言い切った途端、片手に持っていたブーケを投げ捨てると、先ほど交換した指輪も、同じように無造作に投げ捨てた。
そのまま、突っ立ったままの慎に駆けてくる。

慎の手の届くすぐ近くまで寄ってくると、強い眼差しが見上げてくる。

「お前は、違うのか」

「・・・・・」

「・・・・もし、アタシと・・・同じ理由なら・・・嬉しい・・・な」
久美子は初めて慎から視線を外し、少し自信がなさそうに笑った。
もし、同じ気持ちなら・・・記憶など関係ない、あなたならば、それだけでいい・・・そんな想いならば・・・。
「・・・ちがう、のか?」
首をかしげた彼女の動きにあわせてヴェールが揺れる。
先ほど、新郎が持ち上げた、ヴェールが・・・。
彼女の瞳は真実を見つめるように真っ直ぐに慎を見つめる。
寄せられた眉が額に小さく縦皺をつくった。
そんな表情がさせたかったわけではないのに、慎はその表情に、二人が離れる事を告げた時の彼女の表情を思い出していた。

時間はこんなにたったのに・・・・彼女が変わっていないような気がして、嬉しかった。

ゆっくりゆっくり、頭を左右に振る。
涙がぱらぱらと散った。
「ちが、わ、ねえ・・よ・・・・きっと、きっと同じだ・・・けど、いいのか?お前こそいいのか?・・・記憶のない俺で」
久美子はコクンと頷いた。
「いいからここに居るんだ。記憶があっても無くても沢田慎は沢田慎だ。・・・たったこれだけの事を解る為に、伝える為に、随分時間かけちゃったけどな」
そう言って泣き笑いにくしゃりと顔を歪める。
慎は頷いた。
たったそれだけの簡単な事に、随分時間をかけてしまった。

自分は記憶があろうがなかろうが、山口久美子を愛したのだ。
ずっと、伝えられなかった想い。



慎は手をさしのばし、久美子の手に自分のそれを重ねた。
初めて繋ぐ手に力を込める
きっと、過去には繋いだ事もあったろう
けれど、自分はそれを覚えてない
それでも、彼女がいいと言ってくれるなら、かまわないと思った。


二人は見つめ合い、微笑みに目を細め、一歩、足を踏み出した。












まるで映画のワンシーンででもあるかのように

花嫁は男の手をとり、教会から走り出した

微笑む二人の頬には

熱い涙が流れていた




























あの冬の日、すれ違った二人の道が、また重なる。


二人の道のりは確かに平行線を辿っていたように思えた。
けれど
どんなにきちんと平行線をひこうと思ったって、必ず僅かなズレが生じるものだ。
それが互いに向けて、ほんの数ミリずつでも傾いていたのなら
かならず、いずれ道は重なる。
どんなに時間がかかったとしても
そして
一度重なったその一瞬の偶然を見逃さなければ
勇気を出して踏み出せたのならば

もう決して道は外れたりはないのだ






駆け出した二人のこれからの行く先は分からない

けれど、もう二度と、離れない


それだけが分かっていれば十分だった。





















あの日々を

誰もが忘れてしまっても

きっと

忘れない


あの儚く散った幸福に縋った日々を


幸福に目を背けた日々を


愛する人を遠ざけた日々を



忘れない


ずっと




ずっと





二人で覚えている





ずっと





二人でいる

























end













2007.4.20

おまけ