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ああ、人の心は、なんて




矛盾だらけなのだろう













久美子は文字の書かれた紙を片手に、海辺を歩いていた。
この地に来る前に地図で確認したかぎりでは、たしかにさっき通った道をまっすぐ進んだ先に、新しい赴任先の高校があった筈なのに。
どこをどう間違ったのか、海に出てしまった。

しかし・・・。
久美子は視線を用紙から外し、ぐるりと周りを見回した。
視界には、見渡す限りのコバルトブルー。
自分の今まで住んでいたところでは、空でもこんなに澄んだ色はなかった。

そんな、青く澄んだ海を前に、久美子は小さくため息をつく。

黒銀学院の卒業式が終わってから一か月。
当初苦戦するかと思った高校教師の職だったが、意外なほどあっさりと次の職場が決まった。

やんばる高校。

随分と南の・・・というか、南の島そのものにある高校だった。

久美子は手の中の住所を見て小首をかしげる
どっちへ進めばいいのだろう・・・。
と、その時、ふと、視界を横切った人影
この海に出てから初めて人に会う、久美子は慌てて声をかけた。













黒銀学院卒業式の翌日。
山口久美子はプロポーズされた。

「俺と結婚しないか」

そう言ったのは昔の教え子だった。
はじめは冗談で言っているのではないかと思った。
けれど、見つめた先、真摯なその眼差しに言葉を失う。
唐突で突飛なことだった。
混乱して、一瞬頭の中が真っ白になった。

「慎の事は忘れなくていい」

言葉のない久美子に、内山はゆっくりと教え諭すように言った。

「慎のことを忘れないまま、二人でアイツの思い出話しでもしながら、家庭を作ろう。・・・ヤンクミは、そのままでいいから」

「う・・・ちやま・・・」

久美子は額に手をあてがって、ゆっくりと頭を振った。

「ごめ・・・何、言ってるか、わかんな・・・」

内山の手が伸びてくる。いつの間にか、仕事をする、男の手になったそれ。
節だった指が男らしいと思った。
その手が伸びてきて、久美子の華奢な肩を自分の腕の中に納めるようにしてそっと抱き込んだ。
左の肩には掌の熱が、右の肩には内山の身体の熱が感じられた。

「かわらなくていいから・・・俺のこと、好きじゃなくていいんだ。慎だけ好きでいいから。だから、俺と結婚しよう。・・・そうすれば、慎も、帰ってくる」

その一言に心が揺れる。

今のままでいい?

忘れるように努力しようをしなくてもいい?
このままの、教師を引いたら、沢田慎を好きな事しか残らない自分でいい?

そうして

慎は

帰ってくる・・・・?


「慎の事を忘れられないままのヤンクミを俺が引き受けるから、俺と一緒に生きていこう。」

「二人で慎の話をしながら過ごしていこう」

久美子は、その言葉に返事を返す事ができなかった。
そうして
突然の発言に戸惑う気持ちのまま、赴任先の連絡がはいり、慌ただしく準備をしているうちに、結局、今、目の前には海がある。


慎の事を一生涯ただ一人の恋人として生きていきたい。
でも、慎が日本に帰ってくる為には、忘れなければいけない。

慎には帰ってきてほしい
このまま好きなままでいたい

矛盾ばかりの心。


旅立つ久美子の見送りに、空港まで来てくれた内山は言った。

「遊びに行くよ」

久美子は言葉に窮した

「何度でも、会いに行くから。・・・答えは、ゆっくりでいい」

「でも・・・内山。」

搭乗時間が近づいている。

「内山は、アタシの事好きなわけじゃないのに、そんな事、できるのか?」
「できるよ」

内山は即答した。

「ヤンクミは、ヤンクミを好きな人とは一緒になれないだろ?あの教え子達みたいに、同じ想いを返さないといけない相手じゃ、辛いだろ?」
言っている事は正しい。けれど・・・。
「俺は、ヤンクミのこと、恋愛対象っていうのとは少し違うけど、好きだし、大切にしたいと思ってるし、尊敬してもいる。ヤンクミも、俺のこと嫌いじゃないだろ?」
それには久美子もコクンと頷いた。

「だから、俺となら、一緒にいても辛くない思う。一緒に生きていけるよ」

搭乗時間が迫る。
内山は久美子が床に置いた鞄を持ち上げると、久美子を促し歩き出した。

「すぐに決めなくていい。ゆっくり、新しい環境で考えればいいよ。・・・俺は、レジャーがてら、遊びに行くから」

あくまで久美子の負担にならない事を言って、内山は久美子に鞄を渡すと背中を押した。
2.3歩前に歩いた久美子は後ろを振り返った。
慎が旅立ってからずっとあった、優しい笑顔がそこにはある。

「行ってらっしゃい」

「・・・うん」






飛行機の中で、まとまらない思考のまま、それでも久美子は考えた。
内山の提案は予想外の、というか、そんな考え方があったのか、というような驚くものだった。

けれど、久美子の希望が、全て叶えられる。
そんな条件を満たした提案だった。

飛行機の窓に寄りかかるようにしてコツンと額をガラスにぶつけると、眼下に棚引く白い雲があった。

自分は、きっと、卑怯な人間なのだろう。
もうずっと昔の、たった数ヶ月の幸福にすがって、そこから抜け出せないでいる。
そして、その抜け出せないループの中に、他人を巻き込んでいる。

幸せな記憶というのは、とても厄介で、一度味わったそれを、人は、なかなか手放せない。
――――依存しているのだ。
私も。幸せだったからこそ、それに依存してしまった。
たとえば辛い記憶だったならば、「なにくそ」と、歯を食いしばって乗り越えられたものを、幸福だったからこそ、その想いを捨てきれず、すがった。

そして、今また、心が揺れている。

『かわらなくていい』

『慎の事、好きなままでいいから』

久美子は目を閉じた。
閉ざされた視界に、敏感になった聴覚が飛行機の飛ぶ音を響かせた。




気持ちが、傾いていることを、否定できなかった。





















海で見かけた人物は、場所を聞くも何も、現地の人間ではなく、それも、あまりに見慣れた、猿渡教頭だった。
どうやら、この人とは教師を続ける限り、付き合ってゆく事になりそうな気がする・・・。
久美子はイヤに当たりそうな事を思いながら、彼と連れ立って学校までのだだっ広い道を歩いた。




「新しく赴任した山口久美子です」

やんばる高校は、自然溢れる島に唯一の高校だった。
島といっても、すぐ近くの島に橋で繋がっているため、そんなに不便ではない。
田舎なのは、来る前から覚悟していたので、それほど衝撃は受けなかった。
けれど、久美子が一番びっくりしたのは、そんな事ではなく、その学校の校風にあった。

のどか、というか、おっとり、というか。
生徒も教師も、良い意味で田舎の人、というか、人情味溢れる暖かな人ばかりだった。
揉め事を起こす生徒も居らず、学校帰りに通えるようなゲーセンもカラオケボックスもないような町では、非行に走る生徒などおらず、今までの教師生活の中で始めて時間の流れがゆっくりだった。
在校生のほとんどがその島の者達で、生徒数はかなり少なく、各学年に2クラスしかなかった。
久美子はその2クラスしかないウチのひとつ、一年生の2組を受け持つことになった。

長閑な環境で、ゆったりとした気持ちで働く。
進学率を上げようと躍起になる理事長も校長も居らず、猿渡教頭は拍子抜けしたようだった。
きっと、この学校でなら、久美子が任侠一家の一人娘だと知れても、そんなに問題にもならないだろう。






時間はゆっくりと、しかし確実に過ぎていった。

春が終わり、夏が来て、秋というには熱い日々を過ごし、雪の降らない冬を迎えた。

そんな生活の中、「会いに行くよ」そう言っていた内山は何度も訪ねてきた。
たまに黒銀の5人メンバーも一緒だったりすることもあって、東京では随分元教え子同士仲良くやっているようだった。
久美子の事を好きだと言っていた三人も、時々久美子にそそのかすような事を言ってはきたけれど
たいがいは夏にやってきて、レジャー目的で海でバーベキューなんかをした。
その時は、今の教え子達も加わって、町の漁師さんに色々貰ったりもした。

そうして、そんな日々が過ぎ、久美子が”東京から来た先生”、と呼ばれなくなった頃
入学してくる生徒数はどんどん減り、学年に2クラスあった教室がひとつになった。
どこでも過疎化は免れないようで、いずれ、この高校も本島の学校と合併するかもしれないと、校長先生は言った。








久美子がやんばる高校に入ってから三年経ち、一年生から受け持った教え子達が巣立っていった。
そうして、以前から話があったように、高校が合併され、また、久美子は職を失ってしまった。
もちろん、猿渡教頭も。

三年の間に随分増えてしまった一人暮らしの部屋の荷物をまとめる。
大変だろうと、内山がわざわざ東京から手伝いに来てくれていた。


「やんくみ〜荷物これで全部か?」

階下のトラックの前で、内山が二階の部屋にいる久美子に声をかけてきた。
久美子は窓から顔を出して答える。

「うん、あとは持っていけるものだからいいよ」

その言葉に、運送会社の社員が頭を下げて、車を走らせていった。


今日で、この島での生活も終わりだ。
飛行場は本島にある。
今年卒業した生徒の両親が漁師で、近くの漁港まで送って行くと言ってくれた。
生徒達も何人か見送りに来てくれるという話だった。

ここでの生活は、単調で、退屈で、けれど、命を洗われるような、そんな毎日だった。

ゆっくりと過ぎてゆく南の島での生活



けれど

それでも久美子は

その時間の中
やっぱり

気が付くと、指折り数えていた。

「・・・・。」

彼が日本を離れて何年たつのかと

あと何年すれば帰ってくるのかと

あと何年すれば彼の事を忘れられるのか、と


もう


数える事に疲れてしまっていたけれど。
何もないがらんとした部屋の窓に寄りかかって指折り数える。

この四月で久美子は29歳になる。
内山は五月で24歳だ。
そうして、沢田慎は・・・夏に、24歳になる。

18歳で旅立った彼が、今年24歳。

指折り数えて、この春で、もう、彼は五年も日本を離れているのだと、何度もした確認作業をする。


もう


無理矢理にでも
現状を変えなければならない時がきたのかもしれない



だから、昨日。


何度目かになる内山のプロポーズに、久美子は黙って頷いた。


『共犯者になろうよ、ヤンクミ』

内山の悪戯でもけしかけるような軽やかな声がよみがえる。


その一言で、プロポーズをうけようと思ったのだ。










東京に帰ってすぐにしたことは、内山を祖父に紹介する事と、彼の母親に挨拶にいく事だった。
祖父は驚いた顔をしていたが、それでも、祝福してくれた。もちろん、内山の母親もだった。
そうして、結婚式の日取りを決め、結納を交わし、あっという間に、招待客をどうする、とか、引き出物はどうするか、とか。そんな具体的な話になっていた。

そんな日々の中
久美子は葉書を一枚買ってきた。
結婚式の招待状とは別に、真っ白な官製葉書を、一枚。

季節はもう、夏になっていた。

照りつける太陽の中を郵便局から帰ってきた久美子は、暗さについてゆけない目を何度かしばたたいて、そうして、白い紙に向かった。


今年の12月25日、クリスマスの日に、花嫁になります。


たったそれだけの短い文だったけれど、久美子は何度も何度も目を擦りながら、時間をかけて書いた。
零れ落ちる涙が白い紙の上に落ちないように。
涙が文字を滲ませてしまわないように・・・丁寧に、丁寧に。

久美子は、沢田慎に、葉書を書いた。









月日はあっという間に過ぎた。
いつ雪が降ってもおかしくない、寒い日。
もう、明日が結婚式という日の夜、久美子は龍一郎と酒を酌み交わしていた。
こんな風に祖父と過ごせるのも、これが最後かもしれない。
久美子は注がれた熱燗を少し啜って、そうしてぐい呑みをテーブルに置いた。
「おじいちゃん」
「んー?」
膝を折って、床に手を着く。

「明日は朝から忙しいだろうから。今言わせてね。・・・・・・・おじいさん、長い間お世話になりました」
龍一郎はそんな久美子に目を細めた。

「よせやい、お前は結婚しても、これからもずっと、俺の孫娘だ。」

「・・・・ありがとう・・・アタシ、幸せな家庭を築くから・・・。」

「そうか」




あいも変わらず久美子の心を占めるのは沢田慎だけだったけれど
内山は、恋をした人ではなかったけれど

互いに互いの傷を慰めあえ、そして尊敬できるところのある人だから、きっと恋愛の好きにはなれなくても、
優しい家庭を作って行けると、久美子は思っている。



『何もかわらなくていい。・・・共犯者になろう?ヤンクミ。」




共犯者に、なれると思った。





















...to be continued......? 2007.4.19



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