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傷は細く浅いのです 「はよっす」 いつもだったら明るく駆けて来て肩でも軽く叩きながら『山口はよ〜っす〜』 とでも言ってきそうな隼人が、久美子の横に並んで静かに朝の挨拶をした。久美子は目を見開く。 「お?おはよう?矢吹。・・・どうした?」 違和感を感じて横を見やった久美子にも視線を合わせず、真っ直ぐ前を見たまま隼人は言った。 「どうもしねえよ。・・・お前、最近困った事とかないか?」 「は?・・・ないけど?」 「ならいい。・・・何かあったら言えよ」 「・・・・お、おう」 久美子が返事をすると同時に隼人は先に歩き出した。 思わず首をかしげてその背中を見送っていた久美子は、今度はポンっと軽く肩を叩かれた。 「おっはよ〜山口!」 やたら元気な挨拶に、誰だと振り返った久美子はその場で固まる。 「ん?どした?」 満面の笑顔で、固まっている久美子を見つめているのは 「お・・・・小田切?・・・お前」 「なんだよ?なんか顔についてるか?」 何もついては居ないけれど、笑顔を貼り付けた竜はそう言って久美子と並んで歩き出そうと、その背を促した。 軽く押されるようにして歩き出した久美子は頭が混乱していた。だが、それにもかまわず竜は話続ける。 「昨日のテレビ、お前何見た?8時からやってたドラマ、あれどうよ?オレ的にアウトだな〜」 「そ、そうか・・・?アタシ、見てないから、ちょっとわかんないけど・・・」 「なぁ、あれ、何?」 不自然な二人を後方から見ていた日向が思わずその幼馴染に聞いても、しかたがない事だろう。 さっきまで一緒に4人で歩いていたのだ。 口数が少ない隼人と、やたら話す竜。 そうして、前方に担任教師を見かけたと同時にすたすたと早足で歩いて行って静かに声をかけた隼人。 はっきり言っておかしい。 それに、隼人が担任から離れると同時に、スキップ交じりに今度は竜が走り出して、今は明るい話題を振り撒きながら彼女の横を歩いている。 おそろしく変だ。 「なんかおかしくねえ?」 「・・・・・うん」 聞かれた武田が嫌そうに眉をしかめながら答えた。 だが、何故そうなったのかは、いくら幼馴染だとてわからなかった。 わからない。・・・だが、なんだか非常にむかつく。 武田は何か考えるように親指の爪を軽く噛んだ。 転びそうになったら何も言わず支える手が伸びてきて、久美子は支えられた。その手の主を見ると矢吹隼人だった。 「あ、ありがとう」 お礼を言う久美子に 「いや」 口数少なく返すと、去ってゆく。 数学準備室まで何冊かの重い本を運んでいた久美子に 「ヤマグチ〜手伝うぜ〜っ」 明るくかかる声と駆けて来る生徒。 「お、小田切。これくらい大丈夫だ。それに廊下は走るな?」 「わりぃわりぃ。ほら、それよこせよ」 「・・・・・・」 「なぁ、武田?あいつらどうしたんだ?」 結局何かあると聞かれるのは幼馴染の武田である。 お昼休みに食堂で日向と土屋と三人でご飯を食べていたところに、眉をしかめた担任がやってきた。 「オレ知らない」 どうやら機嫌の悪い武田は、担任の説明にも簡潔に答え、つん、とそっぽを向いた。 朝から延々と続く隼人と竜の奇行に精神的に疲れていた久美子は、その返事にガクリとうなだれる。 「な〜んか、疲れるんだよ。なにか、変なんだけど、どう表現していいかわかんない〜・・・」 そのまま日向の隣の席に腰掛けるとテーブルに突っ伏した。 「あ、オレもそう思う。なんか竜も隼人もキャラ変わってるよな!」 日向だけは久美子の話題にのってきてくれたものの、別に解決にはならない。 土屋は久美子が来ると同時に席を立って自販機に向かっている。 「・・・はぁ。・・・アタシなんかしたかな〜・・・」 告白をされて、断ったのは自分だけれど、それとは関係ないような気がして、久美子はそれ以外の自分の行動を振り返った。 が、もちろん何かがあるわけでもなく、解決はしない。 なんとな〜くいつもと違う二人に驚いて、それから背中がゾゾ・・・と寒くなるような感覚を味わうのだ。 もう、腕にも背にも鳥肌が立ちそうだ。 今日午前中だけでも数度あった事を思い出して、その鳥肌を宥めるように両手で自分の腕をさする。 「ほい、ヤンクミ」 そんな久美子に紙コップが差し出される。 「悩んだときには甘いもの。あんまり深く考える事ないと思うぜ?」 「土屋・・・」 差し出されたのは、昨日ももらったフルーツミックス・オレ 思わず受け取ると、横の日向が唇を尖らせた。 「あ!ヤンクミだけずっりぃ〜!つっちーオレにも奢ってくれよっ」 「やーだねー。欲しけりゃ自分で買ってきな」 もう片方にもカップを持った土屋が久美子の隣に座る。 日向が入れ替わるように席を立ってしぶしぶ自販機へむかった。 「わ、悪いよ、土屋、お金払うから」 慌てる久美子に笑っていいからと言って、今度はもう片方に持っていたカップを武田に差し出した。 「ほれタケ。お前も糖分でもとっておちつけ。いらいらしてると女の子にモテないぞ」 「余計なお世話。・・・けど、サンキュ」 まさか自分にまで奢ってくれると思っていなかった武田は目を大きく見開いて、お礼を言うと差し出されたカップを受け取った。 土屋はそれに笑って、武田と久美子の頭をくしゃりと撫でると、今度は自分の分を買いに日向の後を追って行った。 残された久美子と武田はカップの中身を啜る。 ちなみに武田に差し出されたのは砂糖ミルク多めのコーヒーだった。 「なーんだよ、一人だけ大人ぶっちゃてさ」 すねたように武田は頬を膨らませたが、その目は笑み、細められていた。 手の中の飲み物が美味しかった。 幼馴染の奇行に苛立っている武田にも。 生徒の奇行に戸惑っている久美子にも。 それから一週間、竜と隼人の奇行はますます度を増していった。 無口でクールな隼人。 明るくひょうきんな竜。 土屋が退学騒ぎを経て少し大人になったのとは違って、不自然に変わっている二人は、はっきりいっておかしかった。 久美子と武田のみならず、今や3年D組全体がおかしな空気に満たされている。なんといってもクラスをひっぱている二人がおかしいのだから。 だが、何故こうなったのか分からない久美子にはそれを止められないし、問題が起こっているわけでもないから処理すべき事ではない。 やたら疲れる二人にアプローチをは受けている久美子は、正直疲れはてていた。 本人が本人らしくないというのは、周囲にとって、思う以上に疲れる状況だ。 それは、竜と隼人本人にも言える事だと思うのだけれど・・・・。 そして、そんな中、土屋だけは自然体で久美子に優しく接してくれていた。 好きだ、という気持ちがあるからなのは久美子だってわかっているのだが、その押し付けがましくなく、どこかほっとできる茶目っ気のある土屋には随分救われる。 今日も無意味に明るい竜に声をかけられて困っていた所に現れて「さっきタケが探してたぞ」と言って助けてくれた。 「・・・さんきゅ、土屋」 その疲れきった声に、やはり土屋はおおらかに笑うと、手にしていた扇子で風を送ってよこし、押し付けがましくない言い方で 「好きな子助けるのは男の役目だからねぇ〜」 なんて言ってのけた。 「土屋、言われるほうが恥ずかしいぞ」 「そ?俺ヤンクミ大好き!スキスキ〜。なんつって〜」 言ったほうも言われたほうもなんだか可笑しくなって笑ってしまった。 そんな二人を隼人と竜が離れた所から見ていた。 二人の行動は自分でもわかる程空回りしていて、好きな女から遠ざかっていき 逆にどんどん久美子と土屋を近づけて行く わかっているのに、どうする事もできない。 あの日。内山と川辺で話した日。 二人は久美子が未だ引きずっているという男の事を聞いた。 内山はポツリポツリとその男がどんな人物だったのかを話して聞かせた。 その人に自分達は似ていると言われた。 そうして内山は竜を指差し 「お前のが、似てるな」 と言った。 だから久美子を傷つけたくなかったら近づくな、とも。 竜は考えた 隼人も考えた。 竜は久美子を傷つけたくない一身で過去の男と似ていない自分を作ろうとした。 隼人は逆に、少しでもその男に似せて、代わりでもなんでもいいから好きになってほしいと思った。 だけれど、それがこんなにも辛くて大変な事だとは思わなかった。 自分の言葉で、態度で、好きな人に接する事ができない。 本来あるべき自分を、相手に見てもらえない。 この一週間、過去の男に似せようとクールを演じていた隼人は苦しいため息をついた。 彼女の愛した男に似せようと・・・自分を見て欲しいからこそ、自分を金繰り捨ててでも、その男に似せようとした。 何処を直せば、自分はその男に似るのだろう? どう振舞えば彼女の注意を引けるのだろう その男の仕草は?癖は?話し方は?声は?髪型は? ・・・どんな事でも良い、僅かでもかの男に似せようと必死だった。 内山が語った男に似せようと必死で一週間過ごした。 けれど これで、もし本当に思惑通りに山口久美子が自分を好きになってくれたとして、はたして自分はいつまでそれを演じつづけなければならないのだろうか? ・・・竜ほどではなくても、自分はその男に似ているという。負けたくないと思った、竜に。 だから、演じる。 クールに似せた自分はもっと、その男に似るのだろうか? そんな自分は、どう彼女の目には映るのだろう? 好きになってくれるだろうか。 ・・・・いつまで? 知らなければ良かったのだ あの日、内山から何も聞かなければ、無邪気に、ただ好きでいられた。 あの山口久美子が忘れられないほどの良い男の存在など、知らなければ良かった。 隼人は苦しげに唇を噛み締めて、下がってゆく体温と共に痛みを感じていた。 離れた場所で山口久美子は土屋と何事か楽しげに話して笑っていた。 自分を見て欲しい 自分だけを見て欲しい。 それはそんなに難しい事なのだろうか もし、自分が代わりになれるならばそれでもいい 一緒にいてくれるならそれでも良いと思った自分が愚かだった 隼人は、その人物に少しだけ似ているという自分を呪った。 隼人が隼人として苦しんでいる頃、その親友である竜もまた悩んでいた。 内容は隼人とは間逆である。 自分は過去に山口久美子が好きだった男に似ていると言う。 では、もしかしたら、今までの日々の中、彼女は、自分の背後、薄く透けて見えているその視線の先に、誰か他の男を重ねて見た日もあったのではないか・・・? そうして、人知れず傷ついていたのではないか? ぞっとした。 自分の背後に他の男が居るなんて事だったら・・・。 それが好きな女を傷つけているなんて事だったら・・・。 自分の影に見知らぬ男がいる。 自然体でなどいられない。 変わるしかない。 自分を見てもらうために。 けれど、それでは、本当の自分はどこにいることになるのだろう? 変わった自分を見てもらっても、もし好きになってもらっても、それは自分を本当の意味では好きになってもらえないという事ではないのでだろうか・・・? 「・・・・」 それでも竜はその男に似ていない自分を演じようとした。 そうするしかなかった。 竜と隼人の悩みはまったく正反対で・・・けれど。同じような努力をしようとしている二人。 名前さえ知らない男。 その男の影に二人は縛られている。 ”沢田慎”という名の、彼女を縛り付けている亡霊に、二人もまた絡めとられていた。 自分を歪めた想いなど、自分自身を傷つける行為でしかないのに・・・。 一週間が過ぎた。 それぞれがそれぞれにボロボロだった。 そんな時、一人の男が動いた。 放課後。 右手に隼人の制服の袖を、左手に竜の腕を掴んだ・・・・武田だ。 教室に三人だけになったと同時に武田は口を開いた。 「何があったわけ?」 「「は?」」 「なんで、そんな変な事してんの」 「・・・変な、事?」 「二人とも、全然らしくない。全然竜とも隼人とも違う」 「・・・んな事ねぇ」 「んな事あんの!すっげぇ変なの!・・・俺は怒ってるからな!」 子供の頃に戻ったような武田の口調に竜と隼人は顔を見合わせた。 二人は正直、子供の頃から、この童顔の幼馴染に弱い。 なんだか守ってやらないといけない存在のような気がするからだ。 実際にはそれなりに一人前の男なのだが、子供の頃感じたその気持ちは今も変わらない。 「二人が、つっちーも一緒に、ヤンクミの事好きなのは、俺知ってる。・・・けど、それがどうしてこんな事になってんの?・・・・このままじゃつっちーに負けちゃうよっ!!」 睨みあげた大きな瞳に、二人は戸惑いながらも、思わず口を開いてしまった。 一週間前の、男の存在も、その話も。 そうして、自分達の空回りの努力も・・・。 「隼人と竜の弱虫〜」 少しだけ泣きたい気持ちを抑えて、武田はからかう口調でそう言うと、小さな頃喧嘩した時を思い出させるような幼い仕草で、べーと舌を出して見せた。 武田に片方ずつ手を掴まれたままの二人の視線が武田の上に合わさる。 それに押されるように、ずっと言いたかった事を武田は言った。 「二人はさ、俺にとってはずっと小さい頃からの憧れでさ。幼馴染、やれることがすっげえ嬉しかったんだ。・・・なのになんだよ、自分の好きな人、自分のものに出来ないからって、今ここに居ない人のせいにしてさ。 そんなのって、超かっこ悪いし、ちょー弱虫」 「タケ・・・」 隼人が思わず名を呼んで、竜は押し黙った。 「隼人も竜も、そのまんまでも十分かっこいいよ。他の人になろうとしないでよ。自分から逃げないでよ。・・・俺だって一緒だ。皆そうだ。人間は、自分以上にも自分以下にもなれないんだよ」 二人を前に話しながら、口調は随分と軽かったけれど、表情は泣き笑いのような顔になってしまっていた。 そんな武田を隼人も竜も黙って見つめた。 「ヤンクミ、前に言ってたじゃん。半端な気持ちで人好きになるなって・・・・二人の気持ちが半端なものじゃないんなら、ちゃんと、自分自身としてぶつかりなよ」 「・・・それで、当たって砕けたら?」 隼人がらしくない後ろ向きで気弱な声を出した。 武田はもう一度自分に気合をいれて笑って見せた。 「そうしたら、また砕けた欠片集めてきてさ、何度でもぶつかればいいじゃん」 「それでも、ダメだったら?」 今度は竜が静かな声で聞いた。 「その時はさ・・・その時は、一緒に、俺も一緒に、自棄酒、付き合ってやるからさ!」 隼人と竜は互いに顔を見合わせて、そうして、今度は武田を見ると声を揃えて笑った。 先ほどまでの暗い空気はそこにはもうない。 「自棄酒ったってお前」 「お前酒なんて呑めないじゃん」 「うっさい!」 三人の瞳が重なって、耐え切れないように笑い出した。 幼馴染は、そうやって声を揃えて笑って。今までもそうだったように、互いの気持ちを鼓舞した。 今まで、三人で考えて、超えられなかった壁などないのだから。 「あ、でも、どっちかが砕けなかった場合はどうなるわけ?」 隼人が思いついたというように意地の悪い顔を作ってみせた。 「例えば、俺の想いが報われて、竜が振られちゃった場合、とか」 「逆だろ逆!」 まだ皆、笑いあっている。 「でも、もしどっちかがアイツ手にいれられたら、そいつの奢りで二人が自棄酒ってどうよ」 竜も思いついたというようにそう言って幼馴染二人に「感じわりーなそれ」と笑われた。 少年達は若いからこそ持ち合わせている健全で真っ直ぐで伸びやかな感情で前を向いてゆく。 かつての慎がそうであったように。 若いからゆえの悩みさえも、強い思いで乗り越えようとできるのだ。 明るい笑い声が教室に響いた。 まさか、誰かが聞いていることなど・・・・久美子が聞いていることなど、三人は知るはずもない。 放課後の教室を見回るのは久美子の日課だった。 たまたま聞こえてきた声に立ち止まってしまったのは偶然だった。 久美子は黙ってその場から動く事ができなかった。 竜と隼人とタケが話すのが聞こえる位置で、声をかけるタイミングをはずしてしまい、動けないで居たのだ。 そうして、その胸に去来する想いは、なんだったのか 唇を噛み締めて黙って廊下を睨んでいた。 隼人をも竜をも苦しめている自分。そうして、二人の幼馴染である武田をも苦しめているのだ。 こんなちっぽけな自分など、彼らに想ってもらえるようなたいそうな人間ではないのに。 それでも前向きに、真っ直ぐ伸びて、自分に向かってくる彼らの想い。 武田が言っていた『ヤンクミが言ってたじゃないか』と・・・確かに自分は彼に”半端な気持ちで人を好きになるな”と言った。 だが、はたして自分はどうなのか。 いつまでも諦めも悪く彼の事を引きずっていながら、その想いからきっちりと決別することも、また逆にまっすくに好きだと認める事すら出来ないでいる。 自分が沢田慎と付き合った・・・恋人としてつきあった期間など、わずか数ヶ月だ。たったそれだけの思い出にすがって、彼を傷つけ、彼を手の届かないところへやってしまった。 記憶を無くす前の沢田慎といた時間よりも、記憶を無くした沢田慎との時間のほうが、もうずっと長い。彼がいない今も含めて、ずっとずっと長い。 自分のせいで遠い地へと旅立った彼は、確かに沢田慎であるのに、自分は今でもそれを認めようとしていないのだろうか。 もしまた会っても、傷つけてしまうのだろうか。 そう思うと怖くてたまらない。 ”自分は自分以上にも自分以下にもなれない”・・・武田が言っていた言葉。 それは山口久美子自身にも言えることだし、沢田慎にも言えることだ。 記憶をなくしても、彼は彼でしかなかったのに・・・・。 少年達は教室の後ろから楽しげに帰って行った。 もうその声は聞こえない。 けれど久美子は動き出せずにいた。 足が張り付いたようにそこから動けない。 沢田慎は沢田慎だったのに・・・・。 『慎を帰せよっ』 過去の自分が放った言葉が、今また、自分の胸に刃のように突き刺さっている。 何度も何度も思い返す、もし時間が巻き戻せるのなら、あの時間に戻って、自分の失言を取り消したい。 そうしたら、沢田慎は、例え自分の事など、なんとも思っていなくとも・・・今も自分の傍にいたかもしれないのに・・・。 久美子の手が力なく持ち上がり、自分の額を覆うようにして抑え、そのままその場所にずるずるとしゃがみこんだ。 ――――――――時間が巻き戻せるのなら・・・。 何度も考えた。 もちろん叶わない事だとは分かっている それでも、自分は・・・もし、巻き戻せたとしても、あの、幸せな数ヶ月の時間にではなく・・・愛し愛された慎のいた時間ではなく・・・記憶を無くした慎を傷つけた時に巻き戻そうとしている。 もちろん、どちらでも無理だ。 時間は巻き戻らない。 けれど、自分のその気持ちの持ちようが、もう、すでに自分自身の想いを吐露してしまっている・・・と、久美子は思うのだ。 あの日の暴言を取り消して、帰ってきて欲しい。自分の傍に居て欲しい。 自分は、そう、思っているのだ。 沢田慎は沢田慎なのだ。 ただ、自分を好きか好きじゃないかの違いしかないのだ。 自分を好きじゃない沢田慎ならいらないなど、なんて傲慢な思いだったのだろう。 何故、もっと努力しなかったのか、何故、もう一度好きになってもらおうとしなかったのか 『好きな人には好きになって欲しいじゃん』 笑ってそう言った土屋の言葉が胸を締め付ける アタシは、あの時、何をしただろうか どんな努力をしただろうか なにも、していない。 ただ、頑是無い子供のように、彼を傷つけただけ。 沢田慎は沢田慎でしかない。それ以上でも以下でもない。 記憶があったってなかったって、その事実は変わらない。 時間が巻き戻せないように、それも、変わらない事実なのだ。 だからこそ、もし、彼が帰ってきたら・・・・・。 そこで久美子は小さくため息をついた。 彼は言ったではないか。 久美子が慎を忘れたら・・・帰ってくる、と。 自分ではだめなのだ。このままでは、彼は帰ってこない。 どうあったって、自分の思いは彼にはもう・・・届かない。 「会いたいよ・・・」 昔、何度も思った言葉が堪えきれずにまた、唇からこぼれた。 会いたくて会いたくてたまらなかった。 記憶など関係ない。 沢田慎に会いたかった。 会って、謝って・・・・そうして・・・。 自分の都合の良すぎる考えを久美子はそこで止めた。 「半端なのは・・・アタシだ・・・」 それだけは、かわらない事実だ。 久美子の想いをよそに、すっかり気持ちの切り替えができたのか、隼人も竜も翌週から自然体で久美子にぶつかってきた。もちろん、土屋も。 けれど、久美子はまだ、迷宮を彷徨うばかりだ。 答えは出ているのに 答えは出せない 少年達の真っ直ぐすぎる想いが、久美子を傷つけてゆく。 それは小さくて細かい、紙の端で指を切ったような傷だったけれど。 何個も何個できてゆく傷たちは、塞がり難く。癒え難かった。 久美子を内側から壊してゆくように・・・。 ...to be continued......? 2007.4.15 |