09










 シーツの波間、黒い髪がサラサラと音を立てて滑る。
 いつもは結ばれたままのそれが、今は動きにあわせて自然のままに広がっていた。
 明かりを抑えた部屋で、それでも光を放つそれは、触れると冷たく、指に優しい。

 うっとりと快感に閉じられた瞼。
 震える長い睫。
 額に浮かんだ玉の汗が寄せられる眉の動きにつぅ、と、流れ落ちる様が扇情的に見える。
 困難な呼吸を補うように開かれたままの唇からは赤い舌がひらひらと覗き、時折ちらりと見える白い歯が酷く卑猥だ。

「   」

 自分の声だった。
 名を呼んだのだと思う。
 その音へ呼応するように、背に這わされていた腕が身体を辿るように持ちあがり、砂骨に触れ、首筋を辿り、頬へと手を添えられる。
 愛撫のように這わされた小さな手が濡れているのは自身の汗か、触れた俺のものか

「   」

 再度、呼びかける己の声。

 目の前の睫が震え、ゆっくりと瞳を開く
 いとおしそうに頬に触れていた指が止まり
 目の前で瞼が持ち上がった。

 覗いたのは

 硝子玉


 快感に潤んだものではなく
 愛しさをふくんだ色でもなく
 人形に嵌め込まれた造り物の様に、感情もなくただ目の前の者を映し返す瞳。

 途端に、触れていた皮膚から熱が抜け落ちてゆく
 冷めたい四肢

 白き身体からも
 己の身体からも

 熱が消える


----------そうだ、あの時も


あの時も?-----------------


----------滑らかで、でも触れるのを拒むかのように熱を持たない白い肌


いつ?---------------------


----------涙を流して。


何故?---------------------


----------それは。





 頬に触れていた手がパタリと落ちる。

 目の前には

 横たわる


 ただの肉塊。








 問題集に奇怪な図形を無意識に書きこんだ慎は、集中できない思考を遮る為、掻き雑ぜるように髪に指を通すと、立ち上がってガス台に向かった。

 コーヒーメーカーに挽いた豆と水を入れてセットし、できあがるまでの数分、台に凭れるようにしてタバコに火を点ける。
 フワリとのぼる紫煙。
 それを見るともなしに視線で追っていると、瞼の裏に今朝がた見た夢の残像がちらつく。
 すぐ目の前には現実に存在する寝具。
 その上で妖しく蠢いた二つの体は幻。

 いや
 片方の身体は人間ですらなかった。
 心の入ってない、ただの人形。
 そして、それに、愛しげに触れていたのは・・・。
「・・・・」
 ギュ。とシンクにそのままタバコを押し付けて火を消し、カップにコーヒーを注ぎいれる。
 あの日、部屋から消えたマグ。
 見覚えのなかったそれは、枕もとの目覚まし時計と一緒に消えた。
 変わりに、鍵をひとつ、残して。
 ・・・アパートの錠にピタリと合わさるそれは、つまりは自分が作って渡していたものだったのだろう。
――――正直、信じられない。
 合鍵を、オレが、渡すという状況が理解できない。
――――この、オレが・・・。


 ベットに横たわり、壊れたように涙を流していた女、そして、厳しい瞳を向けて、慎を否定する態度。
 それらの姿が浮かんで、知らず小さく舌打ちをする。

 どんな付き合い方をしていたのだろうか、自分たちは・・・いや、彼らは、というべきか。
 例えば昨夜見た夢の前半のように、激しく求め合うようなそれだったのか。
 合鍵を渡すくらいだったのだから、そうなのだろうが・・・それにしても・・・。
「・・・胸クソわり・・・」
 ポツリ呟いたそれは、何に対してか

 白い肌だった。
 細い腕だった。
 柔らかな女の身体だった。
 あの身体をいいようにしていた男がいる
 それを思うと、熱い湯を一気に飲み込んだような、痛く熱くもどかしいような感覚がある。
 泣きながら拒んだあの女は、オレを沢田慎だと認めていない。
『慎を帰せよっ』
 責める瞳

 もし、沢田慎であったならば、どんな反応を返したのだろう。
 人形のように冷えた身体は熱を持ち
 呼びかけには呼びかけを返し
 熱い愛撫には甘い声を返し
 瞳には愛を滲ませて・・・

 考えれば考えるほど、全身が震えるほどの・・・怒りを感じる。
 そう、はっきりと、”怒り”を感じるのだ・・・。

 手の中で幾分冷めたコーヒーをグビリと喉に流し込む。
 目の前の自分のベットで睦みあう男女の幻影が、また、見えた。

 細く白い身体を組み敷いているのは

 自分ではない。

「・・・っくそ」

 

 考えを振り切るように頭を振って、カップにコーヒーを継ぎ足し、勉強を再開すべくテーブルに戻る。
 広げられた問題集の狭間。
 そこに
 どうする事もできない鍵がポツンと置いてある。
 捨てる事もできず
 さりとて仕舞い込む事もできず

 そこに ただ ある。




 修業式を終え。
 冬休みに入って2日。

 以前の自分が出していた進路調査表を元に、やる気はないものの、かといって否定する要素もなく。
 慎はとりあえず受験勉強をしていた。
 
 記憶のない時期がある為、本来ならば塾にでも通うべきなのだろうが。
 ”とりあえず”、で受験する慎はそこまで必死ではない。
 正直、落ちても構わないくらいの気持ちだ。
 だが、勉強をしない時間、何をしていいのかがわからない。
 クマは冬休み中はずっと実家でラーメンを作ると言っていた。
 他の友人たちも、あの日以来連絡もなく、また、慎からもとる気はなかった。
 たった2日。
 けれど、もう手持ち無沙汰で・・・。
 だから、やる事もない自分は買ってきた問題集で受験勉強なんかをしている。
 そうでもなければ、ろくでもない考えしか浮かばないから。
 ・・・・山口久美子の事ばかり考えてしまう自分がいるから。

 夢を見てしまう。
 あの日から。
 消えない夢。
 寝ている間も
 起きている時も。

 幻影が消えない。

 何故。
 何故?

 ヘタに考えて追求すると怖い結果しか待っていない気がして、慎はひとつひとつ問題を解いてゆく。
 答えのない自分の問題をではない。
 答えがすぐに出る問題集の問題を。

 ガリガリとシャープペンシルを紙の上に滑らせていると、力を入れすぎたのか芯が勢い良く折れた。
 ノックして出そうとしたが出てこず、替えへと手を延ばす。

 延ばした手と視線の先に、あの、鍵。

 吸い寄せられるように、硬質な感触が手に触れる。
 指先で、なぞり上げる。
 何度も
 何度も
 人差し指が鍵の上を往復する。
 まるで、愛撫のように。

「・・・・ッ」

 衝動に突き動かされるようにテーブルに手をつき、そのまま立ち上がる
 手にはしっかりと鍵を握り締め
 それ以外の何をも持たず、外へ飛び出す。

 階段を降り、エントランスを出た途端、自分でも分からない何かに突き動かされるように・・・背後から押されてでもいるかのように、足が勝手に走り出していた。
 
 空はどんよりと黒く重い雲が覆い
 昼間だというのに日暮れ時のように暗い
 道ゆく人たちが寒さを遮るように衿を立て肩を竦める中
 慎は部屋着のまま
 それさえも気がつかず
 ただ
 一点を目指し
 ただ
 一人を目指し
 走った。


 会いたい

 
 アイツに


 会いたくて・・・。



 けれど
 目的地まであと僅かとなっていた慎は
 それまでペースも落とさずに走っていた事が嘘のように、急速に速度を落とした。

 緩く遅くなった足が縺れ、つんのめりそうになる。
 肩で整わない息を荒くつき
 そうして
 呆然と立ち尽くした。

『しん』

 不意に、女の声が聞こえる
 
『慎』

 助けを求めるように、悲鳴のように

『慎を返せよっ』
 
 女の

 悲鳴が聞こえる。


 その途端、もう、一歩も足を踏み出せなくなった。


 折りしもそこはあの日の公園。
 夢を話してくれた場所。
 微笑んで聞かせてくれた場所。彼女が、夢を。
 そうして、帰る背に、いつまでも手を振ってくれていた、場所。

 どうして

 どうして、会えるつもりでいたのだろう

 あんなに、傷つけたのに
 あんなに、泣いていたのに
 あんなに、否定されたのに

 オレになど、会いたくもないだろうに



 ソロリと、手を開く。
 その中には、鍵。
 これは、”オレ”が渡したものではない。
 ”オレ”から受け取ったものではない。

 この鍵を、もう一度渡しても
 いらないからと、つき返されるだけなのに
 お前はいらないからと、拒絶されるだけなのに

 どうやって、アイシテもらえたのか
 以前のサワダシンは
 どうして、あの心を手に入れられたのか
 今の自分と、何が違うのか

 どうして、求められるのは、自分ではないのか。

 何故
 泣かせてしまったのだろう
 ひどい言葉を投げつけた
 冷たい態度を崩せなかった。

 もし
 もっと、優しく・・・

 そうすれば
 せめて

 嫌われることはなかっただろうに

 もしかしたら
 もう一度
 今の自分が
 手に入れられたかもしれないのに

 どうして・・・自分は・・・。


 自分でもよくわからないまま、とりとめもなく浮かぶ言葉達を呆然としたまま慎は頭の中で繰り返していた。
 それが何を意味しているかなど、今の彼には考える事すら及ばない。
 
 答えは
 心の中にあるのに





 
 ポツリと。
 立ち尽くす慎の頬に冷たい感触が落ちる。
 まるで、あの日の彼女の涙のように空から落ちてきたそれは。

「・・・雪・・・。」

 慎はそっと手を差し出してそれを受け止めた。
 ゆっくりと空へと顔を向けると、無数の白き点が落ちてくる。
 美しいはずのその結晶は、まるでゴミのように瞳に映った。
 自分へと落ちてくる沢山のゴミ達。

 慎の膝からふいにガクリと力が抜け、その場にしゃがみこむ。

 空を見上げたまま。

 沢山のゴミにまみれてゆく自分に呆然としたように。











 そこに救いはあるのか

 この気持ちに行く先はあるのか

 この


 恋に









 慎は気がついてしまった結論に
 まるで神に祈る信者のような、苦行に耐える修行僧のような、そんな表情を浮かべ、ゆっくりと瞼を閉じた。
 




――――自分はどこへ行けばいいのだろう

――――今の、自分は

――――彼女に拒絶されるこの想いは

――――この

――――芽生えたばかりの恋心とともに・・・どこへ行けばいいのだろう。


 それとも自分のこの苦しい気持ちも、過去の自分が見せる錯覚で
 本当は今の感情ではないのか

――――こんなに苦しいのに?
――――こんなに愛しいのに?


 そうして

 何度考えても結局立ち戻ってくる結論

 自分などいらないという事
 消えてなくなってしまえばいいという事。


 慎の胸に恐怖心が押し寄せてくる。
 消えたくない・・・一緒にいたい・・・と。


 あの人の傍にいたい・・・・と。




 暗い日中が本当の暗闇に閉ざされ始める頃。
 体温でも溶かしきれなかった雪たちが慎の身体に降り積もっていた。

 このまま、雪とともに消えてしまうかのように。














 サクサクと、雪を踏みしめる音が聞こえる。
 それをどこかボンヤリと耳に入れていた慎は、前方を赤いものが通り過ぎるのを見た。
 遠く、公園の前を差し掛かったそれは、赤い傘だった。
 華やかな色は、遠目にも分かる絵柄を見せた。
 一見赤地に白の水玉模様に見えるそれは、赤に緑に茶色。・・・トナカイに乗ったサンタクロースの絵柄。
 フイに今日がクリスマスだという事を思い出す。

 そうして、ゆっくりと立ち上がる。
 赤い傘はそのまま慎の視界から消える。

「くりすま、す・・・・か」

 寒さのためか、声が震えていた。
 そうして、そのまま踵を返し、足をゆっくり前へと踏み出して、もと来た道を辿るように帰る。
 
 手の中の鍵が、力を失った手から滑り落ちる。
 けれど、それを拾う気も起きず、そのまま、ふらりふらりと、歩く。

 自分は何をしたかったのだろうか

 許されるつもりでいたのだろうか?

 あんなにも酷い言葉を投げつけ、酷い事をしたのに

 この想いがかなうつもりでいたのだろうか


 なんと


 恥知らずな・・・。



「サンタクロースが、いるんならサ・・・」

 ポツリと口から漏れた言葉。

「今すぐ俺を、消してくれよ」

 雪が重く振り続く世界


 小さな小さな呟きは、誰にも届かない

 サンタクロースにも


 恋しい女にも・・・。




 歩みを止めない慎の上には、止むことのない

 無数の雪が
 
 空から


 落ちてきていた。




 音も立てず。















...to be continued......? 2006.12.18

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