06










 部屋の扉を乱暴に開け、同じように乱暴に閉める。
 築何年だかわからないオンボロアパートは、それだけで軋みをあげた。

 慎は昼休みを終え
 友人と話をし
 そうして、そのまま帰路についた。

 昨日とまったく同じだ。

 だが、動揺をあらわすように、カバンすら持ってくることもなく
 学校からまるで逃げるように駆けてきた。


――――なんて言った?
――――友人はなんて言った?

――――俺が

――――ヤンクミと
――――あの女と


――――嘘だ!


 あの女は言ったではないか
 落ちこぼれと世間では言われている子供達にも
 真っ当に教育を受ける環境をあたえてやりたいと
 自分はその為に教師になったのだと
 だから目指したのだと

 目の前がまっくらになったように、何も見えない。
 突っ伏したベットの上、慎は拳を握り締めた。
 信じ始めていた教師に裏切られたからか、それとも、あの笑顔が今の自分にではなく、過去の自分に向けられていた事にショックを受けたのか・・・。
 ノロノロと視線を上げると視界に映る自分の趣味じゃない目覚まし時計。
 食器棚の中、見た事のないマグカップ。
 冷蔵庫の中で退院後発見した怪しい物体になっていたグラタン・・・・それは・・・
 それは、もしかして・・・・




 どれくらいそうしていたのだろう。
 ピンポンと、どこか間抜けな呼び出し音が暗くなりかけた部屋に響く

「お〜い沢田。いるか〜?」

 間抜けな声が聞こえる
 間抜けでバカな女の声。

 騙すなら
 もっとうまくやってくれれば良かったのに・・・。

 慎はのそりと起き上がると、扉へと歩み寄った
 ガチャリとなんの感慨もなく扉を開く。

 目の前に慎のカバンを持って心配そうに眉根を寄せた女

「お前カバンも持たないで帰っただろ。大丈夫か?やっぱ昨日のケガ、病院行ったほうがいいかな?どっか打ち所でもわるかったら・・・・」


 それも、演技なんだろ?
 心配も、全部嘘なんだろ?

 本当は、お前だって。俺じゃない、”俺”を望んでるんだろ?







 思いつめたように慎を見つめた友人が言った。


「なぁ、慎、お前がイヤなのも分かるけど、もっとちゃんと記憶とりもどすように考えよう」
「・・・俺は俺でいい」
 昨夜の3代目の言葉が慎の心に強い勇気を与えてくれていた。
 このままの自分でもいいのだ、と
「うん。でも・・・やっぱり。俺、ああやってヤンクミにきつくあたるお前見るの嫌だよ」
 眉根を寄せたその表情に、友人がどれだけ担任教師を気遣っているのかが伺えた。
 そうして、何故か分からないイラだちが胸を支配する。
 まるで、自分だけがあの女を大切に思っているような友人の口ぶりに。

 ソンナ事ハナイ。
 オレダッテ・・・。

「・・・・随分あの女の事庇うじゃねえか」
 心は裏腹な気持ちを言葉に乗せて
 その揶揄に含まれた意味合いに、さとい友人は怒りに眉を跳ね上がらせた。
「なんでそんな風にしか言えないんだよ!なんで忘れちまったんだよ!あんなに大切にしてたのに!なんで事故なんかで忘れちまうんだよ!お前なら!慎なら!たとえ俺たちの事は忘れても!ヤンクミの事だけは忘れないと思ってたのに!あんなに大切にしてた恋人の事っ!どうしてそんなに傷つけるんだよ!」

 悲鳴のような叫び方だった。

 そうして、ハッとしたように己の口をふさぐ友人

「・・・コイビト・・・・?」

「慎」

「なんだよそれ。」

「慎っ」

「なんなんだよそれ!!!」


 慎はそのまま逃げるように校舎を後にした。




 久美子がアパートを訪れる5時間まえの事。


 狂い始めた歯車。


 もう誰にも止められない。





















 咄嗟の事に受け身のとれなかった久美子の視界に天井の継ぎ目が見えた
 そして、次いで今自分を突き飛ばした男の顔。
 蛍光灯の明かりを背後に、暗く影を落としたその表情はどんな感情を浮かべているのか察し様がなかったが、異様に感じるほどの静かな表情の中、瞳だけが悪意を帯びたように光って見える
 何が起こっているのかわからないまま、久美子は本能のままに身を守るように腕を突き出した
 だが、それさえも捉えられ、頭上にひとつに留められてしまう

 暗い影の中、男の唇が皮肉気に歪むように笑った
 片方だけ、口の端を上げて笑う。

 ”以前”の沢田慎はこんな風には笑わなかった
  ”この”沢田慎になってからできた特徴。

「俺たち、コイビトドウシ、なんだろ?」
 声さえも笑み含んだように悪意が垣間見える。
「結局、お前だって同じじゃねえか、自分の教え子と乳繰り合ってる、ただの教師じゃねえか」
 久美子は押さえつけられた腕よりも、胸の内が痛んで、息ができないように止まる。
「コンナコトも・・・今更だろうが」
 男の手が久美子のブラウスのボタンをひとつ、またひとつと外して行くのを、久美子はまるで別の世界の・・・そう、例えばTVドラマを画面越しにみるようにして見ていた。

 メガネの奥で大きな瞳がより大きく見開かれている

「ヤってほしくて俺の回りうろついてたんだろ?」

 ニヤニヤと笑みを浮かべ、聞こえる声は、たしかに”彼”のものなのに・・・

「さ、さわ・・・沢田っ」
 久美子の手が必死に抗うように動かされたが、喧嘩にいくら強いといっても急所を動きの俊敏さで一発で沈めてきた久美子だ、腕力は所詮女のそれで
 たった片腕ひとつの力に拘束が解かれることはない。
「なんだよ、今更”沢田”かよ」
 男の顔が近づきすぎて、逆に表情が読めない
「なんて呼んでんだよ、二人っきりのコイビトドウシは?」
「ちがっヤメロっ沢田っ」
 久美子の声が小さく震えを帯びる。けれど顔には未だ状況が理解できないかのようにぎこちない笑顔が張り付いていた
「じょ、冗談だよな、やめろ、な、・・・さわだっ」

 久美子のブラウスのボタンが全て外され、ヒヤリと冷たい感触が皮膚に触れる。
 身体がその冷たさに反応するようにビクリと跳ねて、その反応に男の笑みがまた深くなった
「ジョーダン?・・・何が冗談なんだよ。俺らの関係のが冗談みてえじゃねえか」
「そ、そんなんじゃない、アタシたちは、そんなんじゃないんだよっ沢田!」
 男の冷たい手の平が這うように腹を辿り、そのまま柔らかな肉の感触をわざと焦らすように辿る。
 久美子の心臓がドンドンッと激しく内側から押し上げていたが
 ガタガタと震える身体は急激に熱をさげていった。
 今は触れる男の手の平に負けないくらいに冷たい
 ”男”は笑った
「・・たいがいアンタも強情だな。なんて呼んでたんだよ、こういう時くらい名前、呼んでたんじゃねえの?それともそういうプレイが好き、とか?・・・ああ、そうか」
 また。笑った
「クミコ」
 ビクリと、久美子の身体が震えた
「”おれ”は、そう呼んでたか?」
 久美子の身体が跳ねたのを、また男は笑いながら見た
 手の中の玩具が壊れるのを知っていながら乱暴に遊ぶ幼子の様に
 残酷に
 無邪気に

「なあ」

「久美子」









 ぎゅうと、抱き占めていた身体をぎこちなく、けれどそっと壊れ物でも扱うように離してゆく
 真っ赤になって口づけを受けていた久美子がそっと目を開くと、普段の彼からは想像もつかないくらい赤くなったテレた表情で見つめ返された
 少し潤んだように見える瞳は熱を持っていて
 きっと自分も同じような瞳をしているんだろうな、と久美子は思った

「送ってく」

「うん」

 本当はもっともっと抱き占めていたい
 本当はもっともっと抱き占められていたい

 もっとずっと一緒にいて
 片時も離れずに互いの熱に触れ合って
 溶けてひとつの身体になって

 そうして

 このまま

 ずっと二人きりでいたい


 それは身体を離した慎も
 離された久美子も

 同じ気持ちで


 でも

「忘れ物、ないか?」
 ぎこちなく笑ってもう一度そっと触れるだけのキスをした恋人に
「うん」
 やっぱり恥かしくて、でも触れた唇の感触が嬉しくて、久美子も恋人の服の裾をきゅっと掴んだ。


 他人から見れば、きっと子供の様な、おままごとのような恋愛だろう。
 でも、もっとずっと真剣で
 ただ、簡単に身体を繋いでしまえるような刹那的な恋ではなかった。

「卒業したら」
 言った後、テレたように視線を外して、けれど裾を掴んだ久美子の手を自らのそれで包み込んだ
「うん、卒業したら」
 久美子も赤い顔をして、でも確かに幸せそうに笑いながら頷いた

 互いの手は熱を含んで燃えるようだった

 身体も


 それでも、二人はプラトニックな恋を貫いて。

 触れるだけのキスを交わし
 優しく抱き占めるだけの抱擁を交わし
 繋いだ手の平に互いを確認しあって

 生徒は教師のために
 教師は生徒のために

 ただ優しく想いあう


 ようやっと、お互いの名前を呼び合えるようになったばかりの恋人たちは
 それがとても特別で大切でテレくさくて
 そうして、そう呼び合える二人きりの時を大切にしていた

「帰るか、久美子」
 少しテレた微笑み
「うん、慎」
 微笑む女も頬を赤くして

 本当に。
 子供のような恋で・・・

 それでも

 大切で・・・・


 大切な・・・・











「慎っ」

 久美子が名前を呼んだ。

「慎」
「慎っ」
「慎っ!!」

 叫ぶように名を呼びながら、久美子の瞳から止め様のない涙がこぼれ落ちて行く。

「慎っ」

「っう・・・・し、ん・・・・しん・・・・・しん・・・・・・」

 何度も呼ぶ名は、今自分を押さえている男のそれで
 けれど、久美子の瞳は虚空に向けられ、ただ、ここにいない男に助けを求めるように、何度も何度も悲痛に叫ぶ
 たがが外れたように涙を流す女はたった一人の大切な恋人の名を呼び続ける
 呼んだって叫んだって、もう会えないのに

 もう、一生会えないのに

 それでも恋人の名を口に上らせる



「しん・・・・・」





 男の手が久美子を押さえていた力を抜き、ゆっくりとその身体が起き上がった
 けれど、俯いたままのその表情は影をまとったまま、何も読み取れない。

 慎の前には横たわった女が一人、拘束を解かれたのにも気がつかぬように、ただただ天井を見たまま、泣き続けている

 恋人の名を呼びながら
 ただ、涙を流し続けている

『慎』・・・と。


 でも、それは、自分であって、自分ではないのだ


 俺の名だ

 俺が沢田慎だ


 なのに、何故

 何故


 誰も
 俺を
 見ない・・・・?






「帰れ」

 平坦な声が出ていた

「もう二度と来るな、帰れ」

 その冷たい響きに、女の身体が身じろぐ

「もう二度と・・・」

 ベットから降り立った



「俺に近づくなっ!!」


 叫ぶなり上着を掴み、駆け出す

 まるで、そこから逃げるように

 自分の部屋から逃げ出すように

 走る

 走る

 逃げる

 部屋から


 そして

 自分を見ない、女から









 慎がアパートを飛び出して暫らく後
 ベットに横たわっていた久美子はノロノロと起き上がった。

 そうして、肌蹴られたシャツを手繰り寄せ、ゆっくりとボタンを嵌めて行く

 その間も涙は止まる事を知らず、頬を髪を服を濡らしてゆく。



 涙で滲んだ視界の中で
 部屋はなにも変わりなく
 以前と同じ、自分を包んでくれたそれ

 そして、自分の座るベットからも、優しく抱き占めてくれた恋人の香が漂っていた

 なのに、彼だけがいない

 恋人だけが、ここに不在で


「・・・・あいたいよ・・・」

 思わず口をついて出たそれは、慎が事故にあってからずっと心に秘めてきた言葉

「あいたいよ、慎・・・・」

 自分で自分の身体をぎゅうと抱き占めた
 あの日、恋人がそうしてくれたように


「し、ん・・・・・」



 涙は、止められそうもなかった














...to be continued......? 2006.11 改稿

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