04
「ヤンクミが」 「ヤンクミと」 「ヤンクミに」 気がつくと誰かの話題に上っているその名前に、慎はなんとも言えない不快感を味わっていた・・・。 校舎中が活気を取り戻したように楽しげな声が響く昼休み、慎は友人たちと学食にいた。 牛乳パック片手に合コンについて語りあっている野田と南 食堂の定食では足りず、購買から買ってきたパンを齧っているクマ 家から持ってきた弁当を布に包んでいる内山。その手がふいに止まった。そして・・・ 「そういや、この前かーさんとヤンクミ道端でばったり会ってよ、俺が弁当持ってきてる話になったとかでサ」 また”あの女”がらみ。 「あ〜ヤンクミの事だから滅茶苦茶誉めそうだよな」 「そうそう。しかも俺が嬉しそうに食ってるとかって、勝手に言いやがって」 「言いそう言いそう。ってか、お前実際嬉しそうに食ってんじゃん」 「ウルセェよ。・・・ま、したらよ、かーさんそれ以来やたら気合いれて作ってんのがわかるわけよ」 「い〜話じゃね〜かよ。」 「うわ、南その言い方ヤンクミくせぇ!」 何がおかしいのか、笑いながらそんな事を話している友人たち。 「・・・なんでウッチーの母さんと知り合いなわけ?あの女」 俺の声が幾分低くなってる事に誰も気づかない 「知り合いっつうか、ウチのかーさんヤンクミのファンなんだよな」 「あ!うちもうちも!うちのかーちゃんもヤンクミ店に来るとチャーシューやたらサービスしてる」 「そーいやウッチーのかーちゃんヤンクミにお見合いさせようとしてなかったっけ?」 「ビデオ持って来てたよな〜。あれどうしたんだろヤンクミ」 ・・・また、笑っている。 自分の記憶がないからだとはわかっている。 この場では自分のほうがおかしいと分かっている。 気を使って貰うような間柄でももちろんない けれど、この苛立ちを我慢するのもそろそろ限界で・・・。 ---------ガタン。 立ち上がると、予想以上に椅子がでかい音を立て、友人たち以外にも回りにいた生徒たちの視線が一斉にあつまった。 「どした慎?」 一瞬だけ眉根を寄せた慎に、友人たちが顔を見合わせる。戸惑うその表情に今度は慎がハッとして慌てて背を向けた。 「・・・俺。早退すっから。・・・じゃ」 後ろ手に手を振る。 内山の止めるような声がかかったが・・・無視した。 教室に鞄を取りに行き玄関へ向かう、その途中。 「お?沢田、鞄持ってどうした?」 ・・・慎が今、一番会いたくない女に行きあたる。 無視して脇を通り過ぎようとした腕が掴まれ、慎はあからさまに舌打ちをした。 だが、その女、山口久美子はそんな態度にも無頓着で手を離す素振りも見せない。 「鞄持ってるっつうことは早退か?もしかしてどっか具合悪いのか?大丈夫か?」 心配そうに見上げてくる顔がウザくて堪らない。 「ルセェな。・・・そうだよ、タイチョウがスグれないのでカエリマス」 抑揚のない声で嘘の返答を返して腕を振り払ったが、またもやその腕が掴まれる。益々ウザい。 「体調悪いならタクシー呼ぶか?アパートに一人で大丈夫か?」 返事をするのも億劫で、そのままさっきより強く手を払い歩き出した。 「さわだ〜。なんかあったら電話しろよ〜」 背にかかる声すら鬱陶しくて随分と早足で歩く。 ギプスの取れたばかりの足に鈍痛が走り、慎はまたひとつ、舌打ちをした。 「慎・・・」 廊下を曲がってすぐ、声を掛けられた。 今度は内山だった。 壁に寄りかかって静かな声で声を掛ける彼は、先ほどの会話を聞いていたのだろう。 ここにいるのも、食堂を不自然に出て行った自分を気にして追いかけてきたからだ。 元々心根が優しいこいつだからこそ、とは思っても、今の自分にはそれさえも”おせっかい”としか思えない。 あの女のように、おせっかい、だと。 「なあ、慎・・・」 「わり、マジ具合ワリィから」 友人にも背を向ける。 「待てって慎!・・・お前、記憶ないのは分かるけど、お前が、一番・・・・その、ヤンクミと仲良かったんだよ。あんな風に言ったら可哀想だろ」 意を決して、といった風だったが、そんな言葉は慎の心には届いてこない。 「なあ。チラッとも思い出しそうにないのか?なにかキッカケになりそうな事とかあれば俺一緒に考えるし。」 掴まれた腕も、ウザくて仕方がない。あの女と一緒だ。 「・・・・今の俺はいらねぇんだな」 「え?」 小さすぎて届かなかった呟きは、そのまま心に閉じ込める。 「んでもねぇ。・・・わり、帰るから」 早足がやはり足に負担をかけて痛かったが、慎はそれでも歩みを止めなかった。 (イラつく・・・・) 慎自身も、この気持ちがなんなのかを明確にすることはできない。 (・・・自分はこんな男だっただろうか) ほんの数ヶ月の記憶がないだけだ。 けれど、それすらも、本当のことなのかどうか、今の自分にはわからない。 それ以外の事だって、忘れている事すら忘れているのかもしれない。 自分の事なのに、わからない。 今ここにいる己が真実なのに、まるで夢の中の様にその存在はあやふやだ。 自分自身が一番不可解だ。 だが、それを深く追求すると ここにいる自分を否定してしまうと 足元が崩れて行きそうな不安が身体を支配して、動けなくなる。 だから 何も考えたくない・・・。 友人の後姿を見送った内山は、その口から小さな溜息を洩らした。 自分がおせっかいを焼いている事も、それを友人が不快に思っている事もちゃんと理解しているのだ。 だけれど、自分だけだから・・・“その事”に気がついていたのは自分だけだから・・・。 だからこそ、煙たがられても、放っておけない。 それは、この廊下の角を曲がった先にいるだろう担任の為でもあったし、今去って行った友人の為でもあった。 (記憶を無くす前の慎がこの状況を知ったら、きっと、悲しむから・・・彼女を傷つけている自分に絶対苦しむから。だから・・・・。) 内山はもう一度溜息をついてそっと振り返った。 担任は、彼が思った通り、一人佇んでいる。 常の彼女らしからぬ風情で、生徒のいない昼休みの小さな空間は、やけに寒そうに見えた。 コツン、と壁に額をぶつけるようにして凭れかかり、目をつぶるのが見える。 ポツリ、と 洩れた呟きも、耳に届いた。 「アタシも、強く頭ぶっけたら・・・記憶、なくなっかなぁ・・・・」 内山が初めて聞く、担任の弱音だった。 慎はアパートには戻らず、ゲームセンターで、たいして面白くもないゲームをやり続けていた。 ずっと同じ台に座り、無心で手を動かしている姿は、とても”遊んで”いるようには見えない。 外はいつの間にか日も暮れているが、それさえも気がつかず、黒目がちの瞳には光る画面の映像だけが映りこんでいる。 灰皿の上には、山のような吸殻。 『お前が、一番、ヤンクミと仲良かったんだよ』 『チラッとも思い出しそうにないのか?』 蘇ってくる友人の言葉を振り切るように目を瞑ると、派手な音がして画面上にゲームオーバーの文字が出た。 小さく舌打ちをして立ち上がる。 何一つ思い出せそうな事はなかった。 思い出せば何もかもが上手く行くのは自分だってわかっているのだ。 その方が、友人も、家族も、そして・・・あの女だって喜ぶのだろう。 だが、自分は何ひとつ思い出せない。 そんな俺は、誰一人必要としていない。 フラリとゲーセンの外に出る。 窓ガラスに自分の顔が映った。 「アンタ、どう思うんだろうな“オレ”の事。・・・・なぁ?沢田慎?」 平面に映りこんだ男が皮肉気に顔を歪めている。 この世界はどこなんだろう 自分はどこに迷い込んでしまったんだろう 本来の帰るべき場所はどこなんだろう でも・・・そんな所はあるのだろうか 「思い出したら・・今の俺はどこに行っちまうんだろう・・・・」 ポツリ 呟いた声は 暗い空へと吸い込まれていった。 「あれあれあれ〜?白金のサワダクンじゃ〜ん?」 俯いて歩いていた慎に、ふいに声がかかる。 夜の繁華街。沢田なんてありふれた苗字はどこにでもいるが、この時は不思議と自分が呼ばれたのだと分かった。 「・・・」 「シカトすんなよ〜」 「おひさしぶりなんだし〜ぃ」 慎の下がった視線の先に、行く手を阻むように靴が5足。 視線を上げ、グルリと威圧し返すように見まわしたが、覚えのない顔ばかり。 (前に5人。後ろに2人。) 全員が他校の制服を着ているが、その高校と関わった覚えもない。 (”今のオレ”にはないって事か・・・。) 黙ったままの慎に何を思ったのか、リーダー格らしき男が一歩近づいて、嫌な笑みを浮かべた。 「その後、ミナミ君、元気?カノジョはできたカナ?」 近すぎる距離が不快で一歩下がると、背後にいた男に腕を掴まれた。右と左から別の人間に。 「放せ」 振り解こうと身じろぎした途端、目の前の男が右拳を腹に入れてきた。 ケフッっと息を吐いた慎の腕は未だ捕えられたままで、痛みに身を折り曲げる事もできない。 「あの後カノジョと揉めちまってさ〜結局別れたんだよね俺。後でミナミ君にもお礼に行くからそう伝えてくれる?」 なんとなく相手の正体はわかったが、慎がそれに従ってやる義理などない。 殴られた所は鳩尾からずれていて、痛みは伴ったが動けなくなるほどではなかった。ダメージを受けているように見せかけて、反撃に出る事にする。 人数は7人。 額、喉、鳩尾、股間。 どの効率で何人倒して、隙をついて逃げるかを瞬時に計算した。脳裏に狙うべき急所の各部位が浮かぶ。 何故自分がそんなに急所を狙う事にこだわっているのかも、その急所を教えたのが誰なのかも、今の慎には考えもつかなかったが、ほんの僅かの間に的確な判断がなされた。 ・・・だが、予想外だった事がある。 真っ先に目の前の男の鳩尾に決めようと足を入れたのだが、決めたと思った瞬間、自分の足の方が衝撃を受けたのだ。 ―――――っ! ギプスを外したばかりの足の事を忘れていた事に舌打ちをする。 咄嗟に体の力を抜いて左右を押さえている男たちに全体重をかけ、慌てた腕から拘束だけは外し、逃げを打った。 が、そんな子供だましみたいな方法で不意をつけるのは一瞬で、まして、蹴りひとつ碌に決められない足で逃げた所で相手の狩猟本能を刺激するだけだった。 ―――――ついてねぇなぁ・・・・。 再度両脇から押さえつけられ、抵抗を封じるためかしたたか殴られ、路地裏に引き摺り込まれてゆく 慎は、どこか他人事の様にそれらを見ていた。もう逃げ出す気も、反撃する気も起きなかった。 頬を殴られ。転がった所を踏みつけられ。背を蹴られ。至る所から悪意がぶつけられる。 何故か痛みは麻痺したように感じない。 視界の隅、路地の向こう。遠巻きに目を逸らして通り過ぎて行く人々の影。 厄介事にはかかわりたくないのだろうと分かっていても そうではなく、自分がここにいるのが見えないのではないかと言う非現実的な事を考えた。 やはり、自分はこの世界には、存在していないのではないか・・・と。 だったら。 このまま消えても問題ないのかもしれない。 このまま気がついたら”以前の自分”に戻っていて。 このまま”今の自分”が消えてなくなって このまま 忘れ去られて 忘れた事すら忘れられて ・・・そうして・・・? 「何してやがるっ!」 一方的な暴力を受けながら頭では別な事を考えていた慎の思考を止めるかのように、その場に高く鋭い声が響き渡った。 「大勢で一人によってたかって、男として恥かしいと思わねぇのかっ」 男たちの動きが止まって、凛と響いた声の主の方に意識が向く 慎の意識も、吸い寄せられるようにその声へと向かった。 ぼやける視界の中に、路地裏に踏み込んできた痩身のシルエットが浮かび上がる。 通りのネオンが作り出した影によって顔は見えなかったが、慎にはすぐに誰だかわかった。 誰もが見て見ぬフリをするこんな喧嘩にまで首を突っ込んでくる人物なんて、一人しか思い浮かばない。 ----何故か? 女の細い身体で無謀な、と思いつつも不思議と安心感が湧いた。 ----何故? ”何故か”なんてわからない。 この女なら大丈夫だと思った。 根拠もなく。 「げっお前・・・」 「あの時の」 男たちがうろたえ身じろぐ気配。 「なんだ?お前ぇらアタシの事しってんのか?・・・・って!沢田!?」 とぼけた問いの後に慎に気がついたのだろう驚いたような声が上がる。 「「「「「「「・・・・・」」」」」」」 男たちがまたしてもうろたえている。 「・・・・・お前ら・・・よくもアタシの可愛い教え子に・・・・」 ふるふると震える痩身のシルエットから、立ち昇るような怒気が見えるような気がした。 「天誅!!!」 叫んだ途端にヒラリと影が舞って。慎の視界では捕えられないくらいの早さで男たちがバタバタと倒れていく。 瞬きほどの時間だった。 そうして。 ザリッ・・・と、砂利混じりの砂が靴とコンクリートの間で擦れる音が耳のすぐ横でして、目の前の光が遮られる。 覗き込むようにして窺う心配混じりの瞳が影を落とした顔の中にあった。 「大丈夫か?沢田」 まっすぐに伸ばされた手の平。 慎は素直にそれを握り返す事もできず、ゆっくりと痛む手を地面について身を起こした。 不思議な事に今更になっていたるところに痛みを感じだす。 軋む身体を自力で起こしている慎を、けれど女教師は黙って見つめていて、手を差し伸べはしなかった。 それは放っておく、というよりは本人の意思に任せる仕草に見えた。 「・・・教師が、こんなん、していいのかよ」 地面に倒れ意識を失っている男達を見回し視線を合わせないまま女に話しかける。声はすこし掠れていた。 話した事によって痛んだ口元を指で押さえる。血の味がした。 「ダメだろうけど、まあいいじゃんか」 首を軽くかしげ、いたずらが見つかったガキ大将みたいな青臭い笑みを浮かべてみせる女。 「それより、さっさとずらかろう。コイツらも気ぃ失ってるだけだけど、おまわりとか来たらさすがにまずいから」 さっさと背を向け路地を抜けてゆくその後姿を黙って見つめていた慎だったが、ひとつため息をついてその後にしたがった。 教師が生徒相手に”ずらかろう”とか”おまわり”とかって発言はどうなのか、と思ったが、言っても無駄のような気がした。 ・・・根拠もなく。 通りに出て、ネオンにさらされる。 人工の光が闇になじんだ目に眩しくて目を眇め、何度か瞬く。 唐突に戻った平凡な日常の風景。 なんだか拍子抜けしたような気分になって、アパートへの道を帰ろうとした慎だったが。すぐに腕をつかまれる。 「んなボロボロで帰ったら補導されるって。ウチ近いから寄ってけ」 本日3度目。懲りずに慎の腕を掴んだ担任教師にまたしても振り払うため口を開きかけた慎だったが。見下ろした位置にあるまっすぐ自分にむかった視線の、思いのほか強い力と真剣さに何も言えなくなった。 そういえば、こんな風に正面からきちんと視線を合わせたのは始めてだったように思う。 「・・・・」 「こっちだ」 グイグイと引っ張られる腕。それに従うように黙って歩く。 そんな自分はおかしいと思うのに、何故か腕を振り払うことも、悪態をつくこともできない。 自分の腕を掴む女の手はあんなに簡単に男達を倒したのが嘘のように小さく、華奢だ。 そうして、小刻みに・・・ 「お前、なんで震えてるんだ」 聞いた途端ギクリ、とでもいうように目の前の、それこそ細く薄い肩が跳ね上がる。 「・・・ふ、震えて、ねえよ」 こちらを向かない女の声も、やはり、震えていた。 「ここだ」 女が言ったように、徒歩15分もかからないで目的地に辿り着いた。 思えば、何故自分はいつものテリトリーから随分離れた場所になどいたのだろう。 アパートからも随分離れている。 「・・・・」 が。 そんな疑問よりも何よりも、女に促された家を前に思考が停止した。 ドドン!・・・と、擬音が聞こえそうなでかくて立派な木造の門扉。 玉砂利を敷き詰めた玄関まで続く和風の道。植木屋が手入れしていると思われる古く立派な庭木。 そして 「大江戸・・・一家・・・。」 ...to be continued......? 2006.11 改稿 |