03










 結局沢田慎の記憶は戻らず、事故から二ヵ月後、松葉杖をつきながらの登校となった。

 季節はもう冬。




「し〜んちゃん良かった〜〜〜」
 教室に一歩踏み込んだ慎に、クマが”どどどど・・・”という擬音が聞こえそうな勢いで突進してきた。もちろんそれは他のメンバーも同じで、我先に、と慎の横へと走りよる。
「教室間違えなかったか?」
 と南が笑って
「っていうか、この教室に辿り着くの松葉杖にはきつくねぇ?ギプスいつとれんの?」
 と野田が心配して
「まぁ、とにかく・・・・慎!高校生活復活おめでとう!」
 と内山が声を張り上げた。
 最後の内山の言葉はみんなの気持ちだ。

 ・・・そうして、誰が言ったのか。
「良かった、これで3Dみんなでそろって卒業できるな」

 慎が怪訝な顔をした。
 まるで、なんだソレ?というような。

 その慎の表情に、全員が一瞬気まずそうな顔をした。




「みっんな〜おっはよ〜〜〜♪・・・おお?何やってんだおめぇらっ!」
 バタリと扉を押し開けて、担任教師が教室に入ってきた。
 入り口に群がっている文字通り黒山の人だかりに一瞬飛びのいて大げさに反応する。
 そうして、その輪の中に松葉杖の慎が居ることに気がついて・・・
「おお!沢田!そっかそっか!今日からだったな!退院おめでとう!!」
 いつもの陽気な笑顔で近寄ってゆき、その肩をパシパシと叩こうとした。
 いつもの光景だ。
 ほんの、二ケ月ほど前までは・・・・けれど・・・

---パシリ。

 慎の手が、叩き落とした。
 松葉杖を突いていないほうの手で。
 久美子の手を。

「気安く触んな」

 しーーーーーん。と、静まり返る室内。
 当たり前だった事が、当たり前でなくなった朝。
 静まり返って、そうして気まずそうに顔を見合わせる生徒達を前に、久美子は殊更に満面の笑顔で笑って見せた。
「おぉ?!反抗期か沢田ぁ?・・・でも、気安く触っちゃうもんね〜」
 なんでもない事のようにそう言って、叩かれて幾分赤くなった手で、もう一度沢田慎にすばやく手を伸ばし、「退院オメデト」と繰り返して、軽く肩先に触れた。
 そのまま、慎が嫌そうな顔をするのも気に留めず、教壇にクルリときびすをかえす。
「ホラホラ、お前ら席ついて〜。出席とるよ〜〜」

 生徒達はやはりなんとも言えない表情で顔を見合わせて、自分の席へと戻った。



 慎の記憶は高校2年の終業式前くらいまであるという。
 もしかしたらそれ以前のことも忘れているのかもしれないが、現段階では、詳しくはわからないとの事だった。
 普通に生活していても過去の記憶はあいまいになってゆくものだし、その辺の判断は難しいらしいのだ。
 脳と言うのは繊細でいて大雑把にできていて、いまいちその仕組みの全容は解明されていない。
 頭部への衝撃でそれ以後動けなくなる人間がいたかと思えば性格までガラリと変わってしまう人間までいるという。

 ・・・久美子は教壇の上で点呼をとりながらそんな事をとりとめもなく考えていた。
 保険医である菊乃にも聞いたし、自分で本を調べたりもした。
 事故にあい意識不明の状態から生還。頭部への衝撃も、わずか数ヶ月の記憶の欠如、という程度で済んだ。それは、奇跡のような事なのだと。”いいほう”なのだと・・・。
 こうして、また無事に学校に来て、自分の教え子として”彼”がそこに居てくれる事に、感謝しなければいけないのだと・・・。
 ・・・・・・頭ではわかっているのだ。
 教室の一番後ろの席で、あの居眠り姿がまた見られるだけでも、すごい事なのだ・・・と。

 けれど。

 容赦なく叩かれた手がジンジンと熱を持ったように痛む。
 これは、物理的な痛みと言うよりも、むしろ・・・感情の問題だと思う。

 今の慎は、春に初めてこのクラスを受け持ったときの沢田慎に戻った状態。
 とにかく教師を毛嫌いしている。
 だったら、もう一度はじめからやり直せばいいのだ、と思いはしても。
 今までの記憶がある分だけ、自分はどこかそれを物足りなく思ってしまう。
 こうしていても、ムクリと起き上がった”慎”が、意味ありげな、自分にだけわかるような視線を送ってくるんじゃないかと・・・・ついつい、期待してしまう・・・。

 慎の意識が戻ってから退院までの2ヶ月、久美子は何度も病院に通った。
 でも、友人達に見せる笑顔も、自分を見た途端引っ込んでしまう。
 彼にしてみれば、見ず知らずの、しかも”教師”というのが、目障りで仕方ないらしく、後半はほとんど面会にも応じてもらえなかった。
 何度も何度も、今日こそは思い出すかもしれないという期待が裏切られる日々
「何か、思い出すキカッケになるかもしれないし」
 そう言って病院に通う久美子に
「別に思い出す必要ねえし」
 の一言で切り捨てた。
 彼にしてみれば、なくした記憶など・・・価値がないものなのだろう。

 自分など・・・価値のない存在なのだろう・・・。



「ヤンクミ・・・?」
 教壇でボンヤリとしてしまっていた久美子に、小さく声がかかる。
 ハッとして顔を上げると、心配そうな顔をしている生徒と目が合った。
 内山だった。
「あ・・・わ・・・わりぃわりぃ、寝てた」
 頭を掻きながら笑ってそう言ったら、立ったまま寝るなよ、と、そこここから突込みが入って、みんなが笑った。
 それにほっとして、教卓の上の名簿を手に歩き出す。
「じゃあお前ら数学の時間にまたな〜」
 ---パタリ。
 扉をしめて、それに凭れ掛かると、久美子は力が抜けたようにずるずるとそのまましゃがみこんだ。
(何をやってるのだろう自分は・・・。)
「ちゃんと笑えてたかぁ・・?」
 膝に突っ伏すようにして小さく呟くと、それから自分に気合をいれるように「エイ」と掛け声ひとつ、立ち上がる。
 何をしていいかわからない今、教師として、きちんと沢田慎に向き合おうと思った。



 ・・・とは言っても、沢田慎の心は頑なだった。
 毎日毎日めげずに話しかける久美子に、その態度はひどくすげないもの。
 彼のギプスがとれ、松葉杖なしで登校するようになっても一向に心を開いてくれるようなそぶりはなかった。
 このままでは、なにも変わらないまま終業式を迎えてしまうだろう。

「もうすぐクリスマスかぁ・・・・」
 終業式とくれば、すぐにクリスマスがくる。
 久美子はそれを思い出して一人の帰り道、空を見上げた。








「あ!アタシ!シングルベルじゃないのって初めてだ!」
 慎の部屋で、唐突に思い出したように声を張り上げた久美子に慎は何事かと雑誌から顔を上げた。
 テーブルの上には飲みかけのコーヒーの入ったマグがふたつと、スケジュール帳と、学校のプリント。
 久美子はテストの問題作成以外は恋人のアパートに仕事を持ち込んだりしていた。
「どうした」
「あ、うん。今、年間行事チェックしててさ。12月のトコ見て・・・ああ、クリスマス、今年は一人じゃないぞ!・・・と・・・へへ・・自己満足」
「すげえ先の事でなに喜んでんだ」
「いーじゃんか、喜ぶくらい個人の自由」
「一緒に過ごすんなら個人じゃねえだろ」
 慎はマグを手にとってニヤリと笑った。対カノジョ用の笑みで。
「・・・て事は、来てもいいってことか?」
 久美子もマグを両手に持ってお伺いを立てる。
「は?そういう意味じゃねえのか?シングルベルじゃないって」
「え?違うよ。クリスマスに恋人がいない状況をシングルベルっつうんだろ?」
「違うだろ?恋人と一緒に過ごせないのをシングルベルって言うんだよ」
「えーーーっ絶対違うって。間違ってるぞ沢田」
「間違ってるのはヤンクミだ」

 本当にくだらないことで張り合って、でも会話を交わすのが楽しくて、違う、そっちこそ違う、と・・・何度も何度も繰り返した。
 まだまだ、互いの事を名前で呼べないようなテレ屋な恋人同士は、それでも、数ヶ月も先のクリスマスは一緒にいようと、約束をした。

「じゃあ、クリスマスケーキを焼く!」
「なんでいきなり高度な料理から手をつけようとするんだよ。ケーキは買うもの!」
「ちぇーーー。じゃあ、じゃあ・・・」
「何も作るな」
「・・・グラタンも?」
「・・・それは作ってもいい」

 別に何をするわけでなく、いつもどおりグラタンを食べて、あとはケーキを食べるだけの、そんなクリスマスの約束だったけれど、久美子はスケジュール帳に大きく印をつけた。
 うっかり誰かに見られても大丈夫なように恋人の名前は書けないけれど、その代わりに、へたくそなケーキのイラストを描いた。
 それだけで、いつもの手帳が数段大切なものになった気がして、嬉しくて嬉しくてしかたがなかった。

 嬉しかった。
 とても。

 ・・・でも。





「結局、シングルベルじゃんか・・・なぁ?」
 誰に問うわけでもない声がもれる。この頃の久美子は自分でも自覚できるくらい独り言が多かった。
 誰にも相談できないからだ。
 誰にも、ひみつの恋だったから。

 二人の関係は、久美子と、慎しか知らない事。
 だから、慎が忘れてしまったら、この世では久美子しか、知らない。

 ポケットから、鍵を取り出して、空にかざした。
 冬の弱い日差しの中でキラリと光るそれを見て久美子はそっとため息をついた。
「コレがなきゃ、なんか、あたしの妄想?みたいじゃんかなぁ・・・?」
 すごくむなしい独り言。
 この頃はもしかして、付き合ってたことのほうが夢なんじゃないかと思う時がある。
「・・・・」
 手の中の鍵をぎゅうと握り締め、そっと胸に抱くように引き寄せた。

 それしか、今の久美子を縋れるものがないから・・・。












 お下げ髪が秋のさわやかな風にひらりと舞った。
 アパートまでの帰り道を歩いていた慎は、ふとそれに視線をとられ、道路を挟んで反対の歩道に顔を向けた。
 視線の先には、楽しそうに笑う少女とベビーカーを押す母親の姿。
 どこにでもありそうな光景だったが、遠くて言葉までは届かなくても、暖かで幸せな雰囲気がつたわってくる。
 幼い少女は長い黒髪をお下げに結わえれていた。
 そう、まるで、彼女のように・・・。

 慎は心の中で、遠い未来、自分が”彼女”と結婚した時へと思いをはせる

 彼女の家は女系だといっていた
 彼女もそうだが、その母親も、またその母親も一人娘だったと。では、二人の間に生まれるのは、女の子だろうか?
 もし、生まれたら、やはりあの少女のように、お下げに髪を結わえて?

 道路を挟んだそこに、遠い未来をみるようで・・・なんだかたまらないほどの幸福感と甘酸っぱさと・・そうして少しの恥ずかしさ。・・・・そういったものがいっしょくたになって慎の胸に迫ってくる。
 まだ、身体すら繋げていない恋人相手にそんな事を想像している自分の乙女っぷりな感覚にめまいをおぼえつつも、でも、そんな自分は嫌いじゃなくて、そんな想像も嫌いじゃないくて・・・。
 遠くない未来に、かならず訪れる幸福に幸せを感じる。
 ・・・そろそろ彼女はアパートに着いているだろうか。
 無理やり押し付けた合鍵を恥ずかしそうに、でも微笑んで受け取ってくれた人。
 優しい、ふんわりとした笑顔を浮かべていた。
 その笑顔は付き合うようになってから見せてくれるようになったもので
 そんな風に微笑まれると、ぎゅうと抱きしめて腕の中に捕らえたままずっと離したくなくなる
 ずっと触れていたくなる。

 ・・・それでも
 彼女が自分の教師でいるうちは、絶対に触れる以上の事はしないと、硬く心に誓っていた。
 どんな些細なことでも、彼女が教師という仕事から離れなければならなくなるような危機は避けたいから。
 身体をつながなければ、というのは単なる自己満足かもしれないし、意味のないことかもしれないけれど・・・それでも、気休めでも、彼女を大切に思う気持ちが、それ以上に踏み込むことを由としなかった。
 本当は、こうして恋人になることだって、彼女の立場を考えたら、ダメだとわかっていた。
 それを押してまで手に入れた。
 だからこそ。最後の一線は踏み切らない。・・・・今は。

 抱きしめたい
 それと同じだけの欲望で
 大切にしたい

 卒業したら
 自分が彼女の生徒じゃなくなったら
 世間の当たり前の恋人同士のように身体をつなげあって
 愛し合って
 そうして、いずれ暖かな家族をつくる

 二人の間に生まれる子は、大切に大切に育てよう
 可愛がって、甘すぎるくらいベタ甘に甘やかそう

 彼女に似た笑顔
 お下げに髪を結って
 それはどんなに可愛いだろう

 彼女は小さい頃に、両親をなくしている
 自分は、うまく親に甘えることもできない子供だった
 二人に子供が生まれたら
 子供らしく、わがままに育てよう
 たくさん愛していこう・・・。

 フワリと、自然に微笑を浮かべ、慎はもう一度先ほどの少女の方へ顔を向けた。

「っ!」
 ベビーカーの中の幼子に気をとられていた母親はそれには気がついていなかった。
 少女の髪が風にサラリとなびいて、何かを追うように、歩道へと飛び出す。
 都会では珍しい赤とんぼが視界の端にスローモーションで写る。
 そうして、その中に、子供の背丈ほどもあるタイヤを回転させながら走ってくるトラックと、点滅する黄色の信号。
 翻る少女のお下げ髪。

 気がついたら足が動いていた。
 遠い未来の、幸せな少女と、歩道の上の昆虫に目をとらわれている少女とが重なる。

 そうして
















 目覚めたあとの不快感。

 退院後しばらく実家から登校しろと、記憶の中の父親よりも幾分父親らしい顔をした男に厳命され、しかたなく過ごしていた。
 が、ようやっとギプスが外れると同時にアパートで暮らすことが許された。
 心配そうに見送っていた妹には悪いが、やはり一人の方が落ち着く。
 慣れ親しんだアパートの寝床。快適な日常。
 ・・・の筈が、安眠は程遠く、目覚めたとき、瞼が開かないときもある。
「またかよ・・・」
 慎はいらだたし気に頬を拳でごしごしと拭って、その・・・涙の痕をなかったことにしようと勤める。

 カチコチと枕元でレトロな秒針が刻む音がして、忌々しく思いながらそれへと視線を向けた。
 あきらかに自分の趣味ではないそれがこの部屋で存在を主張しているのを見た時の衝撃。
 記憶のない頃の自分の趣味を疑ったが・・・それでも、なんとなく使っている。
 嬉しくもないが、遅刻も減った。
 入院していた自分は出席日数を稼がなくてはならない。

 あと5分で目覚まし音が鳴り響く時刻だったが、さっさと止めるべくボタンを押して、ベットから起き上がる。
 外見も最悪だが、目覚ましのコール音も最悪なのだこの時計は。
 これを見るたび・・・記憶のない時間、自分の身にどんな恐ろしいことが起こったのかと・・・嫌な気分になる。
 それでも捨てない自分はなんなのか・・・毎日懲りずに考え込むひと時。
「ッチ・・・」
 掴めそうで掴めなかった夢の名残を追い払うように、バスルームへと向かう

 慎は

 今朝もまた

 よくわからない不快感につつまれていた。





 どんな夢をみて


 泣いているのか





 これは、記憶のない、過去の自分が泣いているのだろうか






 何に悲しんで・・・・?





 コックを強くひねり
 熱めのシャワーを勢いよく浴びた














...to be continued......? 2006.11 改稿

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