01
タイヤがアスファルトに擦りつけられる不快な音と砕けたガラス片が降り注ぐ音 頬にあたる硬い感触と、ぬめった液体の感触をどこか他人事の様に感じていた 「・・・やばい、な」 小さく今度は声に出して呟いて、その掠れて力ない音に急に初めて焦りを感じ、反射的に手を上げようとする。 ・・・けれど、どこが手なのか足なのか、どうやって動かせばいいのかもわからない。 抜けて行く四肢の感覚。 強くなる焦り。 それとは逆に弱くなって行く意識。 こんな事をしている場合ではないのに 待って いるのだ ・・・・アイツ、が・・・・。 夕暮れ時を女が一人、手にビニールの買い物袋をひとつ下げ、鼻唄まじりに歩いていた。 スーパーの袋の中身は今晩の夕飯の材料。 マカロニ。アスバラ。ベーコン。チーズ・・・などなど。 けれど、女が帰るのは、実は自分の家ではない。 恋人の家へと向かっている。 鼻唄だってでようというもの。 アパートのエントランスをくぐり、トントントン、と小ぎみ良く階段を上ると、一番手前の扉の前に立ち、女はポケットから鍵を取り出した。 大切そうに握り締めたそれは、この部屋の主から渡された合鍵。 他人の部屋を勝手に開ける感覚は未だ慣れないものだったが、それでも、嬉しさのほうが大きい。 カチャリと差し込んだ鍵を右にそっと回して、なんだか怪しいくらいニヤンと笑う。 この部屋の主の名前は沢田慎という。 白金学院という男子校に通う18歳になったばかりの少年で、自宅からあまり離れていないこのアパートに一人暮らしをしている。 そうして、今幸せそうに鍵を開けた女は、同じく白金学院という男子校で教師として働いている山口久美子。23歳。 しかも二人は担任教師と教え子、という間柄だ。 世間的にはうっかり後ろ指を刺されてしまいそうな立場の二人だったが、お付き合いを初めて数ヶ月。順調に恋愛関係を育んでいた。 「ええっと・・・フライパンは・・・と」 自分の荷物を床に起き、勝手知ったるとばかりにシンク下からフライパンとステンレス製のザルを取り出した久美子は、道端では鼻唄だったそれを、今度は音程を外しながら歌詞を口ずさみだした。 そのうっすらと頬を染めたテレ混じりの表情は、これから帰ってくる恋人をなんて出迎えようか、なんて考えてのものだった。 「お帰り・・・とかって言ったら・・・まんま・・・アレだよあぁ・・・」 なにがアレなんだか、ますます頬の赤味が増す 「うはっ・・・新婚さんみたいでこっぱずかしいっつの」 パシパシとシンクを叩いて恥ずかしさに身悶えたりして。 男ばかりの家庭環境で育った彼女は、どうもこういうのが不慣れで、ひたすら恥かしいのだ。 ・・・というか、むしろ苦手と言ってもいいくらいだ。 「でもでも、やっぱ、帰ってきたら”お帰り”だよな・・・言ったらアイツ、引くかなぁ・・・・」 水を張ったフライパンにそのまま封を開けたマカロニをザラザラと投入してゆく久美子は、沸騰してから茹でるという基本的な事さえ分かっていない。 それでも、週に1,2度ある”二人っきりの夕ご飯”は、今久美子が何よりも大切にしている時間で、繰り返し作られるグラタンにも、恋人は嫌な顔をしないで食べてくれる。 とてもとても幸せな時間。 水から茹でているマカロニ入りのフライパンがコポコポと湯を溢れさせようとしている中、不器用な手つきでアスパラにクルリと巻いたテープを剥いでいた久美子は、この部屋で唯一の時計である枕もとの目覚まし時計を見た。 それは以前遅刻しないようにと久美子が無理やりプレゼント・・・というか、この部屋に勝手に持ち込んだもので、黒が貴重の室内には不釣合いな和風のデザインだ。 時刻は6時半を少し過ぎた所。 帰れる時間をコソっと学校で話したところ、友人達と時間を潰してからその時間にあわせて帰ってくる、と言っていた。 学校を出る時にメールを入れたら、これから自分も帰るが、もしかしたら少し遅れるかもしれないといった内容の返信が帰ってきていた。 このグラタンが出来上がる頃には帰ってくるだろう。 「”お帰りなさい”の次はやっぱ・・・”ご飯できてるけど、先にご飯?それともお風呂?”・・・みたいな?みたいな?み〜た〜い〜な〜???・・・・うははははは・・・なんじゃそりゃ〜〜」 少し頭の緩い子みたいな笑い顔でノリ突っ込みまで入れてる久美子は、とにかく恋愛初心者。 こうして彼の部屋で・・・というようなシチュエーションは何度経験しようとも、やっぱりギャグでごまかさないとやっていられない。その照れくささを誤魔化すようにまな板の上でアスパラが不揃いにぶった切られている。 「”先にご飯?それともお風呂?それとも・・・・ア・タ・シ・・・・”ぎゃ〜〜〜〜〜!」 一人新婚さんゴッコにはまりまくっている。まんま、アホの子だった。 ・・・とは言っても、そんなセリフが久美子の口から発っせられる事はまだまだ当分ないだろう。 恥ずかしいのももちろんだが、実は二人は・・・ 「卒業後・・・だな」 うん。と赤い顔でひとつ頷いて、ようやっと茹ですぎのマカロニをザルに移した久美子と、彼氏である沢田慎との恋愛は、現在プラトニックに進行中だった。 時計の針は8時をまわってしまった。 すっかり冷えてしまったグラタンを前に久美子は首を傾げる。 「・・・盛り上がってんの・・・かな?」 先ほどから自分の携帯電話を片手にボタンを押そうか押すまいか悩んでいた。 友人達と盛り上がっているのであれば自分が電話をするのは非常にまずい。なんといっても、彼の友人達も久美子の教え子である。 二人の関係がバレるような事は極力しないのが二人の暗黙の了解だったし、それに・・・ 「もし、楽しんでるんだったら、悪いよなぁ・・・・」 帰ると言った慎から連絡もないままアパートで一人ぽっちというのははじめての事で、少し心細くなってくる。それに、いつも二人でご飯を食べた後に、久美子が帰る時間となってしまった。 さすがにこれ以上はここで待ってもいられない。 「何か、あったかな・・・・」 とりあえずグラタン二つにラップをかけて冷蔵庫に仕舞い、鞄を片手に立ち上がる。 連絡もできない状況というのは、なんだか少し嫌な予感がする。 ポケットから大切な鍵を取り出して、部屋の電気を消して出た。 ----カチャリ。 少し寂しい音がして鍵がかかった後、久美子は急いでアパートを出る。 結局久美子は携帯電話のボタンを押す事ができないまま、手の中でそれを何度も持ち直した。 いつでも、すぐに出られるように。 電話のないまま、大江戸一家・・・自分の家へと辿り着いてしまった久美子は、ひとつ溜息をつくと、思い切るようにカバンに携帯電話を放り込んだ。 「ただいま!」 カラ元気で出した大声に、ドタドタと出迎えに走ってくる足音と、テツとミノルの声が返ってきた。 「「お嬢。おけぇ〜りなさいやしぃ〜〜〜」」 ・・・と、その時、仕舞ったカバンの中から待ち望んでいた携帯電話の呼び出し音が響いた。 慌てて取り出しながらもう一度玄関を外に出る。 怪しい行動だとは思うが、家の皆にも二人の間はナイショにしているので仕方がない。 だが 取り出した携帯電話の液晶画面には慎の名前ではなく 勤め先の教頭からのもので・・・。 取り乱した久美子を車で送ってくれたのはテツだ。 お礼を言う時間さえも惜しいようにまだ止まっていない車のドアを開け、外へと飛び出す。 白い建物。 病院ではお静かに、という看護婦の控えめな注意も耳に入らないのか、久美子は暗い廊下をひた走っていた。 突き当たりに、赤く光る”手術中”のランプ その前のベンチに言葉もなく座っているのは見知った、生徒の父親、母親。そして・・・ 「センセイ・・・・」 華奢な肩がかすかに震えていた。 ふらふらと久美子の方へと歩いてきた少女が息を切らせて立ち尽くしているその肩に取りすがるようにして顔をうずめてくる。 「先生。お・・・にいちゃんが・・・・・」 久美子の肩に冷たい水の感触がしみこんでゆく。 「おにいちゃん・・が・・・・・ぅ・・・・・くっ・・・・・」 その肩をぎゅうと抱きしめる。 きっと、”彼”ならば、そうして妹を慰めるだろうと、思ったからだ・・・。 「ナツミちゃん・・・・・」 明け方近く、どうしても行かなければならないからと、疲労の伺える顔で、父親が病院を後にし、母親は親戚に連絡をするといって廊下に消え、廊下にはナツミと久美子の二人がポツリと居た。 赤いランプはいまだ点灯している。 (神様) 神になど祈ったこともない久美子が膝に乗せた肘の上、手を握り合わせ、額に当て・・・まるで、敬虔な信者のような姿勢で、見も知らぬ、何処に居るかもわからない神に祈っていた。 それしか、出来ることがなかった。 (神様。お願い) (お願いします) (慎を) (慎を連れて行かないで) (慎をお父さんとお母さんの所へ連れていかないで) (お願い) (お願いします・・・・・神さま・・・・) ―――――神さま――――― 「・・・今日は、焦げてはいない・・・けど」 「けど・・・?」 食い入るように見つめる久美子の前で微妙に唇を曲げている慎はスプーンを次に差し込むべきかどうか少し躊躇いながら次の言葉を続けた。 「・・・生・・・・・っぽい・・?」 4回目のグラタンチャレンジだった。 1回目の時はいまだお付き合いの”お”の字もない時の、二人がたんなる教師と生徒だった時。 2回目のチャレンジは、少し微妙な時だった。何が微妙って、慎はもう久美子の事を好きだと自覚していたし、久美子は少しばっかり、慎を意識していた。 3回目の時は、お付き合いスタート直後。 もう、付き合うと決めてからアパートの中に入るのが初めてだったから、むちゃくちゃ緊張してガッチンゴッチンに固まっていた久美子に、慎が笑いながら大げさなため息をついて見せた。 その緊張のせいか、その3回目のチャレンジは、一番最初の焦げ焦げグラタンよりも、更に炭に近い出来上がりだった。 ----初めて、”カレシ”と”二人っきり”なんである・・・"密室”(?)で! そんなガチンゴチンな久美子に慎が、言った。 「なんもしねえよ」 「な・・・なんも・・て、な、ななな、何だよっ!」 過剰反応して毛を逆立てた猫みたいな様子の久美子に、慎はおかしくて仕方ないとばかりに腹を抱えて笑ったのだ。 「ヤンクミが純情一直線なのはわかってたけど・・・ここまでとは・・・」 尚も笑っている。 「し、しかたねぇだろっ!アタシはなぁ!さ、沢田が、その、その・・・は、初めての、か、カレシ、なんだよっ!」 慎が笑いをピタリと止めて、不意に真剣な顔になった。 炭のグラタンの前でもいい男っぷりは軽減されない。久美子の欲目だろうか。 「・・・嬉しいよ」 その顔が、もう・・・今までの沢田慎の中ではありえない部類の、なんというか、いい笑顔なんだけど、さわやかなんだけど、でもちょっと男っぽくって?大人っぽくて?でもでもテレた子供っぽさも伺えちゃったりなんかしてて・・・どうしていいかわからない対する久美子は真っ赤になってしまった。 ---しっかり欲目だ。 手の中の自分のスプーンを折り曲げんばかりの勢いで握り締めてしまう。 そんな久美子に、慎はまた笑った。 「けど、さすがに、これは食えなくねぇ?」 テーブルの上の炭の塊をスプーンで指し示される 「・・・アタシも、そう、思います・・・・」 肩をすくめて小さくなった久美子に、慎は殊更残念そうに声をかける 「腹へったなぁ〜・・・・」 「うう・・・」 悔しそうに唇を噛み締めてチラリと視線を向けた先には、文句を言ってるわりに嬉しそうな顔があった。 久美子が自分を見たのを確認して、トントン、と。唇を人差し指で軽く叩いて見せる。 「・・・・?」 「腹へった・・・・変わりに・・・これでいい」 いかに久美子が鈍くって純情一直線だろうと、それがどういう意味かくらいはわかった。 顔に一気に血が上ってきて、鏡を見なくても赤くなってるだろうことがわかる。 「お・・・おま・・・さっき、な、なにも、しない・・・て・・・・」 どんどん小さくなってくる声に、慎はあいかわらず唇をトントンと叩いて見せた。 「チュウくらいはいんじゃん?」 「ちゅ・・・チュウって、そんな・・・沢田、そんな事言うキャラじゃねえだろっ!」 たぶん耳まで真っ赤だろうと、久美子は両の手の平で自分のそれに触れた。 やはりじんわりと熱を含んでいる。 「ヤンクミが知ってる俺のキャラって、生徒沢田慎だろ?・・・・これは彼氏沢田慎」 「うが〜〜・・・アイツらにも見せてやりてぇ〜〜〜・・・こんなクールじゃない沢田慎っ」 相変わらずの表情で、チョイチョイと手招きされて、久美子は仕方なく、といった態で床の上を移動する。 手を伸ばせばすぐに触れられる隣まで移動して、けれどそれ以上は近寄れないでいる久美子に、ゆっくりと、さっきまで笑っていた慎がまじめな表情で近寄ってきた。 ギュウと、瞳を閉じた久美子の頬に、柔らかくなでる指の感触と、後頭部を支えるように添えられた手のひらの感触。 ますますギュウと閉じられた瞼の上にチュ、と軽く触れるだけの柔らかな感触がして、思わず薄く瞳を開けてしまった。 すると、整った顔が、瞳を閉じてゆっくりと下がってくるのが目に写った。 その顔が、いつもより少し赤い気がして (ああ、沢田も、テレてるんだな・・・) そう思ったらすごく嬉しくなって、何故か安心して。もう一度ゆっくり瞳を閉じる。 今度は唇に、キスをされた。 すごく、幸せだった。 ――――――――――赤いランプは未だ消えない。 ...to be continued......? 2006.11 改稿 |