15
「お前が好きだからだ」 柔らかな微笑と一緒に当たり前に呟かれた言葉に、心臓を射抜かれたみたいにその場を動けなくなった。 ほんの寸の間、もしくは長い時間、自分を見つめている担任と視線を合わせたまま突っ立っていた。 風が頬を優しくなでる感触にハッとする。 何を考えているのか。 『好き』なんて、いくらでも解釈を広げられる言葉に何を動揺しているのか・・・。 頭の中でなんとも形容しがたい感情が混在して駆け巡る。 いつもよりも早い動悸と上がった体温を誤魔化すように何気ない風で担任に背中を向けた。 髪がふわりと風にのったように弾んで耳にさらさらと音を届けた。 後ろで手を組んで空を見上げる。 「アタシを好きになっても良い事なんてないよ?」 含み笑うような声を出す。 さっき二人の間に流れた楽しんでいるような空気が戻ってきてくれるといい。 動揺していることが伝わらなければいい。 「それは俺が決めることだ」 背中に返された言葉は、先ほどの言葉と同じように誠実な響きがあった。 急に泣きたくなるのは何故だろう。 「・・・本当に、碌なことないんだから。・・・他の先生も、アタシにはかかわるなって言ってなかった?」 「あいにく他の教師と馴れ合う趣味はない」 「教師嫌いなんだもんね?」 口から勝手に出てゆく軽口。 でもその中に潜んでいる心の中の暗部に触れるような気持ちを、悟って欲しいような、読み取って欲しくないような・・・自分でも説明できない二つの気持ち。 「俺は、お前を教師にする。大学も受かるようにしてやる。必ずだ。・・・安心して教えられてろ」 「・・・」 ついには口から何も出てこなくなって、代わりのように息が漏れそうになるのを必死に堪えた。 なにを・・・こんな不良教師によろめかされているのか。 これが素なのだとしたらとんだ『たらし』だ。 「・・・せんせいの・・・」 ようやっと紡がれた言葉は妙に喉に絡んで、ひび割れたような音になった。 「センセイの、好き、がどのくらいの意味があるのかわかんないけど・・・アタシも、センセイのこと・・・教師として、少しくらい、好きになってやってもいい」 随分上から目線の言葉だけれど、音に力がなくて、こんな所は自分はやっぱりまだまだだな、と思う。 今までいくらでも何度でも色んな大人に裏切られてきたのに・・・まだ、信用しようとしている自分がいる。 その気持ちを止められない。 この高校しか、自分を入れてくれる高校もなかったのに・・・その入れてくれた高校でも、遠巻きに見られているのに・・・。 それでも、この教師に出会った。 実家のことも本当に特別なことでもないように流された。あまつさえ祖父と普通に酒を酌み交わしていた。その世界のことを知らないから、と括ってしまうにしても、そうは言っても、今まで誰もしなかった事。 普段仲良くしている友人5人だって、実家に招くと少し怯むのに・・・この教師はそれさえなかった。 育ちの良さそうな所作で微笑みで自分の『家族』を受け入れてくれた。 白金学院に入学できたのは、以前の校長のおかげだった。 英語の静香ちゃんも、自分を嫌ってはいない。 それでも、こんな風に自然体で接してくれた教師が・・・大人が、嬉しくないわけがない。 胸が震えそうになる。 三年生の女子に囲まれた自分を背に庇った姿。 初めてその背中を『男』として、見た。 細く見えるのに、広く感じた背中。 庇われて嬉しいと思った自分。 何人もの少女を泣かせた。しかもあっさりと、そして完璧に拒絶した、ずるい男。 自分は彼女たちとは違って『女』としてみられていないけれど、いつ、気まぐれに『切られる』かなんて、このずるい男にしかわからないことだ。 それでも、自分を『好きだ』と言ってくれたこの教師に・・・・ 「・・・教師・・・ね。今はそれでいいさ」 久美子の纏まらない思考を止める優しい声。 意味不明の言葉。 どんな顔をして言っているのか、懲りもなく見たくなってゆっくりと振り返る。 自分に向けられているのは、慈しむような、瞳の力だけで身体を温めてくれるような、そんな眼差しだった。 以前の彼は、口元だけで笑って、瞳はまるで何の感情も見せなかったのに・・・今はそれさえ遠く昔のことだ。 あの日、雨濡れていた子猫に向けたものに似ているようで、どこか違う。 砂糖を含んだような、甘さのある、表情。 「せんせい・・・?」 ふいに、唇が不自然に持ち上がって、いつも見せるからかうような笑みを浮かべた。 「好きじゃなくて、惚れてる、とか言ってほしいか?」 「・・・・ざけんな」 今のは完全におふざけだとわかったから、ジト目で睨んで切って捨てた。 担任はそれに声を出して楽しそうに笑っている。 ここ最近見せてくれるようになったくったくのない笑み。 教師としてはいささか問題のある男だけれど、それでも、人として、ほんの少し、好きになってもいいかな、と、思った。 そう、教師、として。 それ以外は・・・・。 はっきりと自覚した思い。 だからこそ打ち明けられた。 『しかえし』で教師になったという事実を。 本当はそれさえ自分で認められていなかった。 惰性で勉強して、流されるように、あの時の『彼女』の気持ちを知りたいと、教師になった。 けれど、『しかえし』そんな未練たらしい理由ではないと思いたかった。 でも、実際にはクマから『彼女』の幸せそうな現在を知っていまだ胸にくすぶっていた感情を思い知らされた。 それでも、あの、自分の心を捉えていた女教師のその当時の・・・自分を受け入れずに結婚していった事の理由を、自分の・・・俺の、ためだったのではないか、そんな風に思えるようになったのは、全部山口久美子のおかげだ。 あの時、きっと、背中を押してもらったのだ。 広い世界へ。 そうして、山口久美子に出会えた。 どこからどう見ても子供の・・・化粧っけもない、ガキなのに・・・自分の心を捉えた少女。 さんざん遊んできたけれど、こんな風に心の中に入ってきた人物は初めてだった。 高校生のときの盲目的な恋情よりも、もしかしたら強いかもしれない。 教師を殴って白金学院に転入してきた自分に優しくしてくれた女教師。 自分は簡単にそれに夢中になった。 退学させられた黒崎という友人のことで涙を流したその姿も、自分を夢中にさせるのに一役買っていたかもしれない。 そう考えるのは卑屈かもしれないが、あのときの自分は彼女に救いを求めていたのだろう。 それはどれだけ彼女に重く、負担になっていただろうか。 しかも卒業と同時に結婚したいと、自分の受け持ちの『子供』が言ったのだ。 逃げ出したくなったのかもしれない。 ・・・追い詰めたのは自分だ・・・。 目の前で黒目がちの瞳で自分をじっと見てくる少女を見る。 よく見れば思いのほか長い睫。大きな、けれど切れ長の瞳。 もしかしなくても、整っている容姿。 何も見ていなかったことに、改めて気が付く。 『ガキに興味はない』そう言って視界にいれていなかった事。 それでも、気が付いてしまった。 姿かたちではない。 子供とか大人とか、教師とか生徒とか、関係なく。 自分はこの少女が好きなのだ。 決して受け入れられないとわかっているけれども。 そして、この少女に手を出す自分を、自分は絶対に許せないだろうけれど。 それくらい、神聖な存在になっていた。 自分の中で・・・この、山口久美子という少女が・・・。 ...to be continued......? |