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「そうだなぁ・・・・」 男はまるで苦笑いでもするように唇をゆがめて下を向いた。 先ほどまで頬に当てていたハンカチが温くなったのか、それを外して手の中で弄んでいる。 久美子が手を差し出してまたハンカチを濡らそうとしたのを軽く頭を振って断わり、その後ゆっくりと顔を上げて真っ直ぐに久美子の目を見つめた。 その時、まるで、初めてその男を見たような気がして、久美子は内心、少し怯んだ。 底が見えないような、漆黒の瞳。 引き込まれたらそのままどこまでも沈んでいきそうなその色に、本能的な恐怖を感じる。 そういえば、この男はいつだって不謹慎で怠惰だったのに、この瞳だけはやけに澄んで綺麗だと、以前に思ったことがあったのを思い出す。 「しかえし・・・かもしれない」 黙って瞳を見つめ返していた久美子に、ポツリ、と、落ちるように、先ほどの質問の返事が返された。 一瞬聞き逃しそうになったそれを慌てて拾って、久美子も呟く。 「しかえし?」 黒い瞳は変わらないまま、口元だけ笑った顔の担任は、どこか泣きたいのをこらえているような、手を差し伸べたくなるような危うさがあった。 これがこの男が今までモテてきた由縁なのかもしれないが、久美子から見ればただ痛々しい子供、という印象を受けただけだった。 「誰に、しかえし、してんの?」 ここまで聞いていいのか、また、この質問に担任は答えを返すのか考えながら、一言ごと区切るようにもう一度聞いた。 まるで小さな子供を相手にしているようだ。 普段の、こなれた・・・大人の男然としている沢田慎と、今の彼は明らかに違う。 まるで、誰かにずっと聞いてほしかった事をようやっと口に出しているような・・・懺悔したがっているような・・・。 「教師に、だ。オレは教師が嫌いで、認められなくて、自棄になって教師になった」 「教師が嫌いなのに教師になったの?」 久美子が首をすくめるような仕草をすると、ようやっと担任の眼差しが柔らかくなった。その事に、久美子は知らぬ間に詰めていた息を吐き出す。 人の心の中にズカズカと土足で入り込んで行くようなこんな詮索を、何故自分がしているのか、という事にも気がついて内心驚いていた。 そして、それだけ自分がこの教師に興味を持っていたことにも・・・。 「・・・可笑しいだろ。」 「可笑しくはないけど・・・それで、しかえしして、先生には何かメリットがあったの?」 「ねぇな」 「即答かよっ!?」 互いに目を大きく見開いて、次の瞬間ついに噴出してしまった。 先ほどまでの息つめるような緊張感はどこへいったのか。 担任も笑いながらそれでも久美子の目を見つめ、久美子もそんな担任の目を見つめていた。 ひととおり笑い終わると、また担任は視線をすい、と落として久美子のハンカチを見た。 「ただ・・・いつ、どこで辞めていいのかわかんなくなってるウチに、教師になっちまってて・・・あとは惰性だな。しかえし、とかも、もう関係なかったように思う」 「それで女の子をとっかえひっかえ?」 少し非難するような口調になったのは仕方がないと思う。 久美子が唯一おもいっきり勉強できる神聖な図書館を色々とイケナイ事に使っていたのは事実だし、先ほどの少女達の態度から考えても褒められたことじゃない。 「そうだな。なんていうか、理由は後付けになっちまうけど、教師にモラルもなにも感じてなかったから・・・むしろ、進んでそれを壊していた気がする。・・・世の中にゃ、オレみたいに禄でもない教師も確かにいるけど、お前みたいに志をもって教師になろうって奴もいるのにな。失礼な話だよな」 普段はあまり話さない担任が一息に言い切った長い言葉には苦いものが混じっているような気がした。 教師が嫌い。 その教師になる。 彼はいったい、何故教師を嫌いになったのだろう。 そして、その教師に、どんな想いをさせられたのだろう・・・。 久美子は聞きたくなる自分の気持ちをグッと堪えた。 目の前の男が拒絶しているからではない。むしろ全てを晒してしまおうとする気配すら感じる。 けれど、聞いてしまったら、この男を「可哀想だ」と思ってしまうかもしれない。そんな、上から見たような気持ちなど、持ちたくない。絶対に。 今も変わらずこの男の下半身には信頼なんか持っていないし、自分が目指す教師の姿にも程遠いものがあるが、それでも、自分はこの教師が嫌いではないのだ、と、今改めて気がついた。 はじめはあんなにも苦手だったのに・・・。 「で?これからどーすんの?女の子全員切っちゃって。真面目に教師でもやる?」 土足で踏み込んだ担任の過去に蓋をするように、久美子はことさら明るい口調で聞いて、その場に立ち上がった。 ずっとしゃがみこんでいたので、軽く眩暈がした。 見上げると空は遠く澄んでいる。 風はなく、過ごしやすい穏やかな日だ。 そんな事も忘れていた。担任の空気に飲まれていたのかもしれない。 「そーだな・・・やめっかな」 「え?!」 慌てて見下ろすと、同じように空を見上げていた担任と目があった。 「あ。辞めてほしくない?」 口元が笑みに持ち上がり、からかう様に口調が戻ってきている。なんとなく、先ほどまでこの男を「いたいけな子供」のように思ってしまった自分に腹がたった。 しかも、簡単に自分の職業を放棄するなど、大人として恥ずべきことだと、子供の頃から祖父の話を聞いていた久美子は思った。 任侠の世界なんて、一度杯を受けたら、足抜けするのにどれだけ大変だと思っているのだ。 こいつのこういう所は相変わらず嫌いだな、そう思って睨んでいると、その眼差しに、逆に担任の顔が笑った。 まるで子供みたいな、くったくのない笑顔だった。 久美子の心臓が、小さく、とくん、と、音を立てた。 今日はこの男の色んな顔を見た。 それでも。この顔は反則じゃないか、と、どこにぶつけていいか分からないような小さな苛立ちが芽生えた。 「勝手に辞めちまえっ!」 クルリと背を向けて歩き出す。 後ろなど振り向かずに。 けれど、数歩歩いたところで腕を掴まれた。 「離せよ」 邪険に振り払っても、それは外れなかった。 「・・・辞めないよ。お前を教師にするまでは、辞めない」 本当に、ずるい男だと思う。 こんな風に真剣な声で、いったいどんな顔で言ったのか、見たくなってしまうではないか。 けれど、久美子は振り向かなかった。 「アタシを口説いたって無駄だからね」 そんな、大人ぶった言葉が口から出てきた。 本当はこの担任が自分みたいな子供を相手にするなんて思っていない。 たんなる強がりだった。 「そうだろうな。」 対する担任の声は穏やかなもので、子供を往なした様な態度にまたカチンときてしまった。 「アタシは!もっとちゃんとした!その・・・心の根の真っ直ぐな男しか相手にしないんだから!」 聞かれてもいない事をなんで今口にしているのかなんて自分でもわからなかった。それでも、生意気な口は止まらない。 腕は掴まれたまま。 勢いをつけて、今担任がどんな顔をしているか見てやろう、と思って振り返った。 ――――また、心臓がひとつ大きな音を立てた。 「お前が大学に合格して、卒業していくのを、きちんと見送るよ」 真っ直ぐで綺麗な眼差しだった。 さっき見た何処までも落ちてゆきそうな暗い瞳ではない。 聖職者のような、穏やかで澄んだ眼差し。それを自分に向けられている事実に久美子は戸惑った。 「センセイ・・・?」 「なんだ」 「・・・なんで?」 見詰め合ったまま動けずにそう聞いた久美子に沢田慎は微笑んだ。 「お前が好きだからだ」 ...to be continued......? |