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―――俺が、お前を大学に受からせてやる。 ―――お前みたいな奴に、教師になって欲しいからだ。 自分でもなんてらしくない事を言ったのだろうと、後になって思った。 慎は知らず耳が熱くなるのを感る。 きっと今見たら傍目にもわかるほど赤くなっているだろう。 慎は目の前で真剣に問題を解いている少女が顔を上げても気がつかれないように、そっと両手で耳を覆って、両肘を机についた。 ―――俺が、お前を大学に受からせてやる。 ―――お前みたいな奴に、教師になって欲しいからだ。 嬉しかった。 そんな事を言ってくれる人なんて今までいなかったから。 久美子はその時の事を思い返す。 よくわからない人だけれど、時々子供のような反応をする人だ。 隙のない大人のように見えて、どこかほっとけないような気持ちにさせる所がある。 捨てられた子猫に話しかける人だった。 生徒だろうとなんだろうと誘われればホイホイと手を出すような男だ。 生徒がタバコを目の前で吸ってたって気にしないで火をわけてもらうような男だ。 酔っ払ってチンピラに絡まれてた事もあった。 アタシを女扱いしない失礼な男だ。 アタシの実家の事を気にしない人だ。 なんでだか、気になる人だ。 自分を、教師にしてくれる人だ。 久美子はトンチンカンの三匹のリードを引きながら朝の散歩道を歩いていた。 いつもの公園。 担任と、担任の妹さんに会った公園。 あれ以来担任本人には会わないけれど、妹さんにはよく会う。 会うと気さくに声をかけてくれる。 立ち話をしたり、たまにベンチで一緒に話し込んだりする。 今まであまり女の人の友達のいなかった久美子は、話しをする時ちょっとドギマギする。 伏せた瞳の陰影が、少し担任に似ていると思った。 すごく綺麗な人。 きっとお父さんもカッコよくってお母さんも綺麗なんだろうな、とナツミさんを見ていると思う。 それから、すごく育ちがいいんだろうな、とも思う。 先生は、きっといいとこの坊ちゃんなんだろうな・・・。 この所、こんな風に、先生の事を考える事が多くなった。 掴み所のない奴だから気になるのだろうか。 そういえば、まだ、最初の質問に答えてもらっていない、と気がつく。 ―――先生は、なんで、教師になったんだろう・・・。 「久美子ちゃん」 名を呼ばれてふとわれに返った。 公園のベンチ。 少しの休憩に、二人は足元で犬を遊ばせながら話し込んでいた。 「そういえば久美子ちゃん、アタシの後輩になるんだって?」 「げっ!先生そんな事言ったの?」 久美子の顔が赤くなる。 「え〜どうして?入学してくるの楽しみにしてるのに」 「や、あの、まだ入学できると決まったわけでは全然なくってですね・・・」 しどろもどろな久美子にナツミは微笑む。 「楽しみにしてるから頑張ってね」 「・・・・ハイ」 力ない久美子の返事に今度こそナツミは声をだして笑った。 「でも。お兄ちゃんから生徒さんの話が聞けるの、嬉しいな〜」 「え?」 ナツミの遠くを見るような横顔を久美子は見つめた。 犬達が二人の足元でじゃれついている。 「アタシ、お兄ちゃんが教師になるなんて思わなかったから」 「え?そうなんですか?」 「うん。確か、高校生の時、卒業したらすぐ就職するって言ってお父さんと喧嘩してたことがあるもの」 「そうなんですか?」 「うん・・・・受験戦争が始まってしばらくしてから突然大学受験することにして・・・あの時はなんか無我夢中で勉強してるみたいで、アタシ、結構お兄ちゃん恐かったな」 「沢田先生が無我夢中・・・なんか、想像つかないですね」 「あはっ。やっぱり久美子ちゃんもそう思う?」 ナツミは久美子を見て悪戯っぽく笑った。 「あ、お兄ちゃんにはアタシが言ったって内緒ね。・・・それから、生徒さんにも絶対内緒ね。・・・お兄ちゃん、教師なんかだ〜い嫌いって人だったのよ。高校で先生を殴って、で、白金学院に転入したの。」 「先生が先生殴ったのっ!?」 「そうそう。それでお父さんとも揉めちゃって、一時期沢田家非常事態だったんだから」 なつかしいわ〜とまたナツミさんは笑っている。 久美子はそんなナツミを見ながら、また自分の担任の事がわからなくなった。 一見、人生なんて苦労した事ございません、というスカした顔をしているのに、聞くと、結構波乱万丈。 ・・・・教師なんか大嫌いだったのに、なんで教師になったんだろう。 そして、なんで どんな気持ちで 『お前みたいな奴に、教師になって欲しいからだ。』 あんな事を言ったのだろう。 「だからなんとなく、お兄ちゃんがどんな教師してるのか、ちょっと心配でね。アタシが久美子ちゃんの事を知ってるってのもあるんだろうけど、電話で大学受験のこと聞いて嬉しかったんだ」 考え込んだ久美子を引き戻すようなナツミの声。 いったいあの担任は、どんな顔をして、自分の話を電話でナツミさんにしたんだろう。 「ちゃんと、先生してるんだって、今は安心」 そう言って頬笑む彼女にまさか、最近はないけれど、女生徒に手を出しまくりでした、なんていえる筈もなく 「・・・・いい、先生、だと思います・・・」 そんな事を久美子は口にしていた。 (いい先生か。・・・いい先生って、なんだろう・・・) 少なくとも、自分に勉強を教えてくれる今の担任は、自分にとっては、ありがたい、いい先生だ。 けれど、自分が教師として目指したいか、というと、決してあんな教師にはなりたくない。 どこか退廃的で、身を持ち崩したような、そんな最初に感じた印象はだいぶ薄くなっているけれど それでも あの男は、どこか、影がつきまとっているように、思わず久美子が振り返ってしまうくらい、どこか・・・なんて言えばしっくりくるのだろう・・・・そう、どこか・・・ほっとけない・・・カンジ? ナツミさんが足元でじゃれるサーカスの頭を撫でている。 一番初めに会った日の事を思い出す。 差した傘の下、持ち上げた子猫に話しかけていた。 まるで、彼こそが・・・・・・・捨てられた猫みたいだった・・・・・・。 何度か繰り返した二人っきりの勉強会。 その日、勉強がひと段落つくと、窓の外は随分と暗くなっていた。 頭に色々と詰め込んだ久美子は力なく立ち上がった。 「う〜〜〜。頭がグラグラする。」 「アホか、あんなんでへばってたら受験に間に合わねえよ」 同じように立ち上がった担任が丸めたノートでポコンと頭を叩いてきた。 とは言っても、今までは自己流で勉強してきた久美子である、教師に適切に指導される、なんともハイペースな勉強方法は、たしかにはかどる事ははかどるのだが、頭がパンクしそうにもなる。 しかもこの教師。数学の教師であるにもかかわらず、英語だろうが理科だろうが、なんでもござれのオールマイティー。これでもかとばかりに久美子の脳みそに色んな教科を詰め込んでくるのだ。 「え〜〜〜。あれで間に合わないの〜〜〜?」 「当たり前だ。ナツミだって受験の時は塾に通ってたんだぞ」 「う・・・・・塾かぁ」 「なんだよ。っつうか、お前家では勉強してんのか?まさかここでの勉強だけってことはないよな?」 そういえば、というように聞いてきた担任に久美子は疲れた目を向けた。 「あ〜〜〜。まあ、寝る前に、少し、できるかな、ってカンジ」 その応えに慎は小さくため息をついた。 久美子もおもわずそれにため息をつき返す。 「・・・家に帰ると、ウチの連中の手前、勉強できないんだ。・・・おじいさんは教師になるの、反対してないけど、テツとか若松とか、やっぱ家ついでもらいたいみたいで、気がひけるっつうか・・・。」 その応えに、はじめて慎は何故山口久美子が一人図書室に残って勉強しているかについて思い至った。 「・・・・って、今はいいけど、来年もそれだと、厳しいぞお前」 来年。 高校三年生。 久美子はその時になって初めて (あ、担任が変わるって事もあるんだ・・・) と思った。 そして慎も (こいつ、三年でも俺のクラスかね) と思った。 もし、そうじゃなくなった場合、それでもこの勉強会は今までどおり、続けられるのだろうか・・・? 二人の視線がふと重なる。 「・・・帰るか」 「・・・そうだね」 なんだか、二人の胸の内に、もやもやとしたものが湧き上がった。 ...to be continued......? |