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「先生今日も暇なの?」 「ああ、ヒマだヒマ」 放課後の図書室。 相変らず使用者の少ないそこに、山口久美子と、今やいる事が当たり前になりつつある沢田慎がいた。 目的はもちろん勉強。 以前 「ま、たま〜に暇なときでも勉強見てやるよ」 と、思いつきのように沢田慎が言った時 「ほんと!?」 あからさまに久美子は喜んだ顔を見せたが 「暇なときにな」 なんて、サラリと釘を刺したのは当の本人だ。 久美子だってこの不良教師が自分の利益にもならない(本来ならば担任なのだから進学率は利益になるだろうがこの教師は関係ないだろう)生徒の勉強を授業以外で教えるだなんて、本当に滅多にはないだろうと思っていたのだ。 ところが、大江戸一家を訪れた翌日から、沢田慎はフラリと図書室にやってきて久美子の前の席に座ると、そうするのが自然な事のように久美子に勉強を教えてくれるのだ。 毎日。 あまりに毎日なものだから、思わず久美子は冒頭の言葉を言った。 帰ってきたのはもう、本当にどうでもいいような「ヒマヒマ。」という言葉。 久美子の眉間に怪しげに皺が寄る。 (怪しい・・・・) 久美子はやっぱり未だにこの教師の事が良くわからない。 慎は目の前でなにやら難しそうな顔をして眉間に皺を寄せた教え子に、小さく心の中で苦笑した。 今日の昼休み。いつものようにタバコを吸おうと行った屋上で、矢吹と小田切に両脇を挟まれた。 なにやら剣呑な雰囲気の二人に、慎は「やっぱり来たか」と思って内心で笑ったが、あえて顔には出さず、タバコを咥えた。 カチカチと安い100円ライターでタバコに火を着けて思いっきり息を吸い込むと、矢吹が口を開いた。 「お前、ヤンクミにまで手ぇ出すんじゃねえぞっ」 思わず吸い込んだ息で咳き込みそうになって慎はタバコを口から離す。 口元が笑みの形になり、吐き出した煙が不思議な形で空に上ってゆく。 小田切はそんな慎を黙って睨んでいる。 慎は笑みを滲ませた声で応えた。 「あたりめーだ。俺はガキは相手にしねーんだよ」 「じゃあなんで」 なんで、放課後ヤンクミに勉強を教えているんだ、と小田切が言外に聞いてくる。 それは、慎にとっても”なんでだろーな”と首を傾げたくなる所ではあるのだが 「たぶん、俺は・・・」 思わず零れた、という風に慎の口からそんな言葉が漏れた。 「たぶんなんだよ」 矢吹が真剣に聞いてくる。 まったく、そんな心配は必要がないのに、ご苦労な事だ。 「いや、なんでもねーよ。そんなに気になるんならお前らも来ればいいだろ」 「は?」 「図書室に?」 「勉強教えてやる」 「「げーーーー」」 二人そろって嫌そうな顔をした。 そして、目の前には、男二人にそんな心配をされるようには思えない、お下げ髪の少女が座っている。 目の前には問題集。 先ほど慎が教えた公式で問題を解いている。 (そう、たぶん、俺は。) 慎は頬杖をつきながら目の前の少女の手が文字を書くのを見ている。 ―――自分の手で、この少女を教師にしてやりたいんだ・・・。 ここ最近、久美子の勉強をみながら、おぼろげだった自分の中のモヤモヤとしたものが形になりつつあった。 もし、自分が、あの時。 幼かった高校生の時。 ただ好きな女のために就職を選んで大学に進学しなかったら、今、こうしてこの少女に勉強を教える事もなかったという事実。 この少女が、それで、大学受験に失敗しても、自分はまったく知らない世界にいた。 もし・・・など、ないのかもしれない。 自分は実際好きだった女に振られ、大学を受験し、こうして教師になったのだから。 それでも、もし、と思うのだ。 今なら、なんとなく、あの日自分に背を向けた女の気持ちがわかるような気がするのだ。 自分を、高卒で就職させたくなかったのではないか? 数ある未来の中で、自分を選ぶ選択肢以外のものを見せたかったのではないか? 若い芽を自分の手で摘みたくなかったのではないか? 自分の未来の可能性を広げてくれたのではないか? 就職して、彼女と一緒になることしか考えていなかった自分に前を向かせたかったのではないか? ・・・そう考えるのは自惚れだろうか・・・。 けれど、今、こうして自分が教師になって、未来に向かって走ろうとしている少女に手を貸そうとしている。 そうしてみて、初めて、見えてくるものがあった。 そんな事が考えられるようになったのだ。 漠然とではあるが。 「なあ先生、最近女の子達ほっといてるだろ」 自分の考えにのめりこんでいた慎は、初めて視線の先の少女の手が止まっていることに気がつく。 「アタシと付き合ってんのか?って三年生の女の人に今日聞かれたんだけど」 指先から視線を上げると、難解な問題を解いているような顔をした少女と目があった。 「っは!ありえねえな」 慎は笑う。 けれど久美子は未だ難しそうな顔をしている。 「まあ、確かにそれはありえないけどさ。けど、なんで来るもの拒まずの先生が来るもの拒んでまでアタシの勉強みてくれてんのかは、確かにわかんない。」 真っ直ぐな眼差しが慎のそれを見つめる。 「なんであたしの勉強、見てくれんの?」 「・・・・俺は」 慎の眼差しが自然と真摯なものに変わった事に久美子は気がついた。 「俺が、お前を大学に受からせてやる」 「・・・なんで?」 沢田慎は笑った。 屈託のない、子供のような笑み。 久美子の胸がドクンと大きく心臓の音を響かせる。 「俺がそうしたいからだ」 「・・・・」 「お前みたいな奴に、教師になって欲しいからだ」 それは嘘偽りのない、この男の本心なのだと久美子は思った。 そして、言葉にしてみて初めて、慎はこれが自分の本心なのだと確信した。 俺みたいな不純な動機ではなく、コイツみたいな奴が教師になったら、きっと、過去の自分も、過去に同じクラスだった同級生たちも、そして、中退していった友人も、みんな、救われるような気がした。 山口久美子が大学に受かって、そうして、教師になったら。 その時はじめて、自分は本当の意味で去っていった女の事を許せるだろう・・・。 初めて、自分が教師になった理由があるのだろう。 以前、俺の手で教師にしてやりたい。そう思った自分に、それで、少しだけでも救われようとしている自分に反吐が出ると思った。 けれど、自分は・・・・やはり、救われたいのだ。 どんなに格好つけたって、いつまでも過去を引きずっている自分から・・・解き放たれたいのだ。 黙って自分を見つめている少女に慎は意識しないままに自然な笑みを見せていた。 「お前大学はどこ狙ってんだ?」 「えっと・・・・」 久美子は少し恥ずかしそうにしながら第一希望の大学名を告げた。 「ああ、ナツミの行ってるトコだな」 「そうなの!?」 机に手をついて椅子から腰を上げるようにして聞いてくる生徒にまた慎は笑った。 「ああ、お前がもし入学できたら、アイツ院に行くって言ってたからキャンパスで会う事もあるかもな」 後輩だ、と告げた慎に久美子は頬を上気させて満面の笑みを浮かべた。 「アタシ頑張るっ!」 両の手を握り締めてガッツポーズをとる少女に慎はまた笑う。 「俄然楽しみになってきたっ」 きらきらと瞳を輝かせる少女が、慎の目には眩しい。 けれど。 少しだけ顔に意地悪な笑みを乗せて、忠告することだけは忘れない。 「ま、夢見んのは自由だけど。今のお前のレベルじゃ到底ムリだ。このままだとただの妄想で終わるぞ」 「う」 「ほれ、さくさく勉強しろ」 「・・はひ」 その後、おしゃべりしていた時間の分を取り戻すかのようにスパルタの入った慎にビシバシしごかれながら、それでも久美子は心の中が暖かくなっていた。 ―――俺が、お前を大学に受からせてやる。 ―――お前みたいな奴に、教師になって欲しいからだ。 嬉しかった。 ...to be continued......? |