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朝、軽い頭痛で目が覚めた。
子猫が自分を見下ろすようにしている、黒猫は慎の上に巨体を乗せていた。
「重いっつの」
猫を脇へ寄せながら身を起こすと、餌をやる為にベットからおりる。
頭痛は昨日のビール瓶というよりは、飲みすぎせいだろうとあたりをつけて、そっと殴られた部分に触れてみる。
少しこぶになっていたが、問題はなさそうだった。
「にゃーん」
子猫が足元に擦り寄ってくる。
「あー待ってろ、今やる」
そう言って、ふとその猫に昨夜名前をつけた少女の事を思い出した。
まるで現実感がないが、確かに昨夜、山口久美子はこの部屋に来たのだ。
彼女が座っていた場所を見る。
そこに座っていた小柄な身体を思い出す。
不思議な気がした。
「にゃんっ」
子猫が鳴く
「・・・クミ」
「にゃ〜ん」
確かに子猫は返事を返す。

「・・・なんだったんだ・・・」

ぽつりと呟いて、慎は冷蔵庫を開けた。





シャワーを浴びようと服を脱いだ慎は、身体のいたる所が赤黒く変色しているのに眉をしかめた。
確かに痛みはあったが、ここまで酷い事になっているとは思わなかったのである。
一度気がついてしまえば痛みが増したような気がする。
「湿布でも買ってくるか」
シャワーを浴びながら、またひとりごちる。



シャワーから上がって髪をこぶに触れないように拭いていた慎はどこからともなく聞こえる変なメロディーに嫌そうに顔をしかめた。
隣人の騒音かもしれないが、それにしても趣味が悪い。
演歌だ。たぶん。
早く鳴り止めばいいのに、そう思いつつベットに腰掛けた慎は音が急に近くなったようで驚く。
隣人、というよりは、むしろ、自分の背後から鳴っているような気がするのだ。
慌てて振り返る。
昨夜猫にかまう為に山口久美子が乗っていたあたりに、何か、明滅するランプのようなものが見えた。
嫌な予感がしながらそれに手を伸ばすと、やはり思ったとおりそこに見覚えのない携帯電話がベットと壁の隙間に落ちていた。
「あんのガキ・・・」
忌々しそうに呟いてそれを手にすると、液晶も確かめずに通話ボタンを押した。
「はい」
そうとう不機嫌な声が出ていたと思う。

電話の相手は山口ではなかった。
てっきり忘れた事を伝える為にかけてきたと思っていた慎は通話越しに聞こえてきた男の声にハタと気がつく。
ナツミが前に言っていた、一緒に犬の散歩に付き合っているのはこの男ではないか、と。
「あれ?間違えたかな、お嬢・・・じゃ、ないですよね?」
男の心配そうな声に少し笑う。”お嬢”と山口は呼ばれているらしい。
「違いますけど、この電話は彼女のです」
慎の返事に相手は一瞬止まった。
「どちら様で?」
男の声が少し低くなり、いぶかしむ様に聞いてくる。
「沢田と言います」
「沢田さん?・・・お嬢はどうしたんですか?」
「さあ。この電話、拾ったんですよ」
俺の部屋で、と言ったらコイツはどんな反応をするだろうか、と人の悪い事を考えたが、あきらかに素人ではない態度に、遠慮しておく。
「拾った?ってことは、お嬢はそこにいないんですか?」
少し焦った声に、またおかしくなって、慎は電話で聞こえないようにしながら小さく笑った。
どうやら”お嬢”は随分過保護にされているらしい。

「ええ、お嬢さん?いないですね。なんなら、この携帯、届けましょうか?」

ちょっと面白そうだぞ、そう思った慎はそんな事を切り出してみた。
他人には必要以上にかかわらないという慎のポリシーはこの所壊れっぱなしだ。

「本当ですか?ありがとうございます。いや〜良い方に拾っていただけて良かった」

「場所、教えてもらえますか?」

慎の口元は笑いっぱなしだった。







たどり着いたのは、賑やかな商店街を抜けたところにある、大きなお屋敷だった。
慎自身、実家はでかいほうなのだが、こちらは年式、というか、費やした時間によって作り出された荘厳さがあるように思えた。
純和風の門扉の中には玉砂利がしかれ、その先に続く玄関には”大江戸一家”と、でかでか書かれた看板が下がっていた。
「へー山口んちって、ホンモノだったんだな」
そんな呟きをもらして慎は臆する事無く中に入っていった。

「ごめんください」

声をあげると、すぐに奥からいかつい男と丸い男が出てきた。

「沢田さんですか?」
「そうです」
いかつい男は外見からは似合わないようなにこやかな笑みを浮かべて、慎に頭を下げる。
「わざわざ届けていただいてありがとうございます」
「いえ。ついでだったので」
帰りに湿布を買って帰ろうと思っていたのでそれは嘘ではない。
ポケットの中から件の携帯電話を取り出す指し出す。
「本当にすみませんでした。お礼にお茶でも召し上がっていきませんか?」
進める男に小さく頭を振って返す。
なんとなく山口が自分の部屋を知っているのに自分が知らないのは面白くない気がしてここまで来てしまった(好奇心もあったし)が、もうそれは十分満たされたので、わざわざ上がってゆく事もないだろう。
「いえ、ホントに、お気遣いなく」
まだ引きとめようとする男に微笑んで頭を下げると踵を返した。
本人の中身がどうあれ、慎がこうしてゆったりと微笑んでみせたりすると育ちのよさが出るらしく、高感度が上がる。
まあ山口の家の人物に好感をもたれてもしかたがないが、こういう断わり方のほうが大抵の人間はアッサリ慎の要望を受け入れるのだ。
男もそうだったようで、「じゃあ」と見送りに門まで出てきた。
なんとなく、以前に山口が”きちんと育てられた礼儀正しさ”のようなものを醸し出していたのは、こういう人たちに囲まれているからかもしれないな。と、思った。
「それでは」
今度こそ頭を下げて踵を返した慎だったが

「あれ?沢田先生っ!?」

”とんちんかん”を連れた山口久美子が帰って来てしまったのだった・・・。





「そうですか、お嬢の学校の先生さんでいらっしゃる」
なんだか変な日本語を話しながらいかつい男が慎の前にお茶を差し出した。
「はぁ・・・」
その慎の隣には山口が座っている。
「そっか。アタシ先生の家に携帯忘れてったんだ。全然気がつかなかったよ」
ポツリと呟いたそのセリフにお茶を差し出した体制のまま男が固まった。
ギ・ギ・ギ・・・・と音がしそうな動きで首を山口に向けて「先生の家?」と聞いている。
慎はなんだかそれがツボにハマってしまって笑いを堪えるのに自分の膝をつねった。
「うん。昨日先生んち行ったからその時落としたみたいだ。ね、先生、どの辺に落ちてた?」
「ベットと壁の間」
男の眉がピクリと動く
「ああ、あの時か」
それに気がつかないで山口は能天気だ。
面白すぎる。
慎はそんな二人を観察しながら男が入れてくれたお茶を口に運んでいた。
「けど、なんでテツ、アタシに電話よこしたわけ?散歩行って来るって言ってたじゃん」
「ええ、用事はあったんですが、それより、お嬢、あの、この沢田先生さんとは、いったい・・・」
慎はとうとうぶっと噴出した。
そんな慎を二人が見てくる。
なんていうか、この二人は意思の疎通が微妙に出来ていない。その上互いの感情に温度差がある為一向に改善しないのだ。
「・・・すみません。山口君には、昨夜助けられまして、家まで送ってもらって怪我の手当てをしてもらったんですよ」
笑いを堪えてそう言うと、見るからに男はほっとした顔をした。それに引き換え、山口は何故慎がそんな事を言い出したのかわからぬように小首をかしげる。
小田切の事といい矢吹の事といい、前から恋愛ごとにはニブい奴だな、とは思っていたが、家でもこの調子じゃあ、コイツの周りの男は苦労するだろう。

前に”こんな女のどこがいいんだ”と思ったことがあったが、今はなんとなくわかる気がした。
きっと、この天然で、まっすぐな擦れてないところが新鮮だったんだろう。
それに、昨夜慎を助けた時のコイツは純粋に綺麗だったと思う。

(まぁ俺にとっちゃあ、お子ちゃまなのはかわんねぇけどな)

そんな事を思っていると、いきなり廊下から足音が聞こえてきた。
テツがその音にピシリと背を伸ばす。心なしか山口も座りなおしたようだった。
「?」
足音はすぐそこで止まり、戸をカラリと開く音と共に矍鑠とした老人が顔をだした。
「お客さんかい?」
たったそれだけの言葉に威厳がにじみ出ている、と慎は思った。
きっとこの人物が、山口の祖父の親分さんだろう。
慎は頭を下げた。
「お邪魔してます」






「そうですか、久美子に助けられましたか」
笑いながらそういった老人に、久美子は思い出した、というように腰を浮かせて慎の頭を見やった。
「先生、病院行った?」
「いや、行ってない」
「だってビール瓶で殴られたんだよ?」
それを聞いていた龍一郎がテツと呼ばれた男に裏の医者に連絡するように言った。
さすがに慎は慌ててそれを辞退する。
「なぁーに、裏の医者ぁモグリだが腕ぁ確かだ。安心して診てもらえばいいさ」
「・・・モグリですか」








なんだかすっかり帰るタイミングを逃してしまった慎は、どういったわけか、山口の家の食卓に混ざっていた。
「先生、どうぞ」
慎の隣に座った三代目(らしいのでそう呼ぶ事にした)が慎に酒を勧めてくる。
「すみません」
それを受けている自分っていうのもどうなのだろうか、と慎は悩んだ。

「先生。久美子は学校ではどうですか?」
「学校で、ですか?・・・・とどこおりなく、生徒をやっているかと」
以前山口が言った事を真似て言った慎に、久美子のパンチが飛んでくる。
「先生!」
それをよけながらにやりと笑って見せると山口は頬を膨らませてそっぽを向いた。
「はっはっはっは。面白い先生だ。久美子、先生に行儀が悪いぞ」
山口に注意をしながらも、三代目は愉快そうに笑いながら自分の杯を空けた。
慎もついそれにお酌をしてしまい、なんだかやけに和んでしまっていた。




夕食が終わり、三代目はじめ大江戸一家の皆さんがお見送りしてくれる中、慎は門を出た。
何故か隣には山口久美子が並んでいる。


「先生おじいちゃんに気に入られてたねぇ」
「そうか?」
「そうそう。あんなおじいちゃん久々に見たよ」
「ふーん」
「・・・・」
ここで突然山口は口を閉ざした。
「なんだ?」
慎の問いに、しばらく躊躇した後、山口は口を開く。
「・・・・ウチに来ても普通にしてる人も、アタシ初めて見たよ」
「そうか」
なんとなく含むものも感じたが、あえて慎はそう応えるにとどめた。
誰しも、語らなくていいことはあるだろう。


商店街を抜けたところで山口は「じゃあ先生気をつけてね」と言って手を振ってきた
「お前も気をつけて帰れよ」
そう返した慎に山口はクスクスと笑った。
「今の、先生っぽい」
「ほっとけ」

慎は歩き出した。

「せんせー」
背後から山口が声をかけてくる
「クロサキとクミによろしくねー」
慎はそれに後ろ手に手を振って応えた。


酒のせいかもしれないが、気分が良かった。
昨日飲んだ酒とはえらい違いだな、と思って。
「そういえば・・・」

あの、クマの店で元担任の事を聞いてから荒れていた心が、今は静かに凪いでいる事に気がついた。
イライラしていた気持ちはどこかにいってしまっている。

慎はおもわず笑った。

色々な事がこの二日のうちにあったからだろうが。
人は、こうやって、忘れていけるのかもしれない。
忘れていけたらいいと思う。

いつの日か





...to be continued......?

2007.9.19
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