09
「ごめんなさい」 女は俯いたまま謝って、そうして踵を返すと去っていった。 慎は、それを呼び止める言葉が、口から出てこなかった。 慎は高校3年の時、当時の担任の教師と付き合っていた。 子供なりに真剣だったそれは、スリルを味わうような、単純なものではなくて 友人にも、誰にも告げず、ただ一人、胸を熱くする感情だった。 二人が付き合っている事は、誰一人想像できなかった筈だ。 「先生、結婚するんだってな」 ある日突然友人から教えられた事実に慎は言葉を失った。 冷静な態度がとれていたかどうかもわからない。 「・・・けっこ、ん?」 「ああ。なんか見合いだとかって。ほら、教頭の奥さん見合い斡旋、趣味じゃん」 笑いながら応えた友人に、慎は取り繕って乾いた笑顔を顔に貼り付けた。 結婚。したいと思っていた。 高校を卒業したら就職をして、彼女の生徒という足かせがなくなったら、もう、誰に憚ることなく、彼女を独占できるのだと、そう思っていた。 彼女にも伝えてあった。 進路相談室。 親の来ない慎と向かい合った彼女に、「結婚したいから、就職する」そう告げていた。 それが、どうしてこんな話になるのだ。 慎は焦る気持ちを押し殺して、放課後までまって彼女を捕まえると、聞いた。 「冗談だよな」「たんなる噂だよな」「上司の進めだからうまく断われなかったんだろ?」 矢継ぎ早に聞く慎に、けれど女教師は俯いて一言、謝った。 「ごめんね」 と。 その瞬間、友人の言葉が現実として慎にのしかかる。 どうしてだよっ・・・そう聞きたかった。 俺じゃだめなのか?・・・聞けるもんなら聞いていた。 けれど、慎は焦る心とは裏腹に、一言も言葉を発せなかった。 そんな慎を残して、女は踵を返す。 女が結婚したのはそれからすぐだった。 それと同時に学校もやめていった。 慎はあの日から、一度も彼女と口をきくチャンスを得られなかった。 ・・・いや・・・心のどこかで、現実を受け止められない自分が、彼女に近づくのを躊躇わせたのかもしれなかった・・・。 彼女じゃない担任が教壇に立つのを慎はボンヤリと一番後ろの席から眺めた。 一人になって残ったものは、慎の中にとぐろを巻く激情だけだった。 秘密にしていた二人の関係。 誰にもいえない思い。 いっそみんなぶちまけて、バラしてやろうか、なんて事も思った。 でも、それは、どうしても、できなかった。 彼女が残したのは、そんな残酷な、一人だという事実と。 黒猫の名前だけだった。 就職を希望する理由がなくなってしまった慎は、急遽進学組に入った。 黙っていると発狂しそうになる感情を沈める為、何かに夢中になっていたかったからだ。 それが、てっとりばやく、勉強だったのだ。 教師の誰もが心配するような有名大学を何個も受けて、すべて受かった。 それまで慎たちDクラスを煙たがっていた教頭がもろ手を上げて喜んで、校舎から慎の合格祝いを垂れ幕で下ろしたけれど、そんなものは、慎の気持ちを慰めはしなかった。 ただ、後味の悪い、むなしさの様なものが残っただけ。 卒業はあっという間にやってきた。 大学の入学もだ。 慎は、あとはもう、何をしていいのかわからなくて、がむしゃらに遊んだ。 声をかけてくる女とはかたっぱしから寝た。 男友達と法律すれすれの遊びにも興じた。 それでも それでも、満たされない。 何をしても、どんなに遊んでも、慎の中には誰も埋められない空洞が空いていて、日々が砂を噛んだように味気ない。 そうして、散々遊んで、遊ぶ事にも疲れた頃、今度はまた勉強をした。 特にやる気のなかった教員免許をとろうと思ったのもこの頃だ。 彼女と同じ教師になって・・・そうしてどうするのかなんてわからなかった。 けれど、もしかしたら。 あの時の、彼女の気持ちがわかる時が来るかもしれないと、思った。 今更知ったところでどうにもならないけれど、慎の中の弱い自分が、未だに彼女を求めて悲鳴を上げているのに、耐えられなかったから・・・。 だから、教師になって、ひとつ、自分の中に、くぎりでも、つけられれば そんな事を望んでいた。 いつまでこんな事を続けるのだろう いつになったら人生は終わるのだろう そう思いながら。 ...to be continued......? |