07
食堂にある自販機の横の缶入れに飲み終わった缶を入れようとした慎の手がふと止まった。 山口久美子が飲んだほうの缶のプルタブを折り曲げたフチに目をやる。 今まで数え切れないくらいの女と一緒に居たが、口紅を付けていない女、というのは初めてだな、と思ったのだ。今時は中学生だってリップくらいはつけている。 ・・・缶には、本来ある筈の女に特有の紅の痕がない。 「ま、お子ちゃまだしな」 呟いてガロン、と音をさせて缶をゴミ箱に入れた。 自分でも少し意外だとは思っている。 教師になったのも成り行きのようなもので、特に信念をもってやっているわけではない。 それだというのに 「暇だったら勉強教えてやるよ」 まさか、自分から勉強を教えてやる、なんていう事になるとは思わなかった。 相手から言ってくる可能性はあったかもしれないが、自分から、という意外性に戸惑う。 なにも好き好んで自分から相手に関わろうなどとは思っていなかったのに、自分から関わりを持とうなんて、どうしたことか、と思う。 自分の言葉とも思えない。 が ・・・ただ、なんとなく コイツが教師になったら面白いかもしれない。 そんな事を思ってしまったのだ。 教師になりたい、と語った真っ直ぐな気持ちが眩しくて。 こいつだったら、本当にそんな教師になれるんじゃないだろうかと、勝手に思ってしまった。 そうしたら、口が動いてしまったのだ。 俺の手で教師にしてやりたい。そう思ったなんて、ホント、どうかしている。 なにが、"俺の手で”だ それで、少しだけでも救われようとしている自分に反吐が出た。 定時に校舎を後にし、外食でもして帰るか、と、久々に友人の店を訪ねようと思っていた。 学校から程近いところにあるラーメン店。 餃子が美味い事で有名だったのは自分がまだ高校生だった頃で、二代目になってからはそんな評判は聞いていない。 それでもそこそこ繁盛しているらしく、訪ねるといつも何人かの客がいた。 「よ」 無言で店内に入った慎に目ざとく気がついた友人のほうが先に声をかけてきた。 カウンターの中、昔と少しも変わらない人懐こい丸い顔が慎を出迎える。 慎もそれに軽く片手を上げて応え、空いていたカウンターに腰を落ち着けた。 「チャーシュー醤油で、あと瓶ビール。」 「あいよっ」 余計な事は話し掛けず、友人、熊井輝夫は湯の中に麺を入れると冷えたグラスと瓶ビールをドンとカウンターに上げた。 「珍しいね、慎が酒飲むなんて」 「そうか?」 「なんか良いことでもあった?」 軽い世間話程度の会話に、何故か慎はうっ、と息をつめた。 ”いい事”とクマに言われた時、何故か教え子の山口久美子のことが浮かんだのだ。 「どーしたの、慎ちゃん」 幼馴染でもあるクマは未だに慎の事をちゃんづけで呼ぶ。 それへ、なんでもない、と少し空ろに応えながらグラスにビールを注いだ。 「仕事帰りの一杯。美味い?」 丼にスープを仕込みながら聞いてくるクマに「ああ、まあ」とか、適当に応える。 仕事帰り、と称される程真面目に働いているわけではない。 今日唯一教師らしい事をしたといえば、放課後に山口に勉強を教えたくらいだ。 他の授業は生徒も真面目に聞いていないし。ただづらづらと板書をして教科書を読む位である。 他の人間はどうかしらないが、自分基準で考えるならば教師ほど楽な仕事もないだろう。 そう考えれば、自分は教職に向いていたのかもしれない。ある意味では。 考えた事に笑いそうになって口付けたビールをグビリと飲み込んだ。 「しっかし慎ちゃんが教師なんてねぇ。世の中ナニがどうなるかわからないよな」 「まぁな」 否定できない程度の過去はある。 なんと言っても自分が白金学院に入る切欠になった出来事も教師を殴った、というものだった。 その後だって、いい思い出がない。 「はい、お待ち」 少し過去を思い出して嫌な気持ちになっていた慎の前にカウンターに湯気立つラーメンが置かれた。 軽く手を合わせてから割り箸を折る。 と、その時。 「そういえば教師っていやぁ、この前すげー久しぶりに高校の時のセンコーに会ったよ」 「・・・・え?」 「ほら、なんてったっけ、3年の途中でやめてった、女の・・・」 慎の箸を持つ手が止まった。 「結構慎ちゃん仲良くしてたよな。”沢田君元気?”とかって聞かれてさ」 「・・・それで」 「まぁ、適当に、教師になったっつったら驚いてたよ」 (そりゃあ驚くだろうな) 「子供連れててさ、二人も。なんだか丸っこくなってたよ」 「へー」 自分でも驚くくらい平坦な声が出た。 止まっていた箸を動かして麺を啜る。合間にビールを飲み干した。 「クマ、ビールもう一本」 「あいよっ」 クマの中ではその話はもう終わったのだろう。新しい瓶をカウンターに載せると別の客に呼ばれてオーダーをとっていた。 その後はもう、どうやってラーメンを残さず食って、瓶の中身を飲み干して、会計をすませ、当り障りのない挨拶を交わして熊井ラーメンを出たのか ・・・曖昧で覚えていない。 唐突にフラッシュバックされる過去。 自分ではもう思い出程度の感覚でいた。ちょっと嫌な思い出、くらいに。 きっと本人に会ったって、ちっとも動揺なんかしないだろうと思っていた。 それくらいの歳月は流れている。 もう、四年以上前の事だ それなのに クマの口から語られた事実に打ちのめされている自分が居る。 寿退社だった。 子供ができてたっておかしくない。 それでも何処かで自分は”そんな筈はない”と思い込んでいたのかもしれない。 どうせ上手くいく筈のない結婚だと。 そのうち、気がつくだろう、と。 けれど、クマの語るその人物の話は、平和そのもので 今もまだ幸せな結婚生活を送っているようで・・・。 子供が二人? 少し丸くなって? 自分が覚えているのは、小さくて細い身体だけだ。 思い切り抱きしめたら折れてしまうのではないかと、いつも思っていた。 抱きしめる時は、いつだって壊してしまわないか心配で 壊してしまうのが怖くて そっと、そうっと、真綿で包(くる)むように優しく触れていた。 ガンッ! 大きな音。 無意識のうちに拳が閉じた商店街のシャッターを殴りつけていた。 錆の浮いたシャッターは拳の大きさに凹んでいる。 それでも、不思議と痛みは感じなかった。 何件の店を梯子したのか覚えていない。 馴染みの店から、はじめて行く店まで とにかく呑んで呑んで呑みまくった。 そして 気が付いたら路地裏でチンピラに絡まれていた。 「おいおい、ぶつかってきといて挨拶なしはねぇんじゃねえの?」 男のうち一人がまるでドラマの中の陳腐なセリフのようなものを言う。 どこか、その声は遠くで聞こえていた。 自分は壁に凭れかかっている。酒が足に来ているようだ。 きっとこのままだと袋叩きだな。 そう思うのに、それはどこか人事のようで、なんだか可笑しい。 「何笑ってやがる」 別に、自分が可笑しくて笑っているだけだ。 「おい、テメ、ニヤケてんじゃねえよっ」 言いながら男の足が慎の足を引っ掛けた。 そのまま無様にその場に転がる。 顔を上げると、男は4人。 多分、4人。 そんな事すらよくわからなくなっている。 そういえば、こんなに呑んだのは大学生のコンパ以来だ。 独特の浮遊感と堪えきれない笑い 男達はそんな慎に苛付いたように胸倉を掴み上げて立たせると拳を腹に叩き込んできた。 他の男の足も慎の足を蹴りつけてくる。他の男も、他の男も、慎に暴力をふるっているのだろう。 けれど、慎はそんな風にはとらえていなかった。 痛いとも思わなかった。 自分の身体だとも思えなかった。 ただ、「何やってんだろうなぁオレ」という自嘲的な感想ばかりが頭をよぎった。 路地の向こうで喧嘩に巻き込まれたくない人たちが足早に去ってゆく。 それがいい。 人にかかわると碌なことがない。 賢明だ。 男の一人が店の勝手口に置いていたケースの中からビール瓶を取り出した。 クマの店で飲んだのと同じ銘柄だな、と思う。 それが自分に振り下ろされるのをスローモーションのように見た。 パン、と硝子が粉々に破裂してゆく音が当たりに響いた。 慎の頭の中で脳みそがぶれる感覚がある。 また慎はずるずるとその場にくず折れた。 このままだと、下手したら死ぬかもな。 そんな事を思った。 もう、なにもかもがどうでも良かったけれど・・・。 「何やってんだお前らっ!」 唐突に今までいなかった登場人物の声が聞こえた。 霞む目を上げてそちらを向く。 明かりを背にして、逆光で見えない人物は、ずいぶんと小柄だった。 こんな事に首をつっこむなんて、なんて物好きな。そう思って笑った慎の目の前で、先ほどのスローモーションが嘘のような早回しで人が動く。 一歩踏み出すと同時に右手が男の腹部に消えてゆく。その体制のまま後ろ足で背後に立っていた男の股間を蹴り上げた。 そして、男達は、声を発する間もないまま、全員その場に倒れこんだ。 「一人によってたかって情けない」 また、その声が聞こえた。 そして何を思ったのか転がる男達を一人一人積み上げてゆく。 慎はその光景を唖然として見ていた。 急に、意識が自分に戻ってきたような感じで、体中のいたる所が痛みだす。 小柄な身体が自分に近づいてきた。 慎はますます現実に引き戻されてゆく。 その姿に見覚えがあった。 「あれ・・・もしかして、沢田センセー?」 座ったままの慎に手を差し伸べたのは 教え子の、山口久美子だったのだ。 ...to be continued......? |