01
キシキシと遠くで微かな音がしていた。 放課後の図書室。 開け放った窓から遠くでグラウンドを走っている運動部の掛け声が聞こえる。 そして、先ほどから断続的に、不規則に続く、本棚がきしむ音。 久美子はその音を耳の端に捕らえながらも殊更気にする風でもなく机の上に広げられた問題集に意識を集中させていた。 高校2年の夏。 受験勉強に励む山口久美子には、それ以外の事などどうでも良かった。 都心まで快速で1時間。 平凡な地方都市の、どこにでもある公立高校。 だが 世間一般では受験戦争に学生たちが駆り出される季節ながら、この公立高校にはそんなものは存在しなかった。 高校の名前は白金学院。 男女共学のこの高校は、市の中でも特に学力のレベルが低く。 どちらかと言えば素行の悪い学生が多く集まることで知られており、卒業生の大半が就職し、僅かな人数が進学・・・と言っても、勉強などしなくても入れる専門学校か、もしくは極まれに短大に進むものがいるだけで、その短大枠も推薦で受験なしに進むのがほとんど・・・というような、進学に力を入れていない学校だった。 必然的に授業内容も中学校の延長で復習をしているような力の篭らないものが多い、よく言えば長閑な、悪く言えばやる気のない校風。 教師たちも悪い意味でも良い意味でも力の抜けたものが多く、教師と生徒が対立するような青春ドラマのような場面など見たことがない。 本当の意味で、いい加減。 よって、この学院で今真剣に受験なんてものを、しかも2年のうちから考えている人物など、この久美子以外にはいない。 久美子の手が問題集のページをめくり、数ページ後の解答欄を見る。 先にも書いたとおり、この学校でまともに受験対策の勉強を教える教師など皆無なので 久美子にとって唯一の勉強方法は解答欄を確認し、そこから導き出される答えを推察する、というような、まだるっこしいものだった。 非常に効率の悪い勉強方法。 本来ならば塾にでも通えばいいのだろうが、なかなかそういうわけにも行かない理由が久美子にはあった。 だいたいが、久美子の中学時代の成績は今通っている高校よりももっと上のレベルを狙えるものだったのだが、やはりこれも、理由があって現在の学校に進むしか道がなかったのである。 授業では習っていない公式を前に久美子が一人考え込んでいると、先ほどから聞こえてきていた音が止まった。 かわって、クスクスと笑い声とともに、どこか甘えるようなオンナの声が聞こえてくる。 考え込むように口元に持っていっていたシャープペンシルの端を数度左右に振って、思いついたようにルーズリーフに文字を書き込む。 図書室の絨毯敷きの床の上を、人が歩いてくる音が聞こえた。 そうして、久美子の見える位置にまで来ると、ハタ、と足音が止まる。 まるで今はじめて久美子がそこにいるのに気がついたような態度に思わず顔を上げると、自分と同じセーラー服を着た少女がそこに居た。 少し乱れた髪と、蒸気した頬。 久美子の存在にびっくりしたように目を見開いた顔。 初めて見る顔だな、と久美子は感慨もなく思った。 胸元のネームプレートのラインは赤。 一学年上の3年生らしい。 少女は久美子と目が会うと、慌てたように図書室から出て行った。 久美子はまた関心を無くしたように問題集に目をやる。 そうして、しばらく勉強に没頭していると、また人が絨毯の上を歩いてくる音が聞こえた。 「なんだ、また勉強してるのか」 今度は、聞きなれた男の声。 けれど久美子は顔を上げずにまた問題集をめくった。 解答欄を見て、先の問題の解き方を真剣に考え込む。 「おーい。無視すんな、山口」 二度目の呼びかけに、面倒ながらチラリと視線を上に上げると、先ほど少女が立ち止まった位置にスーツの上着を右手に持って肩に掛けた男が、彼独特の口端を持ち上げる笑みを浮かべてコチラを見ていた。 笑っているのに、目が笑っていない。 久美子はこの男が好きではない・・・いや、正直かなり嫌いだ。 自分の担任である、教師。名を沢田慎という。 「・・・勉強の邪魔しないでください」 面倒ながらも一応敬語で返事をしてまた問題集に目を移す。 「一人でやっても効率わるいだろ?教えてやろうか?」 どこかからかうような口調の混じるそれへ、久美子はハンと鼻をならした。 「結構です」 「あ、そ」 久美子の態度に興味を無くしたように入り口に向かってゆくその背に、久美子は我ながらお節介だな、と思いつつ、顔を上げないまま声をかけた。 「沢田センセー。口紅ついてますよ」 「おーサンキュー」 悪びれた風もなく、久美子の忠告を聞き入れて、その教師は図書室を出て行った。 おそらく口紅を落とすためにトイレにでも行くのだろう。 図書室に、今度こそ静寂が満ちた。 実は、こんな場面に遭遇したのは一度や二度ではない。 今日の少女が「初めて見た顔」だと思ったのも、今までの少女たちの中に見なかった顔、というだけの話だ。 つまり、新しいのに手を出した、という事だろう。 自分の担任教師は、顔がいい。 ・・・というか、それ以外にとりえがない。 だが、年頃の少女たちの視線と好奇心を満足させるくらいの顔の良さなので、当然もてる。 本来ならば教師が生徒にモテたところでどうにも話は進まない。 ・・・が、あの不良教師は来るものを拒まない。 そして、当然とばかりにそのままサカる。 場所など選ばない彼にしてみれば、放課後の、利用者など久美子くらいしか居ないのではなかろうか、という図書室は使用頻度が高かった。 あんなのの何処がいいのか、といつも首を傾げるのだが、あの教師が赴任してきてから約半年、彼の周りから女の影が途絶えた事はなかった。 いったいこの高校の、少ない女子生徒の何人が毒牙にかかっているのだろう。 あれでよく刃傷沙汰がおこらないものだ。 女子生徒の中で暗黙のルールでもあるのか、女たちがバッティングしたり、奪い合って争っている姿をまだ見たことがない。 要領がいいということだろうか・・・。 そこまで考えて、久美子はハッとして、思考を止めた。 今はそんな事を考えている場合ではない。 またしても問題集に目をおとした。 そして思わず 「・・・自分の目指してる職業がアレだと思うと、むなしくなるな・・・」 ポツンと小さく声をもらした。 「むなしくって悪かったな」 唐突に図書室の入り口から声が聞こえる。 久美子はそれに面倒そうに顔を上げた。 「・・・忘れ物ですか?」 どうやっても解けない問題に匙を投げるようにシャープペンシルを紙の上に放って、コリをとるように腕を上に伸ばす。 そんな久美子に、先ほど出て行った担任教師は近寄ってきた。 そしてそのまま久美子の前の席の椅子を引くと、腰を下ろす。 「どこが解らないんだ?」 「・・・・これ」 投げやりな気分で問題集を指し示す。 「ああ、これな・・・これは」 そこから、その担任教師は、久美子がその問題を解けるようになるまで、懇切丁寧に指導をしてくれた。 先ほどまでの口に女の紅を乗せたままのだらしのない風体ではなく、教師の顔をしている。 ・・・悪い奴ではないのだ。 久美子はボンヤリとそう思いながら、担任の解りやすい問題の教え方を黙って聞く。 悪い奴ではない。ただ、どこか、どうしようもなく、人間が破綻している。 春に会ったときからそう思っていた。 身持ちが崩れている、というか 自分自身がどうでもいいような それこそ、教師という職業にも未練などなく、スッパリとやめてもいいような気持ちでとりくんでいるように見えた。 ・・・かと思えば、こうして気が向いたように久美子に勉強を教えたりする。 だいたいが、こんな風に久美子に気軽に声をかけてくる教師などこの学院では彼だけだ。 まさか久美子の裏事情を知らないわけでもあるまいに、何にも考えてないように近寄ってきたりする。 まったく理解しがたい。 久美子の差し出したルーズリーフに、文字を滑らせて行く、男にしては細く綺麗な指を見た。 沢山の少女たちに触れた指。 それでも、その指は、まるで穢れなど知らないかのように、清潔感がある。 本人の行動を無視して。 「・・・で、こうなる・・・と。・・・解るか?」 「はい」 自分が今まで必死で悩んでいたのがアホらしくなるくらい、簡単に問題は解かれた。 カタンと椅子の音を立てて、教師が立ち上がる。 「アリガトーゴザイマシタ」 一応で礼をいうと、小さく笑う声が降ってくる。 「棒読みで言うな」 ポンと、久美子の頭の上に、一瞬手が載せられて、そうして担任は背を向けて今度こそ図書室を後にした。 「変な奴・・・」 久美子は担任教師が嫌いだ。 どちらかというと人の感情の起伏に聡い自分にも、何を考えているか解らないからだ。 「・・・・アノ時は、もっと、違う印象だったんだけどな・・・」 もう一度つぶやくと、先ほど担任が教えてくれた問題をもう一度自分で解く。 今度はすんなりと解けた。 ...to be continued......? |