猫とくすりと路地裏と
―キミ、大丈夫?
少女が、静かに俺に言った。
ガタン、と大きな音がして、不意に視線が歪んだ。
ああ、またか。とぼんやりした頭で考えながらも、引っつかまれた手の先を探る。
そこには明らかに堅気とは違う種類の性質をした男がいて、俺は目を閉じると抵抗をやめた。
「お前、どうしたんだよ!」
立ち上がるのも面倒で、冷たいコンクリートの上で寝そべっていた。
幸い繁華街を抜けたこの狭い路地には人影もなく、
俺はすっかり腫れ上がった頬を擦ることもできずに、ただ切り取られた暗い空を眺めていた。
しばらくして、その風景に一人の侵入者が出現する。
「あ〜あ、こりゃまた派手にやられたもんだ」
「……ヤンクミ」
見上げた先で、ふたつのお下げが揺れている。
すっかり暗闇に支配されたこの世界でも、彼女の黒の美しさを、俺はありありと思い浮かべることができる。
何故なら――彼女は俺の担任だから。
彼女は徐にため息をついた。
「こんなところで寝転がってるやつがいるかと思ったら…やっぱりうちのクラスかよ」
「なにしてんの、こんなとこで?」
ボロボロな姿を上から覗き込まれて恥ずかしい気持ちもあったが、
俺は相手がヤンクミということもあって、ごく自然に問いかけた。
眼鏡越の彼女の目が、自然と険しくなるのが判る。
「いや、何って、お前みたいな生徒を捕まえに来たんだよ。
当然だろっ?ったく見つけたのが私だからいいものを…」
「っていうか酒臭いですけど〜?」
「そっ、そうか!?」
まさかあの教頭だってこんな時間までパトロールをしろとは言わないだろう。
飲みすぎたのか、ほんの少し赤みの差した顔で慌てるヤンクミを見て、俺は呆れて言った。
「また、例の刑事?頑張るなー」
「ったくよー。お前もな」
軽く言い切る担任に俺は笑った。
「で、誰にやられた?」
血だらけの俺を見ても、ヤンクミは慌てずに冷静だった。
起き上がることはできない、と知っているのか俺のすぐ近くに座り込み、挟まれたビルの壁にもたれる。
こういうところが女らしくないんだ、と俺は次第にはっきりし始めた頭で考えた。
新しく買ったというワンピースに、滑稽なまでの執着を見せた『元彼女』の姿を思い出し、小さく笑う。
笑うと、引き攣れた傷が少し痛んだ。
「何笑ってんだよ?」
「ばっ馬鹿!見るんじゃねぇ」
「いや、見えないし」
突然慌て始めた担任教師をさめた目で見やる。
逆さまに映った彼女の姿は、俺の思う『女』の姿とは対極にあった。
ひっつめ頭に、真面目メガネ。
色気のないパンツ姿。
断じて俺の好みじゃない。
「なんかさぁ、ムカつくんだよね。待ち合わせ場所に急に男が現れてさぁ。んでコレ」
俺は精一杯の軽いノリでその言葉を口にした。
実際はそんなに簡単なことではない。
今度こそ、と思ったのだ。今度こそ。
この子こそは、と。
「お前もいい加減、あれだよなぁ」
ヤンクミはフォローなのかなんなのか、意味不明の台詞をはいて口を歪めた。
その似つかわしくない仕草に違和感を覚えつつ、俺は続ける。
「いい加減俺も、女運、なさすぎっつ〜の?」
はあ、とため息をついた。
担任の手前、わざとらしくついたそれが思いのほか真実味を帯びている。
なんだか気恥ずかしくなった俺は、未だ痛む体に鞭打って方向を変えた。
「あーあー、動かすなよ。痛いんだろ」
ふわりと不思議な感覚。
急に近くなった彼女の声。
気づけば頭の下に、女の柔らかい膝の感触。
うわ〜、思わず声が出た。
「なんだ?」
「膝枕だよ!しかもヤンクミの〜」
「光栄だろ?」
「…俺ってホント女運ねぇ」
パシンと小気味良い音が、俺の額で鳴った。
どれくらいそうやっていただろうか。
コレがヤンクミじゃなかったら、緊張で胸をときめかせたかもしれないし。
コレがヤンクミじゃなかったら、眉間に皺を寄せてその体から逃れたかもしれない。
女の柔らかい膝は、少なくとも俺の心を落ち着かせたようだった。
きっとそれを担任はわかっていたのだろう。
その行動にほんの少しのイロも混ざっていないことに、俺は苦笑を禁じえない。
それはそうだろう。
俺は彼女の生徒なのだから。
「なぁ、あ〜んてしてみ。口の中も切れてるか?」
無意識なのか俺の髪をゆっくりと梳きながら彼女は聞いた。
男にしてはさらさらの自慢の髪が彼女の細い指に絡みつく様を見るのは、思ったよりずっと心地いい。
俺は言われたとおりにして見せた。
「…ちょっと切れてるな。お前、きちんと喰いしばらなかったんだろ」
「いきなりだったんだって。喰いしばる暇もなかったんだよ」
暇を持て余していたもう片方の手が俺の唇に触れた。
微かな痛みに目をつぶる。
「唇も切れて…痛そ」
微かな、痛み。
僅かな疼き。
「ってぇ!」
それをはるかに超す鋭い感覚に、俺は再び彼女を見た。
悪い悪いと侘びを入れながらも、彼女の顔は楽しそうで、俺はその手の物を認めると、顔を顰めた。
「何それ」
「みりゃ判るだろ。消毒してんだよ」
「つうか、用意良すぎじゃねぇ?」
彼女の手に握られたティッシュが赤く染まっている。
冷たい感触と、独特のつんとした臭い。
「脱脂綿なんかないからコレで勘弁な」
再び彼女の手が、薄い紙を経て俺に触れる。
痛みが俺の理性を少しずつ駄目にする。
「でも役にたっただろ?お前ら妙に生傷絶えないもんな〜。早速役に立って良かったよ」
「いや、よくねーし」
そういう意味じゃねぇ、とヤンクミが笑って否定する。
無性に腹が立った。
見上げた先には、影になった彼女の顔。
まっ逆さまに映っている彼女の意外と小作りな顔には、一つ一つのパーツが正しく綺麗に収まっている。
こんなところで、こんな顔をしているヤンクミに不思議と腹が立った。
あのシンポジウムの一件の後、慎の態度は少し変わった。
もう、隠さない。
見ている俺達の目に、哀れに映るほど真剣に彼女を欲していた。
けれど笑って応援できたのは、彼女が「教師」であることを、認めていたから。
くしゃくしゃになったティッシュで俺の傷を拭う女は、担任ではない。
ただの「山口久美子」―---。
「な、ヤンクミ。キスしたことある?」
気づいときにはそう言った後だった。
忙しく働いていた手が止まり、訝しげに俺の目を覗き込んでいる彼女に、
俺はなんとも言えない罪悪感に苛まれた。
例えるならば何も知らない小学生の前に、無修正のアダルトビデオを落としてしまったような。
しかし彼女は、小学生なんかじゃなかった。
「……どうだろうな」
にや、と笑って何事もなかったかのように消毒を再開する。
彼女の指が一番ひどく腫れていた唇の左側をなぞった時、俺の中で何かが弾けた。
わざとらしく静かに言う。
「んじゃ、試しちゃおっかな」
え、という彼女の声をどこか遠くで聞いた気がした。
しかしそれが言葉になることはない。
突き刺すような痛みを堪え、目の前にあった眼鏡をゆっくりはずし、彼女の顔を引き付けた。
血とアルコールと、少々の消毒液の味。
彼女の首の後ろに回された腕にはほとんど力が入っていなかったが、それが振りほどかれることはなかった。
そのことに自分勝手にも苛立ちを覚えた俺は、呼吸ができない苦しさからか、
一層高潮したヤンクミの顔を見て見ぬ振りして、男と女の口付けを続ける。
一瞬だったのかもしれない。
それでも。
どこか遠くから聞こえる酔っ払いの怒鳴り声。
玩具の様な軽薄な音を忙しく鳴らす車のクラクション。
それらを聞きながら彼女と口付けを交わした時間は、永遠のように感じた。
はあ、と甘い吐息が傷ついた頬にかかる。
ようやく離した彼女の唇は、俺に劣らず腫れていた。
ヤンクミの顔を、彼女の膝の上から俺は黙って見上げる。
そして、そのときには気づいていた。
彼女は最初から「女」だったのだ。
慎の前だけでなく、ヤンクミはいつだって女だった。
気づかなかったのは「俺」。
騙されていたのは「俺」。
―女は上手に嘘をつく。
離れていた彼女の顔が再び近づけられた。
その唇は再び微かに開き、強請るように、いや食い掛かるように俺を欲する。
火照った体とは別のところで、醒めた自分がその様子を見ていた。
乱れた呼吸が顔に掛かるたびに、どこかで自分が笑っていた。
ヤンクミだって、同じ――。
―キミ、大丈夫?
そう言ってあのとき近づいたのは、今日俺を捨てた女。
柄にもなく思った。コレって運命?
濃すぎる化粧も、俺よりひどいタバコの臭いも我慢する。
君の事が好きだから。
鼻を喰われた。
「痛ってぇ!ふざけんな!何すんだよ!!」
想像以上のイロっぽい展開に、俺は先ほどとは打って変わった、いつも通りの声を取り戻していた。
「馬鹿、こっちの台詞だ!」
「嘘付け、気持ちよさそうにしてたジャン」
「バッ、バババババ馬鹿言うんじゃねぇ!」
目の前に居たのは、頬を赤く染めたいつもの担任教師だった。
「お前さ、なに自棄起こしているんだよ」
暗闇に包まれた。
彼女の手のひらが俺の視界を遮る。
真っ暗な世界で聞くヤンクミの声は、キスをしているときより近く感じる。
「彼女と別れたらそりゃ辛いよ。そんなの判ってるから、無理すんな。平気そうな顔してる方がよっぱど痛いよ」
彼女の手は燃えるように熱い。
手の温かい人間が冷たいといのは本当だろうか。
「自棄になんかなってねぇし」
「そっか?」
彼女の手のひらを感じながら目を閉じた。
睫毛が柔らかな皮膚を撫ぜ、少しくすぐったい。
どうしてこの女の言葉は、こんなにも素直に染み渡るのだろう。
「俺ってそういうキャラじゃねーし」
確かなのは彼女の手のひらの熱さだけ。
「キャラってなんだよ。自分を偽るくらいなら、そんなもん捨てちまえ!」
「捨てちまえって言われてもなぁ」
―南くんてさぁ。ほんとに私のこと好きなの?
―は?なんで。好きだよ。
―どうせ私が好きなんじゃなくて、女の子が好きなんでしょ。
「……じゃ言うわ。すげぇ凹んだ」
うん、と手のひら越しに彼女がうなずく気配がする。
「殴られたのも痛かったけど、なんかそれだけじゃなかった気がする」
「心が痛い、って言うんだよ」
「まさか、ヤンクミに恋愛相談がのってもらうなんてなぁ」
マジかっこわりぃ、とつぶやく俺に彼女は笑った。
「カッコイイだよ。コレを乗り越えてお前はひとつ大人になるんだ。南はカッコイイ。私が保証する」
ヤンクミに保障されても、というお決まりの台詞を言うのは止めた。
調子の良いことに、信じてみたくなったから。
「悪かったな」
擦り切れた膝にたっぷりの消毒液を付けならが、ヤンクミが不思議そうな顔をして俺を見た。
そのころにはいつもどおりの俺に戻って、いつもどおりの笑顔で続ける。
「ヤンクミ初チューじゃないよな?」
「……さぁ、どうでしょう」
「え、嘘!?やべぇ、慎に殺される…」
沢田は関係ないだろ、とヤンクミが赤い顔で言った。
さっきの顔も欲情的でそれなりにイケていたけれど、やはり俺はこの方が良い。
「まあ、犬にかまれたとでも思ってよ」
「……ずいぶん、手の早い犬コロなことで」
「あ、もったいないからもっかいしとく?」
咬まれた女は反撃とばかりに傷口を叩いた。
どうやら命に異常はない模様。
翌日、いつもどおり登校すると、俺を見るなり悪友達は口笛を吹いた。
「南〜、ずいぶん男前じゃん?」
「かなりイケてんぜ〜」
俺は奴等に近づき、勉強道具なんて一つも入っていない鞄を机に放る。
「おう、俺別れちゃった」
三人は一瞬何を言っているのか判らない、とばかりに口を開け、やがて口々に言った。
「マジで!?南、今度こそマジだったんじゃねぇの?」
「昨日までうまくいってたジャンよ」
「それ、まさか女にやられたとか?」
まさか、と笑って席に着く。
チャイムと同時に担任と、遅れてきたもう一人の友人の姿が見えた。
いつもどおりの能天気な挨拶で、一日が始まる。
「お前、鼻どうした」
傷だらけの俺を見てもかすかに眉を動かすに止めた慎が、机の横を通ったとき、不思議そうにそう聞いた。
担任が、いつもの調子で出席をとる声がする。
「別に。でっかい猫がちょっと、ね」
俺はくっきりついた歯形をなぞった。
END
◆ご存知!創作の神様!いえ、プロ!ゆきお様から、南クミssですー!!
◎ゆきお様からのコメント
テーマから大幅に外れております。
当初は暴走した南くんを慎ちゃんや3D連中が捕獲する予定でしたが、
私のヤンクミには助けは要らなかったようです。自ら捕獲してしまいました。
作中の南くんはヤンクミに対して、恋愛感情というよりは教師として、
味方になってくれる大人として信頼を抱いているようです。
だからこそ、みんなのヤンクミでいてほしい、みたいな複雑な感情を書きたくて試みてみました。
結果は……すみません(笑)
これからもこういう企画を続けられたらいいですね♪
◎有希乱入長コメント
「かっこいい〜〜〜っっ!!」読み終えた時の私の第一声がコレです。←しかも本気で叫んで。
南ーーーー!!なんて素敵なんだぁ〜! あんたイイ男だよ〜〜!!(惚)
分るよ・・複雑なんだよねぇ。何とも内容が深くて胸が締め付けられる思いです(ずしーんと)
南クミをここまで素敵に書けるなんて・・・うぅぅ。最高です。
この素敵作品で南クミにも目覚めた人が多いはずーっっ!!(キッパリ)
見よ!コレが総受け魂じゃー!という大作だと思います・・はい。
慎ちゃんが間で絡むところは、もう本っ当!ドキドキしましたぁ〜!!
今日から南クミをマイナーだとは、もう言わせないよ・・・ぶつぶつ(危)
有希の師匠。ゆきお姫へv
貴女様はやっぱり創作の神様だね・・(あーめん)
もうもう本当に今回もまたまたツボをついた素敵作品で・・・弟子は、ゆきお師匠を誇りに思います。(涙)
えへへvpurelyと相変らずの暴走キャラ有希っちに飽きもせず、いつも可愛がって頂き有難うございますv
この企画が持ち上がった時、正直不安なことだらけで後から迷いなどもあったのですが、
臆病な有希をいつも支えてくれるゆきおちゃん始め、皆様のエールには本当に救われてます。
改めて、ありがとうーー!!(抱きっ)
そうですねv企画を続けれるよう、もっともっとサイトが盛り上がるよう努めていきますv
競作企画にご参加して頂き、本当に有難うございましたっv