たとえばこんなハジマリの朝
うっすら朝の光の射す部屋のなか、聞こえてくるシャワーの水音。
黒い光沢のあるベッドカバーを身に纏った女は抱えた膝に額を擦りつけた。
まずい。まずい。まずい。
とんでもないことを仕出かしてしまった。
ちらりとベッドサイドに視線を遣れば、
ガラステーブルの上で飲みかけのまま放っておかれた二つのグラスに浮かぶ透明な液体と、
グラスの底の縁にいつの間にか出来上がってしまった水溜り。
そしてガラステーブルの黒い足元に散らばる、もはや皺くちゃになってしまった彼と自分の衣服たち。
女は溜息を落とす。
どうしてこんなことになってしまったのか。
覚えていないわけではない。
自分はシラフだったのだから。
ただ自分が何故あの時、何の抵抗も躊躇もなく行為に及んでしまったのか。
全ては彼のなすがままだった。
ひと晩経った今、別の誰かが起こしてしまった出来事のようにその気持ちを理解できないでいた。
冬休みに入って間もない昨日。
自宅の縁側で暮れていく空を眺めていると、ひとりの生徒の姿がぽっかりと浮かんできた。
白金学院の生徒の偏差値では無謀とも思える大学への受験を決意した彼は今頃ちゃんと勉強しているだろうか。
きっと彼のことだから年末年始も実家には帰らずに生活感の薄いあの部屋でひとり寂しく過ごしているに違いない。
よし。
ちょっと様子を見てきてやろう。
そんな風に考えてしまったことがそもそも過ちだったのだ。
そして今、女が抱えているのはどうしようもない悔恨の塊だ。
いつの間にかシャワーの音は止み、ドアノブの動く気配がした。
腰にバスタオルを巻いた格好でバスルームから出てきた彼は首に掛けたタオルで軽く頭を拭きながら冷蔵庫に向かって歩く。
真っ黒な髪に混じる金色のそれがタオルの動きにあわせて揺れるのを、ぼんやりと見詰めていた女は、振り返った彼と目を合わせて慌てる。
「・・・起きた?」
思いがけない柔和な、幾分艶の混じった笑顔に女は驚いた。
───うっわああ・・・。
女はぎゅうっと目を瞑って項垂れる。
───さ、さわだが、沢田が笑ってるよううう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
何をどう切り出せばいいのか。
沢田慎は冷蔵庫を開けると
「何にもねえなあ・・」
中を覗きながらそう言い、小振りなミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
慎はそれをひとくち飲むといまだベッドのなかで膝を抱えている山口久美子に笑顔のまま近づいて「ん」とそれを差し出した。
なんだなんだその仕草は。
それではまるで自分達はコイビトドウシになったみたいではないか。
久美子はそんな思いでそっと慎を見上げた。
きっとひどく情けない顔をしていたに違いない。
慎はその表情だけで全てを読み取ったようだった。
「何だよ・・・」
すうっと笑顔は消え、強ばった顔で問う。
「お前、もしかして後悔してんの?」
久美子は再び項垂れるしかなかった。 慎はひとつ息を吐くと
「信じらんねえ・・・」
呟くようにそう言って、久美子に背を向けてベッドの縁に腰を降ろした。
固めのスプリングが軋む。
唐突に少年臭さの残るごつごつと骨ばった細い背中が視界に入って久美子は愕然とする。
幾らいつも冷静で大人びて見えたとしてもやはり慎は十八歳の少年なのだと、改めて後悔の念にかられた。
「俺は昨日始まったと思ってたんだけどな」
「始まる?」
掠れた声で訊き返す。
「さわだ、お前、受験生なんだぞ」
ああ、なんて間の抜けたことを・・。
今言うべき事柄は他に幾らでもあるはずなのに。
久美子は自分の口から出てきた言葉に絶望する。
「いまさら。・・・こんなことで落ちたりしねえよ」
慎は呆れたような声で言い返す。
「それに、こんなこと、もし学校に知れたら・・」
「隠せばいい。上手く隠せば誰にもバレたりしねえよ」
「隠す・・」
「俺は隠せるよ。卒業まで後二ヶ月ちょっとじゃねえか。・・・まあ、お前は分かりやすいからな。無理かもしんねえけど」
「だけど」
「なんだよ」
「あいつらは・・」
「・・・」
「あいつらがこのことを知ったらどう思う?」
久美子の頭に浮かんだのはまずそのことだった。
3Dの連中の、自分と慎を信頼しきった屈託のない笑顔。これはあいつらを裏切ったことになりはしないか。
「あいつらは、俺の気持ちはとっくに知ってる」
慎は事も無げに言う。
「へ?そ、そうなのか?」
「まあ、こんなことになったて知ったらショック受けるやつもいるかも知んねえけど。
そういうのは何年か経てばさ、時間が解決してくれるだろ」
───何年?
久美子は慎の突拍子もない言葉の持つ意味を反芻する。
「どっちにしてもバレねえようにしたほうが賢明だな・・・」
では、慎はこんな関係をこれからも続けていくつもりなのだろうか、と思う。
「・・・だけど、やっぱりこんなの間違ってるよ」
「お前さ」
慎は久美子のほうに身体を向けると、
「さっきから色々言ってっけどさ。お前の気持ちはどうなんだよ」
怒ったような目で見据えてそう訊いた。
「好きか嫌いか。肝心なのはそこだろ?」
「さわだ・・・」
「俺の気持ちは昨日ちゃんと言ったはずだ」
昨日。
灯りの落とされた部屋の中で。
「好きだ」
慎は久美子の瞼や頬や額やこめかみに唇を落としながら何度も囁いた。
「ずっと好きだった。・・・ずっと、こんなふうにしたかった」
その言葉に打たれたように動けなくなった自分を思い出して、久美子はなんだか泣きたくなった。
「俺、なんか食うもん買って来る」
慎は立ち上がると腰に巻いたバスタオルを外して着替え始めた。
直ぐ傍であたふたと動揺している久美子のことなどまるでお構いなしだ。
「帰ってくるまでにこれからどうするか決めとけ」
「決める?あたしが?」
「俺は、お前がどんな答えを出してもかまわねえよ。・・・お前も一応センコーだからな」
「さわだ・・・」
慎はドアに手を掛けると振り返って久美子と視線を合わせた。
「俺のいない間に勝手に帰ったりすんなよ」
久美子の行動を見越したようにそう言うと、慎は部屋から出て行った。
久美子の中では答えなど、最初からひとつしかない。
隠せばいいと慎は言ったが、そんな薄氷を踏むような真似は出来ない。
ましてやそこを慎と手を繋いで歩くことなど到底考えられなかった。
こんなことが学校に知れたら慎は今度こそ間違いなく退学だ。
自分のことはどうあれ、慎をそんな危険な目にあわせるわけには行かない。
───帰ろう・・・。
慎が戻ってくるまでにこの部屋から消えてしまおう。
頭の良い彼のことだからそれで全て理解してくれるはずだ。
久美子はベッドから抜け出す。
むせ返るほどの慎の匂いに包まれていたことに気が付いてシャワーを浴びようかとも考えるが、
できるだけ早くこの部屋から出て行きたい久美子は思いなおす。
それにしても身体中の筋肉や関節が変に痛い。
痛みに顔を顰めて散らばった衣服を身に纏いながら、ゆうべの慎の不器用な指先や温かい掌、
そして躊躇いがちに這う唇と舌を思い出していた。
震えの止まらない久美子の身体を宝物のように繊細に包んでくれた。
昨夜、慎は本当に優しかったのだ。
そこまで思って首をぶんぶんと横に振る。
だめだ。だめだ。だめだ。
忘れなくてはいけない。
久美子は勢いよく立ち上がる。
その弾みで左脚の脛をガラステーブルに強く打ち付け、テーブルが派手な音を立てて揺れた。
「いっったあああっ」
───ちっきしょう。踏んだり蹴ったりじゃねえか・・。
片脚を抱えて蹲る久美子の瞳に、がたがたと揺れるガラステーブルの上の銀色の光が反射して映った。
久美子はそれを三本の指先でつまむと左手にそっと乗せる。
いつも慎の右手の親指にすっぽりとおさまっている白っぽいシルバーの指輪だ。
そのいびつな円形を見詰めながら、ゆうべ慎がこの指輪を外したほんのちょっとの時間を思い出していた。
久美子から一旦身体を離した慎はもどかしそうにTシャツを脱ぎ捨て、
それから右手の指輪を外してそっとガラステーブルの上に置いた。
こつん、と澄んだ音が響いた。
あの僅かな時間。
あの時、引き返そうと思えば引き返せたのだ。
けれど久美子はそうしなかった。
自分の意思で。
再び慎の身体が覆いかぶさってくるのをじっと待っていたのだ。
暗闇の中。
ただひっそりと。
息を詰めて。
逃げるなと言われている気がした。
自ら望んだことから目を背けるなと。
掌の鈍い光が全てを見透かしているようだった。
久美子は指輪を握り締めるとその拳を額に当てた。
慎は隠せると言った。
自分にも出来るだろうか。
卒業まであとわずかだ。三年生は出席日数も少ない。
出来るかもしれない、と思う。
あいつらは笑って赦してくれるだろうか。
慎は時間が解決してくれると言った。
何年か経てば、と。
昨日始まった、と慎は確かにそう言った。
久美子は指輪をテーブルの上に置いて立ち上がると、部屋の上部に連なる小さな窓を見上げた。
昨夜は人工的な原色のネオンを映し出していたそこに、今は柔らかな朝陽が射し込んでいる。
不意にドアが開いた。
自分が帰るなと釘を刺したくせに、
久美子の存在を狐につままれたように驚いた顔で見詰めるこの部屋の主は、
けれどすぐにいつものポーカーフェイスに戻ってキッチンの前に立った。
手にした袋がかさかさと音を立てる。
「さわだ」
久美子が声を掛けると慎はゆっくりと目を合わせた。
向けられたのはまるで判決を待つ罪人のような怯えの色を持つ瞳だ。
先程まであんなに強気だったのに。
どんな答えを出してもかまわないと言ったくせに。
いつも無表情の仮面で、その本音を覆ってきた慎の初めて見せる情けない弱々しい顔。
今、慎は久美子の口から告げられる言葉を隠しようもないほどに恐れているのだ。
そう悟った瞬間、慎への愛しさでたちまち久美子の身体はいっぱいになっていった。
好きか嫌いか。
肝心なのはそこだ、と慎は言った。
───なんだ。答えはとっくに出てるじゃないか。
「おかえり、さわだ」
にわかに笑顔になった久美子を認めてむっとしたように片眉を上げる慎に近づいていくと、
久美子はいつもそうするように慎の髪をくしゃくしゃっと両手で撫で回して、それからそうっとその頭を抱きしめた。
END
さぁ〜ついにやって参りましたv 競作企画・第2弾!!!!!
お披露目・1番ですよーっっ!!!! (大拍手)
■CHOCO
HOLIC管理人のchoco様から、慎クミssですv
◎choco様からのコメント
すみません。コメント・・・。自分のサイトでも一度も書いたことがないのです。何を書けばいいのやら、です。
ええと、在学中にできちゃった話です。(読めばわかるよね><)
沢田君はともかく久美子さんに関して言えばぜぇっっったい有り得ない話だとは思うのですが、
一度書いてみたかったので、書きました。(なんじゃそりゃ・・) ほんとしようもない話ですみませ〜〜〜ん。
最後まで読んでくれたかた。ありがとうございます。どうか見捨てないでやってくださいっっ!!!
有希ちゃんへ
こ、こんなSSでよかったらどうぞ企画に参加させてください!!
一応私なりに頑張って書きました・・つもりです。有希ちゃん同様、愛は満タンです!!
◎有希乱入コメント
んぎゃーー!!!!!な、な、なんちゅ〜素敵&萌え過ぎるssなんでしょう…!!有希大感激。
し、慎ちゃんかっこいいーーっっ、んもうホントやばいっっ><v
久美子姐さんの心の中が凄く切なく、でも何処か優しいトコロと、
それと慎ちゃんの真っ直ぐで強いんだけど、見え隠れする不安で押し潰れそうな胸一杯の気持…ホント感動です。
一文一文とても丁寧で、ラストの占め方は胸が最高に熱くなりましたv
この続編を個人的にオネダリしたくなる気分ですネ、はい…フフフ@@☆←危
チョコちゃんへv
この度は当サイトの第2回目の競作企画に参加して頂きまして、本当に有難うございました!!
また今回も、お披露目一番に相応しすぎる素敵作品で、念願のスタートに華を咲かせることが出来ましたv
チョコちゃんの慎クミへの熱く激しい想い、そして何よりも愛が、胸に満タン感じる小説ですね><v
そのチョコちゃんの素敵作品がpurelyで掲載できる事を心から幸せに思います。
本当に有難うございました!そして創作、お疲れ様でしたーー!!
・・・てか、奥さんよ。
いいよねぇぇぇ〜〜「初めて迎える2人の朝」 くぅぅぅぅ、こんちくしょぉ…(ぇ)
企画のテーマ、コレにすれば良かったぁぁぁ…カモ?(微後悔)←ぉぃぉぃ。笑