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「先生に出会えて、よかった」

その言葉を貰って、慎は込み上げてくるものを必死で飲み込んだ。
鼻の奥がツンと痛んで、目頭が熱くなる。

心の中から溢れてくるのは、色々なものに対する感謝の気持ちだった。
今まで生きてきたなかで出会った全ての人に「ありがとう」と言いたかった。
これまでの自分を形成するまでに必要だった出会い。
たったひとつとして、きっと、無駄なことはなかったのだ。

人生には何度でも大きな落とし穴が待っている。
その時は誰でも絶望したり自棄になったりするだろう。
それでも、必ず生きて歩いていればそれを挽回する大きなスタート地点が現れるのだ。
慎にとって今がきっとその時なのだ。

後から後から湧いてくる熱い感情を目の前の少女に悟られたくなくて、慎はそっと俯いて笑った。
「校長に連絡しなきゃな。・・・きっと校舎に垂れ幕で大きく書かれるぞ。俺のときもやられたんだ」
「あは。・・・あ、アタシもおじいちゃんに電話しなきゃ」
二人照れたように染めた目元を外して互いに携帯電話を手に通話ボタンを押す。
間に流れるぎこちない空気までも、甘い蜜でできたように甘く感じて、久美子を酩酊させた。




通話を終えた二人はその足で手続きの書類を貰いに行って、それからゆっくりと帰り道を歩いた。
久美子にしてみれば、もしかしたら、一緒に歩ける最後の時間なのかもしれないと思ったから、尚更、時間稼ぎでもするように、ゆっくりと歩いた。
その歩調に何も言わずにあわせてくれる、大好きな人。
人生ではじめての告白は、もちろん、なんの返事もなかったけれど・・・そう仕向けたものだったけれど、それで良かった。
初めて会ったとき、自堕落に暮らしていた教師が・・・常に周りには手をつけた少女達がいて、でもそのどれにもいい加減で執着もしていなかった教師が。
久美子にしても『顔がいいことしかとり得がない』とまで思っていたその教師が。
『しかえし』のために教師になった、と言った同じ口で
「教師なってよかった」
幸せそうに笑ってそう言ってくれた。
それだけで、なににか、救われたような気持ちになった。
「先生・・・」
「ん?」
無言で歩いていた久美子が突然呼んだのに、応えてくれる声。
それだけで、泣きそうになる自分は、おかしいだろうか。
「先生は、卒業してからも、ずっと、アタシにとって、大切な、先生だよ。ずっと・・・」
「・・・ああ」
短い応えは、それでも久美子に暖かく響いた。
二人の間にあるつながりは、こうしてみると、本当に少なくて、元卒業生だというその一点しかないけれど、沢田慎はこれからも久美子の中で生き続ける。
これからも、ずっと。

電車を乗り継いで、最寄の駅に辿り着いた久美子は、もう少しで離れてしまう事を寂しく思いながら改札を抜け、雑踏の中を歩いていた。
と、同じく改札を抜けた筈の男がいつまでたってもやってこない事に気が付いて足を止める。
振り返ると、沢田慎は大きく目を見開き、遠くを見つめていた。
足がその場に縫いとめられたように動かなくなっている。
「せんせい・・・?」
久美子の声にも気が付かなかった。




改札を抜け、人の波にもまれるようにして歩いていた慎は、何気なく顔を向けた先に信じられない人を見つけて立ち止まった。
視線の先には、もう、何年も見ていなかった人。
自分が子供だった頃に、背を向けられた人が、居た。
クマが以前に言っていたように、頬も身体もふんわりと丸味をおびていた。
そして。
そして、その手がつながれている先には、幼い子供。
男の子だろうか、やんちゃ盛りのようで、飛び跳ねるようにしている。

慎は黙って、その光景を見ていた。
もう何年も見かけなかった人を『教師になって良かった』そう思えたその日に見かけるなんて、出来すぎだ、と、思った。
視線の先の人が跳ねる子供を注意しようと横を向いて、そして、真っ直ぐで熱い視線に気が付いたように、慎のほうを向いた。
一瞬、丸く見開かれた瞳。
時が止まったように二人は見つめあった。
それは一瞬のことのようでも、そして、随分と長いことのようでもあった。

驚いたように固まっていた身体はスローモーションのように、動いた。
見開かれていた瞳は優しげに細められ、そうして、軽く頭が下げられた。
手の先の子供が母親の動きを不思議そうに見ている。
慎はそれに微笑んで、自分も頭を下げた。ゆっくりと。

今日、この日が、きっと、自分の中の、再スタートなのだ。

そのまま身体の向きをかえて、懐かしい人に、背をむける。
そう、『懐かしい』人。
もう胸が痛むことはなかった。
不快にざわめくこともない。

慎にとって、その存在は、もう、優しい過去になったのだ。
もう、慎の視線には自分を待っている愛おしい少女しか映っていない。

叶うなら、望めるのなら。
これから先も、この少女が大人に変わってゆく姿を見ていたい。
恋に盲目的だった子供だった自分は、もういない。
愛おしい相手を傷つけも追い詰めもしない自分がいる。

いつの間にか、自分がこんなにも『大人』になっていたことに、改めて驚いた。
高校生のときに止まってしまっていたと思っていた時間は、ゆるやかに、けれど、確実に時を刻んでいたのだ。
これからの時間を、目の前の少女と過ごせたらいい、と、思う。

「先生?・・・誰か、知り合いでもいた?アタシ先に帰ろうか?」
そう問いかけてきた少女に顔を振って応える。
「帰ろう」
優しい声が口から出てきた。
いつか、この少女の帰る場所が自分になればいい、そう思いながら。

人ごみにまみれた駅を出る。
今日のこの偶然が出会わせた『彼女』、誰に伝えていいかわからない感謝の言葉が胸に込み上げてきていた。






このまま真っ直ぐに歩けば見慣れた商店街がある。
その先には自分の家があって、隣を歩く人とは別れなければならないと思って、久美子の足は進むのさえ嫌なように、トボトボとしたものになった。
心に生き続ける人だとしても、少しでも一緒にいたいと思うのは、恋心ゆえだった。
「山口」
呼びかけに、ここでさよならかと思ってのろのろと顔を上げると、すぐ脇の公園を親指で指し示す姿が目に映った。
「ちょっと、寄っていこう」
「あ・・・はい」
途端に弾んだ胸のうち。単純だと笑われるだろうか。
久美子は前を歩く広い背中を見ながら公園に入っていった。
躊躇いもなく腰を下ろしたブランコがキィ・・・と、軋んだ音をたてた。
横に突っ立っていた久美子にも隣に座るように促してきたので、大人しく従う。
ブランコに座るなんて、何年ぶりだろうか。
久美子が子供の頃にはこの公園はまだ整備されていなくて、もっと離れた所にある公園まで歩いて行っていた。
子供の頃はもう少し世間がわかっていない子供の友達もいたし、一緒に遊んだけれど、それもしばらくすると親に注意されたように、誰も遊んでくれなくなった。
一人遊びができるブランコが慰めてくれていたっけ。
「山口」
感傷的な気持ちになっていたところで急に名を呼ばれて顔をそちらに向けると、憮然とした顔をした沢田慎が手を差し出して、小さな包みを久美子に差し出していた。
「え・・・」
「合格祝いだ」
ぶっきらぼうな声。
そういえば、時々見せてくれたこんな子供っぽい態度も、自分は好きだった・・・いや、好きだ。
「あ、ありがとうございます!」
慌てて差し出された小箱を受け取る。
軽くてあまり重みのないそれを、慎重に手の中で転がす。
細長い小箱は綺麗な包装紙で包まれ、リボンのシールが貼られていた。
受け取った事に満足したのか、沢田慎は久美子に向けていた視線を正面に向けてしまい、横顔しか見れなくなった。
「あの、開けてもいいですか?」
「ああ」
あいかわらずの憮然とした声はもしかしたら照れているのかもしれないと思うと、胸に暖かいものが込み上げてくる。
久美子は初めて好きな人から貰った贈り物を宝箱を開けるように慎重に解いていった。
包装紙ひとつ傷つけるのもいやで、そっとテープを剥がしてゆっくり箱を動かしながら中身を取り出してゆく。
「これ・・・」
中から出てきたのは、久美子も知っている化粧品会社の小箱。
箱を開けると光沢のある薄桃色のスティック状の口紅が出てきた。
キャップを外すと、淡いピンク色が覘いた。
決して派手ではなく、柔らかい色は、きっと自分がつけても違和感がないだろう、と久美子は思って、胸の内がカッと燃えるように熱くなった。
「大学に入ったら、そういうの、つける機会もでてくるだろうしな」
言い訳みたいに早口で言われて、口紅を手にしたまま男の横顔を見つめた。
「ありがとうございます。・・・特別な日に、つける」
なんと言ってよいかわからなくて、俯きがちにお礼を言った。
耳が熱くなってくる。
きっと、今自分は赤い顔をしているだろう。
「特別な日じゃなくても、つけろよ。そういうもんだろ?」
「でも、もったいないし・・・」
小さなスティックを大事に手の平で包み込む。
「・・・なくなったら、またやるよ。それも使い切ったら、また新しいの」
それは、高校を卒業してしまったこれからも、高校に会いに行かなくても、会える、ということだろうか。
久美子は目頭が熱くなって、期待に震えて泣きそうになる自分を必死で堪えた。

「・・・なんか、先生、くどいてるみたい」
そんな筈ないよね、とエヘヘ、と笑って見上げると、憮然とした顔が目の前にあった。
「何言ってるんだ」
「そうだよね」
「くどいてるんだ」

「・・・は・・・・へ・・・?」

目の前で急に赤くなってゆく整った顔を口をポカンと開けて見てしまう。
「な、なんで?・・・だって、アタシ、ガキで、ええと、興味ないって・・・」
しどろもどろでそう問いを口にした久美子に強い視線が絡んだ。
「はっきり言って、お前は対象外だった。」
「ですよね」
「でも、惚れたもんは、仕方がないだろ」
「・・・・・」
「もちろん、お前に断られるのは、分かっている。お前、俺の事嫌ってたしな。前に好きだって言った時もスルーされたし」
「えええ!!あんなに前から好きだったの!?あれ、そういう意味だったの??」
久美子は叫んだ後ごくりとツバを飲み込んだ。
そして、震える声を振り絞った。
「・・・アタシを好きになっても良い事なんてないよ?」
必死で、含み笑うような声を出す。
いつかも言った言葉。
あの頃は、今よりもっと子供で、自分の気持ちも決まっていなくて、振り子のように、毎日揺られていた。

「それは俺が決めることだ」

あの時の会話は一言一句覚えている。鮮明に。
今返された言葉で、先生もそれを覚えていてくれたのがわかった。
同じ台詞。
違うのは、ほんの少し、含み笑う、優しい声。

やっぱり、泣きたくなるのは何故だろう。

「・・・本当に、碌なことないんだから。・・・アタシにかかわると・・・」
声がみっともなく震えた。
もういいだろうか?
もう、泣いてもいいだろうか?
ずっと、堪えてきた涙を、流しても、受け入れてくれるだろうか。

「お前に出会って、初めて教師になって良かったって、思えた。それはきっと、お前が大学を卒業して、教師になったときに、もっと強く思うだろう。・・・碌なことがないなんて事はない。・・・お前が教師になるところを、傍で見ていたい」

いつだって軽口をきく人とは思えないほど無骨で真摯で、そして愛情に溢れた言葉だった。

「・・・先生」
「ああ」
断られるのを覚悟でもしているのか、表情が強張ったのを見て、瞳からついに、競りあがっていた熱いものが零れ落ちた。

「アタシも、先生のこと、好き。・・・・これからも、傍で、アタシが教師になるの、見守ってて」

一生伝えるつもりもなかった想いが唇からこぼれた。
本当の意味での。
愛の告白。
先生は、とても驚いたように大きく口を開いて、少しだけ間抜けな顔をした。
でもそれさえ涙を流す久美子には可愛いと思えた。

ブランコが音をたてて揺れる。
立ち上がった先生が近づいてきて、久美子の前に立って、そうして、涙を吸い込ませるように久美子をその胸に抱き寄せた。
細い指がコートの布と口紅をしっかりと握りこむ。
大学でしたのとは確かに違う、ハグじゃない、抱擁。

それから、ゆっくりと身体が離されて、そうして、互いに見詰め合った。
久美子がゆっくりと瞳を閉じると、唇に重なったのは、暖かくて柔らかな、幸せをあらわすような感触だった。


口紅ひとつつけたことのない淡い桃色の久美子の唇に口付けをできるのは、きっとこれから先も、沢田慎だけだろう。

そして

久美子の手の中にある口紅をつけた、その唇に触れることができるのも。











end

2009.4.24

■コメント■
長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。
物事には勢いってありますよね。今回ほどそれを感じたことはありません。
勢いで突っ走ってラストに持ち込んでしまいました。それでも、慎が、あの自堕落で不器用な慎が、久美子と出会って、そうして変わっていった事を、そして二人ともが幸せになれた事を書けたら、もうそれで満足だーーーー!!という気持ちを大切にしました。ので、自分としては、これでいいと思っています。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
初のパラレルもの(?)だったので試行錯誤でしたが、書けて幸せでした。
読んでくださった貴方がほんの少しでも幸せになってくれたら嬉しいです。
雪乃

・・・んが!しかし!!コーヒーが思いのほか生かせなかった!!・・・タイトルに偽りあり(笑)
因みに中で久美子に卒スペの慎と同じような台詞を言わせたのはわざとです。あは。
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