「妹」みたいな。
変な話なんだけど。

たまにそんな風に感じていたように思う。










wonderful life 1











雨が降っては戦は出来ぬ。
・・・というわけで、今日の現場は予定よりも早めに終わった。


内山春彦は、主に建設現場での仕事を生業としていた。
働きだして半年にもなっていない身で「生業」などという大げさな言い方が、
さして大げさでもないような状況に彼はあった。

高校を卒業してから、ここ数ヶ月と言うもの、ほぼ仕事一筋の生活である。
卒業旅行の折、いい感じに別れた旅館の彼女もそっちのけ(涙)。
同じように忙しく働いている母親とは、ほとんど顔を合わせる機会もない。

・・・あぁそうだ。時間を気にして返信できていなかった彼女からのメールの返信を打とう、と
ケータイを取り出した。
・・・こんな毎日でも、こうして小さな癒しがあるオレって、他の社員に比べれば幸せだよな・・・
なんて自分を慰める。
18にして、そんな哀愁ただよう生活であった。

そんな忙しすぎる日常はしかし、自分自身で望んだものだったから、疲れた疲れたと言いつつも、
彼にとってはなかなか幸せだと思える日常だ。


慣れるまでは仕事を覚えるのに必死だった。
自分の出身校に対する偏見も根強い中、会社の人間からの信頼を得るために、
そして、自分を応援してくれた高校の担任や仲間たちの期待を裏切らないために。
少しずつ、その努力も報われているんじゃないかと近頃では感じている。

今日も本来ならば、建築士の資格取得を目指す彼には、事務所に帰っていくらでも仕事はあった。
だが、親方からそのまま帰宅の許可が下りたので、今回に限ってはなんとなく、その言葉に甘えることにしたのだった。
さすがに日頃の疲れも感じていたから、少し休める良い機会かもしれないと。

そんなわけで、
あんまり降られちゃ、それはそれで困るのだが、
働きづめの毎日にふとした余暇が与えられた、そんなタイミングの雨を、お百姓さんと同じ気持ちで眺める内山であった。

・・・まぁ作業が滞る分、翌日以降にしわ寄せが来るのであるが。
せっかくもらえた半休なので、それは都合よく目を瞑ることにしよう、と軽い足取りで家までの道を歩き出した。


かといって、もともと仕事のはずのこの時間に、何か予定があるはずもなく。
だからといって、高校時代の仲間を呼び出すには急すぎる。
一応、心当たり数人にメールを送ってみるが、返信は期待していなかった。

このままでは、家に帰って何もしないで寝てしまう。
歩を進めるごとにジワリと沸いてくるような疲労に負けて半ばそのつもりで、
しかしそれも悔しいような気がして、内山は考えた。

考えたが、『休日を過ごす』なんて、ここ最近すっかりご無沙汰だった彼には名案は思い浮かばず、
結局そのまま帰路を辿ることになっていた。


長い足を投げ出すようにぶらりぶらりと歩く。たまにくるくると傘を回す。

なんとはなしに、空を見上げた。
ビニール傘越しに見上げる空は、白いばかりで思ったとおり何もなかった。
傘が、小さい衝撃ごとに模様を替える。ただそれだけ。

その目的のない、ゆっくりとした自分の動作に、内山は高校時代の匂いを感じ取った。



あぁ、自分はあの頃、ずいぶん恵まれていたのだと。
高校生活、最後の一年を振り返って。
・・・そう、今になって思う。

こんな風に時間をもてあまして、好きなだけ仲間たちとバカやって。
見守ってくれる母親と、信じて力になってくれる担任と。

そんな日常の贅沢さが、今になってようやく、雨が染み込むように理解できる。

「大人になっちったなぁ・・・オレも」

なんて、まだまだ序の口だろうと理解しつつも、自分を茶化すようにそう独りごちる。

ふと口元を緩めて、内山は視線を前に戻した。


その足が、ゆっくりと動きを止める。

「・・・あれ?」


内山の視線の先には、信号つきの横断歩道があった。
ちょうど信号は青のようで、数人の人間が交差している。

その中に、ひとり、傘もささずに、横断歩道を渡りもしない、ジャージの女が一人。

それは紛れもなく、久々に見る元担任の姿だった。





「やーんくみ!」

それまでの疲れを忘れたような軽い足取りで、彼女に向かって声をかけた。
その歩調の変わりように、彼自身は無自覚である。
濡れるのも構わず、傘を持つ腕を真上に伸ばして振る。

考えてみればたった数ヶ月だというのに、随分と久しぶりのような気がして、
会えた偶然に思わず顔も綻んでしまう。

年齢も性別も立場も超えて、彼女は内山にとって、そんな存在だった。
高校最後の一年間、彼の担任を務めた山口久美子。


「・・・・・・・・・」

しかし、そんな彼の呼びかけに、彼女が気づく様子はまったくなかった。


「久しぶりじゃん♪ガッコ帰り?」


「・・・・・・・・・」


だいぶ近づいて、かけたその言葉もまだ届かない。
・・・と。
そこに来てようやく、彼女の様子に内山は違和感を覚えた。


「・・・?おーい?ボーっと突っ立って、何やってんだよ?」

結局、気づいてもらえないまますぐ隣まで来てしまって、傘を差し出しながら、
ひらひらと彼女の目の前で上下に手を振ってみた。
それも少し曇ったメガネ越しで、果たして見えるのかは微妙なところだ。

(なんか、小さくなったな)
行動と関係ない思考の隅で、チラリと内山は思った。


雨の中、横断歩道を渡るでもなく突っ立っている女。
普通ならまずその不自然に気づくべきだったのだろうが、
彼女を見つけた偶然に、心躍る内山の目には入っていなかったのだ。


「・・・・・・え」

タイミングを明らかに外して、呼ばれ慣れた愛称を口にする隣りの存在に、彼女が反応を示した。


「ヤンクミ?・・・大丈夫か?」

「・・・あぁ。内山かぁ・・・」

声の聞こえた横斜め上に視線をゆっくりと動かして、彼女はぼんやりとした口調で彼の名を呼んだ。
前髪からこぼれた雨粒が、頬を伝って流れ落ちる。

久しぶりに会ったにしては、そっけない答え。だけど、当たり前みたいに出てきた自分の名前。
それを両天秤にかけて、思いは複雑だったが、とりあえず彼女の様子はそれをつつける雰囲気でもなかった。

「久しぶりじゃん、ヤンクミ。・・・にしても、何やってんだよこんなトコで。どっか行く途中?」

あまりにも『らしくない』彼女の反応を、さもなんでもないことのように、
しかし自然と口調は優しく、内山は言った。

変な言い方だが、彼は弱ってる生き物にとても敏感な性質の持ち主だった。


「いや・・・」

「・・・・・・・・・おまえ・・・ずっと立ってんのか、この雨ん中」

よくよく見れば、彼女の着ているジャージは、降ってくる水滴によって
すでに余すところなく濃い色に変色していた。
それに気づいて、さすがに眉根を寄せて内山が呟いた。


「あ、悪いな・・・傘入れてもらって・・・。雨降ってきてたのか」

「おい・・・?」

「あは。ホントだ濡れてるよ」

『空元気』にもなりきれてないその笑顔が、彼を戸惑わせた。
だってそんな顔、高校時代には見たことがなかったから。

降ってる雨も蹴散らして、晴れに変えてしまうような彼女の快活さは
一体どこに消えてしまったのだろう?


「・・・大丈夫かよ?」

「へへ・・・」

「話せよ。聞くから」

それはすでに、彼女を心配するだけで発された言葉ではなかった。
自分自身、ここで別れてしまうわけにはいかなかった。

このままでは、明日からきっと不安で不安でしかたなくなる。
それが確信できた。

彼女はきっと相変わらず、元気に笑って。
バカやってるクラスのやつらにさえ呆れられるくらい突っ走って。

きっとそうなんだろうと、信じて疑ってなかった。

・・・そうじゃない。

きっととか、そんな想像じゃなくて。
そうでなければいけなかった。
それが子どものワガママだろうとなんだろうと。

太陽が、沈んでも毎日必ずまた昇ってくるみたいに。


内山にとって、彼女はそういう存在だったから。






*********************










一生懸命走って走って、あたしがきっと守ってやろうって
それが伝われば、きっとあいつもわかってくれると信じてた。

でももしかすると。

あたしは驕ってたのかもしれない。








内山春彦が去年一年間所属していたのは、白金学園高等学校3年D組。
世間一般には評判の良いとは言えないそのクラスの全員を、
それこそ全力で卒業させた後、山口久美子はめでたく新入生のひとクラスの担任を任された。

中学時代から とある界隈では名の知れているような、タチの悪い生徒が集められていたそのクラスは
やはり学校の手に余ることも容易に予想がついたので、前もって「山口久美子専用枠」として割り振られた特別クラスだった。
白金学園高等学校1年D組。
これまでとうって変わって、「進学率UP!」が口癖の新校長に変わったとは言っても、
突然の偏差値向上には至らなかったらしい。

彼女も、そんな役回りは慣れっこ、というよりむしろ、
「強者こそ正義」的ルールに身を置いている可愛い少年たちの扱いなら、喜んで引き受けるくらいだった。
もとより素性がバレた以上、好きな教師が続けられるのだから、文句などあろうはずも無い。

そんなワケで相変わらず、東奔西走、苦労しつつも少しずつ生徒との距離を縮めていく

そんな毎日を彼女は送っている・・・。
時折立ち寄る馴染みのラーメン屋で、店主でもある元クラスメイトからそんな話を耳にして、内山は苦笑していたのだった。

それが、今目の前にいる彼女と、本当に同一人物なのだろうか。
すぐ隣りで俯きがちに歩く華奢な女を見下ろしながら、先ほどから内山は、えも言われぬ不安を抱えている。

ラーメン屋で感じていた温かさを、どうにかして取り戻さなければならない。
それは何に変えても果たさなければならない命題だと思えた。
自分のために。

でもそれ以上に。
彼女に、元のように笑って欲しかった。
そのためなら、自分はなんだってするだろう。

それくらいしても、十分お釣りは来るだろうものを、内山はあの一年で彼女からもらっていたから。






「・・・辞めたんだ、あたしの生徒が一人」

その生徒がよく、一人で時間を潰していた公園に向かう途中だと言うので、それに同行しながら
彼は彼女の話を聞いた。

とりあえず帰って着替えろ、という彼の賢明な提案は頑なに却下された。
しかたなく、せめてこれ以上彼女が濡れないように傘を傾けながら隣りを歩く。


うつむいて、ポツリと言う彼女に、内山は少しだけ目を見開いたが、それに留め沈黙で応えた。

「あいつが学校から居なくなって、でもどこを探しても居なくて。」

心当たりを探し尽くした彼女は、ここ最近、毎日その公園で彼を待ち続けているらしい。

可能性が低いことを知りながら。


その行動からも、そして自分たちの担任であった頃を思い出しても、
「生徒が一人辞める」という、柄の良くないあの学校にとってはさして珍しくもない出来事が、
彼女にとってはどれだけ大きなものなのか、痛いほど伝わってくる。

そして、彼女が簡単に、それを許すはずもないのだ。
だからこそ、現状に対する彼女のショックも大きいのだろうと、想像がついた。

「・・・もう、東京にはいないのかもしれない。・・・広島に・・・帰ったのかも」

言葉足らずに語られる事情に、急かすことなく内山は耳を傾ける。
彼女の口調も、経緯を説明するというよりは独白に近かった。
いつに無く口数も少なに聞く元教え子の、様子を伺う素振りも見せない。

ある程度の材料が揃ってから、その隙間を埋めていけばいい、と判断し、
たまに短い相槌を打ちつつ、内山は大人しく彼女の話を聞いた。

着いた先は、見覚えのある小さな公園だった。
路地から少し入ったところにある遊具の少ないその場所は、内山の家からそう遠くはなかった。


「あいつ・・・今考えればいなくなるちょっと前から、様子が変だったのに」

一通り見回して、目的の人物がいないことを確認すると、
公園の周囲を縁取る植え込みの角に居場所を定めて、彼女が話を続けた。

「他のヤツにかかりっきりになってて、話を聞いてやることもできなかった」

ここから見ると対角線上に近い、一台だけポツリとある自動販売機の近くに
低いフェンスの途切れた出入り口が一つだけある。

彼女につられて、内山もその方向を視界におさめながら、「そうか」と小さく頷いた。


「そいつの家に行ってみたら・・・一緒に暮らしてたはずの母親が蒸発してて・・・」


ちりり、と内山の胸が疼いた。

「あいつ・・・・・・たった一人の家族に捨てられて・・・今頃どんな思いでいるんだろう・・・」

見下ろす睫が、微かに震えた。


・・・内山は想像していた。
たった一人の家族。自分にとっても他人事ではない。
その母親に、もしもあの頃見捨てられていたら・・・。

きっと自分は、山口久美子に会う前に、3年になれないまま
高校を辞めてしまっていただろう。
・・・例えばかつて学校を襲おうとまで企んだ友人みたいに、学校や世の中を恨んで。


母親が、諦めず叱ってくれたからこそ、自分は彼女に出会えたのだ。



入学当初は手がつけられないほど荒れていたその少年も、久美子に馴染むにつれて、
自分のことを少しずつ話すようになっていたという。

幼い頃の一時期、親変わりになってくれた祖父が広島にいること。
母親がオトコに貢いで、どんどん借金を大きくしてしまうこと。
バイト先で我慢できずに問題を起こし、いつも長く続かないこと。

そんな自分に嫌気がさしていると最近の彼は、自嘲気味に笑ったと彼女は話した。

それが、その少年にとってどれ程の変化なのか、内山は身をもって知っていた。
やはりそれはかつて、同じ人物によってもたらされたものだった。

ちゃんと伝わってんじゃん、おまえの気持ち・・・。

そう、口にしかけたが、彼女の言を優先させるために、傘を持ち直すに留めた。
きっと彼女だって、それはわかっているのだろうとも思った。

「『だけどもし・・・、高校を無事に卒業できて、会社にも就職ができたら
 きっとじぃちゃんが喜んでくれるから』って、あいつ・・・頑張ろうとしてたんだ」


「・・・」

「・・・『広島に帰る金どころか学費も満足に払えないんじゃ、夢のまた夢だな』なんて笑いやがるから、あたし」

そこで思い出したように笑う。少しぎこちなく。

「絶対大丈夫だ、って…。あたしに任せとけ、なんて言って」

「うん・・・」

しかし、ある朝突然、校長の机に置かれていた退学届。

「…デカいこと偉そうに言ったくせに、結局なんにもしてやれなかった。助けてやれなかった。」

そこまで言って、唇を噛み締めるようにした。
頬に流れたそれはもしかすると、単なる雨粒だったかもしれなかった。
目は相変わらず、挑むように公園の入口に向かっていて。

そこまで来てようやく、内山は若干の安堵を覚える。
彼女の状況は何一つ変わってやしないのに、勝手だと感じながらも。

この瞳。
どんな状況に陥っても決して諦めようとしない、不屈の内面を表すような、このまっすぐな目。

彼はこれが見たかった。


「広島に行けるほどのヒマと金が、あたしにはなくて、それ以前に広島のどこなのか、母親に聞こうにも手掛りが無くて」

ようやく、さっきまでの独白と今の状況が掴めてきた。

「きっとあいつもすぐには行けずに、広島に帰るための金を稼いでいるだろうって」

それで大したアテもなく探し回っていたのか。
内山は、彼女の相変わらずの無鉄砲さに溜め息を吐いた。

「・・・あいつのそばに居てやんなきゃいけなかったのに」

毎日毎日、街の中を探して探して。
そんな思いで。
他になす術も無く。
でも何かをしないではいられない、自分。
疎かにできない、他の役割の隙間を縫って。

純粋に、彼の為に。


でもそれもさすがに、限界を感じていた。
抵抗虚しく、とっくの昔に退学届も受理されてしまっていた。



そんな時、職員室のどこかから聞こえてきた言葉。

「手のかかる生徒が居なくなって、逆に良かったじゃないですか」

「“手のかかる”なんて、可愛いものじゃなかったですけどね。ははは」


なにも知らない人間が、軽々しいことを口にする。
そんなことはこれまで何度だってあったのに。
その時は、それがどうしても我慢できなくて、飛び出してきてしまった。


だけど。

あたしも、もしかしてそう思っていたのだろうか。
少しでも。
職員室を飛び出して、走り疲れた道端で、ふと彼女は思ってしまった。
ほんのちょっとでも?

そうではない、と今は言い切れない。気がするのだ。
自分でも信じられないことだけど。

自分の非力さに打ちのめされていた。
なにも出来ない自分を、居なくなったあいつに、突きつけられている気がした。
信じたあいつに。

探せば探すほど、時間だけが無為に経って。

夜の間、協力してくれる他のクラスメイトにも、感謝と同時に申し訳ない思いが芽生えはじめて
数日以降は自分ひとりで探すことにしていた。


職員室で聞いた心無い言葉に、必要以上に苛立ち、我慢ならなかったのは、
なのに言い返せなかったのは
自分の汚い部分を曝け出されたような気がしたからじゃないのか。


そんなこと、考えたこともなかったのに。
・・・なかった、はずなのに。




「あたし、わかんなくなっちゃったよ、自分のことも。・・・・・・・・教えるってことも」


挑むような、内山が思わず見入ってしまうようなその目を閉じて、
それでもムリヤリに笑って、彼女は言った。

また沈黙が流れ、その後の言葉を継がない彼女に、ようやく内山が口を開いた。



「・・・・・・疲れてんだよ」

「え・・・?」

「おまえ、ちょっと疲れてんだよ。・・・ぜってーそうだって。
 どうせまた、生徒のことで走り回って、ろくに休んでないんだろ?」

彼女の顔を身を屈めて覗き込んで、悪戯っぽく彼は言った。

「そんなこと・・・。このくらいでヘバったりしないよ、あたしは」

「・・・いつまでも若いままだと思うなよ。」

「んだと?オイ」

人差し指で、彼女の額を軽く弾いて、口の端を上げる。
そんなことでおまえが悩む必要はないと、言外に伝えるようにして。


「疲れてる時ってさ、なんもかんもヒトの所為にして投げ出して、逃げ出したくなるもんなんだよ。」


「・・・・・・・・」

「おまえはさ、よくやってるよ。・・・ホント、よくやってる。」

「久々に会って、んなことわかんのかよ?」

彼の軽口につられるように、少しだけ、いつもの調子を取り戻して、彼女が揚げ足を取った。


「わかる」

「・・・断言しやがったな」

照れ隠しに口を尖らせながら。


「・・・そんなの・・・わかるだろ。おまえの教え子ならさ。何がわかんなくても、それだけは保障できる」


「・・・うちやま・・・」

「あ。・・・惚れないようにネ」

「ばぁか」


今度は、ちゃんと笑顔を見せた。
久々に再会した彼女の、今日初めてのホントの笑顔だった。

心中で、内山は今度こそ胸を撫で下ろす。

良かった。彼女が、彼女のままで。
それで何故自分が安心するんだろう、なんてことに頭は回らなかったが。


「・・・大丈夫だって」

ぽん、と、まるで子どもをあやすように内山は彼女の頭に手を置いた。
とても気安く。

その気安さと、他意のない優しさが、彼女の心を軽くした。

なにが大丈夫なのか、言っている彼自身にもよくは分かっていなかった。
便利な言葉だなぁと暢気に考えながら、でも「大丈夫だ」と確信をもって言う。

おまえは大丈夫。




「・・・おまえらがさ、」


今度は、久美子の方から口を開いた。
教え子に見せる、柔らかい笑顔を取り戻して。


「うん?」




「おまえらのことが、懐かしくなっちゃって・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・」


探し歩いている間に、ふとした心の隙間に思い出す、
彼らとの時間。
また同じような日々を過ごしているようで、やっぱりどこか違う
かけがえの無い時間たち。

それを思い出すことが、心が弱くなっている証拠だと、
自分を叱咤しても、抑えることができなかった。


その言葉は、内山に不思議な感慨を与えた。


「こんなんじゃダメだって。甘えてるってわかってるのに。
 こんな風に頼られちゃ、おまえらだって迷惑だって、わかってるのに・・・・・・・・・・」



「ヤンクミ・・・・・・」

「あたしは、そんな風に呼んでもらえる資格、な」


言葉はそこで途切れた。


「・・・!・・・うち、や」


「今日だけだ。今日だけ、甘えさせてやるよ」


「・・・・・・・・・っ!」





「そんなおまえ、ホントは見たくないからな。・・・今日だけ」


(今日だけ)

それが、どんな意味を持つのか、まるで誰かに言い訳をするみたいに、内山は呟いた。


・・・自分に?
それとも、他の誰かに?



熱くなる目頭。
密かに泣き虫な自分を恥じて、抱え込んだ彼女にバレないように空を見上げてやり過ごす。
高鳴る鼓動。
・・・その理由が何故なのか分からずに、どうすることもできないでいる。

なんだよ。
なにこの心臓は。

わけもわからず、
おさまれおさまれ、と胸の中で呪文のように繰り返す。

しかし彼女はそんな内山の胸中などに思い至るはずもなかった。
それが救いだ。





「諦めたくないんだ・・・っ!」


それまで彼のなすがまま、腕の中にいた彼女は、
その時になってはじめて自分から縋るように彼のシャツを握り締め、堪え切れずに言った。


いなくなった少年の望みは半ばで断たれ、それを繋いでやるには、あまりに自分は非力だった。
それを認めたくなくて、探してるんじゃないのか、そんな思いが掠めながら。

でもそれもどっちだっていいんだ。
自分が代わりになれることならいくらでもやってやる。
何でもしてやるから。

だけど、人生の肩代わりなど、誰にも出来はしないのだから。

頑張って戻って来い。
そう願った。
今がきっと踏ん張り時なんだよ。
直接、彼にそう言ってやりたい。
だって思うだけでは足りないのだ。



「うん・・・、知ってる」

わかってる。ともう一度、言い聞かせるように、彼女の言葉にしっかりと内山は頷く。


弱っている彼女のそばに、自分しかいないなら、今うろたえているワケにはいかない。

そう思うと、自然に気分は落ち着いていた。


「でも、諦めないと、いけないのかもって・・・心のどっかで感じ・・・て」


彼女の目から涙が零れ落ちた。
一度堰を切ったそれは、とめどなく。

彼女の小さな嗚咽が、内山にもそれを伝えた。



「うん。」



「ごめん・・・あたし・・・こんな風に、泣くつもりじゃ・・・」


ぐすぐすと鼻を啜りながら、途切れ途切れに言い、彼女は身体を離そうとする。
それを腕の力を強くして留めて、内山は言った。


「いいって、そんなん。・・・それにおまえはさ、『諦める』んじゃない。
 ・・・『信じて待つ』んだよ。」


「信じて・・・・・・?」


「信じてるんだろ?そいつのこと」


「・・・・うん・・・。信じてる・・・」


腕の中で、彼女がゆっくりと頷く。
その動作にためらいは無かった。

それに満足したように、内山は笑った。


「だから、ただちょっと・・・方法を変えるだけだ。な?」


宥めるように、濡れそぼった髪を撫でた。

抱え込んだ彼女の頭上にキスをするような仕草で、大切に優しく抱きしめた。
彼女も、そして彼自身も、とても大事なものを扱うその仕草の意味には気づかなかった。



再び落ちた沈黙に、雨粒の音が心地よかった。
傘にあたる軽快な音。公園の木々を潤す優しい音。


そして、


彼女がおもむろに言った。



「う、うちやまぁ・・・・・・てめぇ・・・・いいオトコになってぇぇぇ・・・・・・」



ぐすぐすと、ひときわ高く鼻水の音が聞こえる。
彼のシャツで、鼻でもかみそうな勢いだ。



「・・・うわぁ・・・・・・。ムードねぇ・・・なぁ・・・」

いいけどね、と彼女の様子に呆れたように息を吐いて。
そのままぽんぽんとまた、背中を軽く叩いてやった。

彼女が少しでも、安心できるように。


ぐす、と腕の中の女はまた小さく鼻を啜る。

いつもの調子を取り戻しつつある彼女は、
涙もようやく落ち着いてきたようだった。

























おまけシーン1






「・・・っていうか、おまえ、熱くない??」


気づいたのは、自分の鼓動がなんとか落ち着いてきてからだった。
しばらくそうしていても何も言わない、抵抗もしない彼女を少し不可解に思って、注意をそちらに向けた時。

雨の中に立っていたにしては、胸に当たる額が、腕を回した首や背中が、熱いように感じたのだ。



頭を内山の胸に預けながら、一度預けてしまった身体の重みを
自分に取り戻すことが出来なくなっていることに、久美子は気がついた。
数日前から感じていた億劫さは、風邪によるものだったのか、と今さら思い至る。


どんなに辛くても、苦しくても、這いつくばって這い上がって。
そういう人間に、せめて片手を差し伸べてやれるだけの・・・。

そんな力が欲しい。


気持ちだけ大きくても、身体が言うことを聞かないんじゃ笑ってしまう。


そう。
彼が言うように、自分は少し疲れているのかもしれない。
内山の問いかけにも答えられないまま、先ほどの彼のセリフを反芻する。

疲れている時でも、瞼の重さにさえ勝てない たった今だって、
あいつを信じていることくらいなら、いくらでもできる。

(だってあたしは、そのためにここにいるんだ)


一人でも、こうして
そんな自分のやり方を認めてくれる人間がいるなら、それでいいかと思った。

そしたら、肩の力が抜けた。
途端に急激に全身を疲労が襲って、自分の身体が支えられなくなってしまったのだった。


でも。
自分で支えられなくなっても、こうやって手を差し伸べてくれる人がいてくれる。
たまに甘えを許してくれる温かい手が。

誰かにとって、自分もそうなれるといいなぁ。
自分が今まで生きてきて、分けてもらったたくさんの幸せを、少しでも誰かに。
口にしたら、キレイゴトだと笑い飛ばされてしまいそうだけど、そんなの全然平気だ。

そう思って、久美子は微かに笑った。安らかな気持ちで。



そして。

(なんで、ここにこいつがいてくれるんだろう?)

朦朧とする頭で考えて、久美子は、なぜかまた泣きたくなった。












おまけシーン2






「母ちゃん!クスリどこ!」



『なんなのアンタはもう・・・。珍しく電話してきたと思ったら。』

他全部を省いて、いきなり本題を切り出す息子に、電話の向こうの母親は呆れた声を出した。



「いいから、クスリ!」

『クスリ?え?春彦アンタ、風邪でも引いたの?母さん、旅行中だから帰れないわよ。大丈夫なの?』

「え?あぁ、そういや社員旅行って言ってたっけ」

我に返って、電話口で内山はひとりごちる。

数日前、彼女の寝る前ぎりぎりに帰宅が間に合った時、言われたコトを思い出した。
すっかり忘れていた事実だったが、今はそれもさしたる問題ではないので
自分が風邪ではないことを付け足して、また同じ言葉を繰り返す。

「薬の場所くらい覚えなさいよね、まったく!」
自分の息子が健康であることをもう一度確認してから安心すると、軽く説教を加えながら
彼女はようやく最初の質問の答えを返した。

自分から電話をかけたクセにその息子はと言えば、
それを聞くと同時に、ろくな挨拶も入れず通話を終わらせパタムと携帯を畳む。
先ほどほのかに感じていた母への感謝はどこへやら、という風情だ。

しかし今はそれどころではない。
彼女の説教を大人しく聞く時間があるなら、もとより自分で探しているのだ。


なるべく音を立てないように忍び足で移動すると、確かに彼女が言った場所に、目的のモノはあった。

薬が必要な人間なら、自分の布団で寝ている。
一応言っておこうと思っていた言葉は、旅行で帰宅しない、という母親の言によって省略された。

他意があってのことではない。
帰宅した時に鉢合わせる、という可能性が無いならば、今すぐに必要な情報ではないと判断したからだ。

なにしろ相手はあのヤンクミなのだ。
何か聞かれて、言い訳に困ることもない。・・・よな?



「・・・ヤンクミ、起きられるか?」

そっと、額にかかった髪の毛をよけながら、目を覗き込むようにして
大人しく目を閉じる彼女に呼びかけた。


「・・・ぁ・・・悪ぃ…マジ寝しちゃってた・・・」

「いいから寝てろって」

むくりと起き上がろうとする彼女の肩を軽く押し戻した。

あの後本格的にヘバった彼女は、なかば引きずられるようにして、
公園から一番近場にあった内山宅に来たのだった。

余すところなく濡れていたジャージはとりあえずそのまま洗濯機へ。

今は何を着ているかと言うと……

もちろん、母のトレーナーにスラックスである。
・・・さすがにまったく似合っていなかったが。


その間、
二人の間に色っぽい展開、または雰囲気その他は、残念ながら皆無だった。

着替えまでは本人が自力でしたし、風呂場を使って彼女が着替えていた間、
内山は所帯慣れよろしく、洗濯物を慌てて取り込んだり、彼女の為に湯を沸かしたりしていた。


ただ、
彼と彼女の中に流れる優しい空気は、
また一つ、「大事な思い出」として消えることなく彼らの中に残るものだった。


それが今後、いくつかの出来事によって化学変化を起こすことがあるのかどうか。






それは、

カミサマだけが知っている。