impatient connection
まるで期待してるみたいじゃないか。
彼女は自分の思考に慌てて首を振った。
男の部屋から女が出てくるには、実に健康的な時間帯。
山口久美子は玄関の扉を外から閉めた。
特筆すべきことは何もない。
“今日も”彼女は彼…沢田慎の部屋を訪れ、
他愛ないおしゃべりと他愛なくない独創的な料理を作り、
いつもの悪態を聞きながらも楽しい時間を過ごしたのだった。
現在はと言えば、急いで帰れば「あいのり」に間に合ってしまいそうな時間である。
考えることと他の物事が同時にできない性質の彼女は、
玄関を辞したそのまま、マンションの廊下に立ち止まって
得意の百面相を灰色の夜空に披露していた。
恋愛ビギナーである久美子は、
もちろん「付き合い始めのぎこちなさ」も初めての経験である。
彼の執念深い…否、忍耐強いアプローチの甲斐あって、
ついに「憧れで満足する恋する乙女」から一歩前進を果たしたのが、1ヵ月ほど前のこと。
それまでの彼女はと言えば、
彼の部屋に足を運ぶのなんか、何でもないことだった。
彼が卒業してからだってお構いなく、
突然押しかけては夕飯を作ったり、学校で起こったことを相談しに行ったり、
お酒を飲んだ帰り道に立ち寄ったこともある。
…なんで今まで平気でそんなことできちゃってたんだ、アタシ…。
余りにも無自覚だった自分に愕然とする。
今のあの部屋は、彼女にとって、マウンドだと言っても過言ではないかもしれない。
自分が鳴らす玄関のチャイムが、「カーン」と頭に鳴り響くゴングに等しかった。
隙を見せたら負けだ。
違う。
年上の余裕をここで見せなければ。
違う。
なんであいつは何にもして来ないんだ!?(藤山先生の言ってることと違うっ)
だけど今までできてたことが急にできなくなるなんて、逆に変だと思った。
(あたしは怖がってなんかない!)
彼女はなかば意地になって平然を装い彼の部屋を訪れていた。
そのあからさまなぎこちなさに気づかれていないと、
心から信じているのが彼女が彼女たる所以である。
明日が祭日であることなんか、意識してないぞ、アタシは。
誰に対してか言い訳を試みても、部屋を出てしまった後では空しくなるだけだ。
これじゃまるで…。
無意識にもたれかかったコンクリートが、冷たくて気持ちいい。
今にも降り出しそうな空を見上げても星一つ見えないから、
このひんやりとした心地好さに慰められている。
もう暦の上では秋なのに、まだ蒸し暑さは続いていた。
「よし!」
帰ってお風呂に入って教科書でも広げよう。
手のかかる子ほど可愛い日本代表…みたいな自分の教え子たちを思った。
勤勉の望みは薄いと言っても、そろそろ進度の遅れを取り戻さなければ
進級さえ危うい生徒も少なくない。
何がなんでも全員揃って卒業させる!と常日頃から豪語している以上、
努力を惜しむつもりはなかった。
そうだ。
自分は恋愛にかまけている場合ではないのだ。
無理矢理思考をねじまげて彼女は帰路につくことにした。
間もなく、最終のバスが出てしまう。
家までは歩けない距離ではなかったが、慎の送ると言う申し出を固辞している手前、
不用心だと叱られるのは一度で十分だった。
もう行かなくちゃ。
彼女は打ち放しのコンクリートから振り切るように身を起こして、エレベータに向かった。
・・・そのタイミングは、なんと言えばいいんだろう。
後ろで玄関の扉が開く音がした。
振り返ったのは、音に対する条件反射。
エレベータのボタンを押した後の暇だった。
沢田慎が、煙草を片手に現れたのだ。
無造作に。
いつもと同じ無表情なのに見慣れないような気がして、目が離せなかった。
晴れて今年から堂々と吸えるとあっては、誰も文句は言えないが
やはり彼女は良い顔をしなかったので、彼女自身は吸う姿をまともに見たことはなかった。
それもあるかもしれない。
見慣れない、男の顔。
そして人の気配を感じて、ちらりとエレベータの方へ目をやった彼もまた、
思わず自分の目を疑った。
ついに自分は幻覚を・・・?
しばし呆然として我に返る。いくら何でもそんなわけあるか。
だったら何故居るんだろう。彼女がここに。
久美子が自分の部屋を出てから、もうバスに乗っていてもおかしくないくらいの時間は経っている。
そもそも最終のバスがまもなく出る時刻だった。
ただでさえ普段から何もないモノトーンの室内に、もし忘れ物があれば気づかないはずがない。
いくら考えても心当たりは見つからなかった。
それにしても何てタイミングだ。
彼もまた思う。
彼女が帰った後は煙草でも吸わなければやっていられない。
まるでそれを見透かされたような。
彼女は彼女で、どうにも動けなかった。
エレベータはちっとも来ないし、彼には特に用事もないのに目が離せない。
秘密がバレてしまった瞬間のような鼓動の高なりをどうしようもなかった。
「・・・何してんの」
くわえた煙草を取り落としそうになったのを立て直して、
とっくに居るはずのない彼女に向かって沢田慎が問う。
平静を装うことには長けている彼だ。
至極最もな質問だった。
「あー・・・、エレベータが来なくて」
間抜けとわかりつつ、他に言いようもなくてそう答えると、妙な間ができた。
間抜けついでに、エレベータが故障していたとかなんとか、
彼が納得してはくれないか彼女は期待したが
「じゃあ階段使えよ」
とまたごもっともな返答をされて
「そうだよねぇ・・・」
と曖昧に繋ぐしか術はなかった。
二人して上の空、みたいな、変な会話。
「・・・・・・・・・・・」
沈黙が続けば続くほど、言葉の代わりに心臓が出てきてしまいそうで
それ以上うまく声が発せられない。
下に見える駐車場に、車が一台入ってくる。
その音が、さらに沈黙を際立たせ、
そうこうする内にエレベータが彼女の後ろで小さな機械音を立てた。
「沢田に、会いたかったんだ」
彼女は真っ赤な顔で一言言うと、答えを待たずにその箱に飛び乗った。
逃げるように。
「え」という彼の呟きには聞こえないふりをした。
久美子は「閉」ボタンと「1F」のボタンを一気に押すと、
エレベータの扉が完全に閉まったのを確認してそのまま壁際まで後ずさる。
彼の顔は見れなかった。
今の自分の言葉もまた、間抜けだと彼女は思った。
たった今まで会っていたのだ。
でもそれ以上に適切な言葉は浮かばなかったから。
夜で良かったと思う。
赤い顔は見られなくて済んだかもしれない。
鼓動がこめかみにまで昇ってきて、小さな密室の中に心臓の音が満たされていった。
なんなんだ、この緊張感は。
胸元を掌でぎゅっと掴んだ。
乗っている箱は下降していくのに、天井つきぬけて成層圏まで。
むせるような気持ちを、胸元を押さえてやり過ごした。
いつの間にこんなに好きになってたんだろう。
それはもう怖いくらい。
名残惜しくて離れられなかった彼の部屋の前で、
本人に会えてしまった。
確率的には起こっても全然おかしくないことのはずなのに、
まるでそれが奇跡みたいに嬉しいんだ。
あの場で「好きだーーー!」と叫ばなかった自分は偉いと思う。
(なに言ってんだ)
なんで上手く言葉が出てこなかったのか、ようやく一人になって自覚した。
一階についてマンションの外を踏んだ一歩目が、
あまりにフワフワしていてじっとしていられない。
重たそうな雲が垂れ込める灰色の夜空に似つかわしくない
うきうきした気分だった。
「おいっ」
「ひゃっ!?」
突然。
彼女は、今にも浮いてしまいそうなその肩を掴まれた。
心臓が今度こそ飛び出るかと思った。
目をまん丸にして、何も出てこないように胸を抑えつつ振り返ると、
そこには沢田慎がいた。
「え・・・・瞬間移動?」
「なにバカ言ってんだよ。・・・・・・・傘」
「・・・・へ?」
走って降りてきたのか呼吸を整えつつ、彼はビニール傘を彼女に差し出す。
間の抜けた声を出した彼女の頬に、雨粒が一つ落ちてきた。
「あ、・・・あぁホントだ」
空を見上げて彼女が言うと、その肩から彼の手が離れる。
「あ」
「え?」
思わず声を出してしまってから、彼女は赤面した。
「なな、なんでもない」
離れた手を寂しく思うなんて。
自分の思考はすでに宇宙規模におかしくなっている。
訳がわからず彼は、彼女の表情を追った。
「おまえ・・・大丈夫か?なんか、おかしくない?」
「お、おかしくないよ!全然、大丈夫!」
久美子が慌てて答えると、ますます疑わしげな視線を向けられた。
泳ぐ目を捕まえられて、ますます体温が上がるのを感じる。
いつまでも傘を受け取ろうとしない彼女に、彼はそれを開いてかざした。
降り始めの大きな粒が、低い音を立ててビニールの表面で弾ける。
それでとっとと歩き出せばいいのに、彼女の足は一向に動こうとしなかった。
「お・・・おかしいのかもしんない」
観念して白状した。まな板の上の鯉の気分だ。
彼女は俯いて、彼独特の強い瞳の直視を避けた。
「・・・どうした?」
年下とは思えない、優しい響きを頭上に聞く。
傘以上に、自分を守ってくれている存在を感じた。
いつのまに、ホントに、こんなに。
それはもう、悔しいくらい。
「どうしよう。・・・泣きそうだ」
感情が溢れて、自分という器では間に合わなくなってしまう。
こぼれてしまうのは勿体無いくらい、心地いいのに。
傘を持たない、あいている方の彼の手が、彼女の頬にそっと触れた。
あごを引き上げる。
「大丈夫か?なにかあったのか?」
もう一度同じ質問をした。
彼の気遣う色が強くなって、彼女は慌てて首を振った。
「や、ゴメン。違うんだ。なんかあったとか、そんなんじゃなくて・・・」
「・・・・・・・」
「なんと言ったらいいのか、その、つまりな」
言葉を探しても、いつものことながら上手くはいかない。
単純なことなのに、どこかでこんがらがって目を瞬くばかり。
まるで本物の鯉のように、言葉を選べないまま
何度か口をパクパクさせる、彼女の動作がそこで止まった。
彼の表情が、そう言っていた。
瞳の奥でちらりと揺れる、情動。
彼の感情は、こうやって溢れて、零れ落ちるのか。
彼女はやけに冷静に、それを受け止めた。
この先に起こることを、激しくなる鼓動と別のトコロで、正確に知る。
それを飲み込むように瞼を閉じた。
二人の唇が重なる、数センチ手前。
その隙間を、大きめの車のエンジン音が通り過ぎた。
住宅を挟んだ通りの向こうでした、
トラックとはまた違うその音を二人の耳が聞き分ける。
「あ・・・」
「バス、行っちゃったな・・・」
呟いて、間近で目を見合わせた。
傘で隔てられた現実の世界に引き戻されて、思わず二人は吹き出す。
未遂で終わったキスを惜しむ気持ちは、お互いに気づかぬ振りをした。
「・・・まぁ、おまえに何もないなら、いいんだけど」
彼は気が抜けたように笑って、彼女の隣に並んだ。
「今日は送る」
有無を言わせない、でも優しい言葉を、とてもぶっきら棒に彼が言う。
照れ隠しだろうか、こちらを見ないままなのが何だか可笑しかった。
それを見上げて、彼女ははにかむ。
「うん」
久美子にしてみれば、
一緒に居られる時間が長くなったことに対する単純な喜びだったのだが、
彼にはその満足げな返事が面白くなかったらしい。
片眉を上げて、隣を見下ろす。
「なに安心しきった顔してんだよ。・・・そのうち襲うぞ」
その低い呟きに、彼女の片側がぴしりと固まった。
こうしてたまにプレッシャーをかけておく必要がある、と彼は思う。
その度に、平気なふりをされ、警戒されまくるのは分かっているのだが。
未だにキスもできていないなんて、自分の不甲斐なさも相当なものだ。
情けなくて、こっそり溜め息を吐く。
「・・・・・・・きょ、今日でもいいんだぞ」
彼の思考を、彼女の声が遮った。
意を決して棒読みになった、その言葉の意味を捉え損ねて沢田は考える。
「・・・・・・・」
思わず正面から彼女を見ると、真っ赤になった彼女が
まるで勝負でも挑むようにこちらを見上げていた。
・・・さあ、明日はどっちだ?
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impatient connection・・・「もどかしい関係」
いらいらしちゃって、すぐくっつけたくなっちゃうタイプなので
今回はこれをテーマにがむばりました(笑)
途中で久美子さんがエレベータに乗れない展開だとか、
エレベータで沢田が・・・とか、
腕を掴まれ玄関に引き込まれる久美子さんだとか、
散々・・・もうそれでいいじゃねぇかと何度も脱線しましたが(脱線?)
(↑パラレル妄想ワールド)
付き合い始めの、不安と期待と、お互い好きなのにすれ違いまくるというか
まだ触れるのもぎこちない感じとか、そこまでちゃんとは書けなかったけど、
そういうのが少しでも伝わると良いなぁなんて。
そんでその時期の男って、妙に優しい・・・んじゃねぇかと。(え?そう思うのアタシだけ?)
考えてみるとアタクシ、この二人のそう言う時期って
ほとんどすっ飛ばして書いてたんでした。
だからダメなんだってば、そーゆーじれったいの。笑
まぁ最後で我慢できなくなって
久美子さんに核心的なセリフを言わせてしまいましたが・・・
この後も何かを間違って
二人ですれ違い街道まっしぐらしていただいても面白いかと存じます。
いやー・・・実際、
カレカノじゃない時期が長かったカップルって大変だと思うのよ(笑)
合掌。